目次
- 日本のファッションに大きな影響与えた「景気の波」
- バブル景気突入前夜の『Hot-Dog PRESS』
- ヒップホップ黎明期の“若き実力者達”
- “牛を一頭送りつけてやった”秋元康
- “ひとりよがりのコーディネイトはもうしたくない”
- 黒のMA-1とバッファロースタイル
- フォーマルアイテムでドレスアップが80年代の特徴
- “ツイードの帽子は、一回にぎりつぶしてからかぶる”
- “オシャレの天才・藤原ヒロシくんのスタイリング”
- 音楽プロデューサー藤原ヒロシとアイドル小泉今日子の関係
- 小泉今日子が「オシャレ」な理由
- ジーンズ×テーラードジャケットのドレッシーなバブル期スタイル
- “米・仏・英・伊ニュージーンズ大旋風”
- ヒップ・ホップ・ファッションは黒人たちのチープ・シック・ファッション
- ロシアンファッションの火付け役はゴルバチョフ書記長夫人
- “オール古着なんてヤだもんね”
- バブル突入前夜のリアルなコーディネイト
日本のファッションに大きな影響与えた「景気の波」
以前の記事で公開した、年表「日本の政治経済とメンズファッションの歴史」。
今回の記事のために少しだけバージョンアップして、バブル景気などの好景気の時期をわかりやすくしてみました。
まだまだ分析が足りていませんが、景気の良し悪しはこれまでファッションに大きな影響を及ぼしてきたと感じています。
戦後何度か訪れた大きな好景気のなかでも、1986年12月から1991年2月に訪れたとされるバブル景気は日本のファッションに最も大きな影響を与えた、というのが僕の持論です。
バブル景気の頃のファッションは見ていてとても楽しいので、これまでの“ファッションアーカイブ”で何度もご紹介してきました。
バブル景気突入前夜の『Hot-Dog PRESS』
そして、今回ご紹介するのはそんなバブル景気突入前夜と言える、『Hot-Dog PRESS』1986年11月25日号です。表紙のスタイリングにはディズニーキャラクターのバッジが付けられています。
上掲の年表にも記載していますが、東京ディズニーランドが開業したのが1983年。
https://www.pinterest.jp/pin/552042866837858133/
実はこの1986年に当時小学1年生だった僕も、神戸から家族で東京ディズニーランドに遊びに行きました。
表紙裏。全編を通じて広告はオーディオが多め。
“HDP'S VIEW”という、巻頭のミニニュースページ。最初はロン・レゼックというミニマルな雰囲気のアメリカの家具デザイナーについて。
1990年代終盤の『Hot-Dog PRESS』をリアルタイムで読んでいた僕的には、『Hot-Dog PRESS』はかなりカジュアル、悪い言い方をすれば低俗な印象があったのですが、この頃は映画や音楽などを高尚な雰囲気で紹介しています。
ヒップホップ黎明期の“若き実力者達”
右ページ、“ヒップ・ホップセカンドゼネレーション”を執筆しているのは、ミュージシャンの近田春夫さん。
“ヒット・チャートをも席巻するヒップ・ホップの若き実力者達”の筆頭に挙げられているのが、“アルバム『レイジング・ヘル』も大好評のRUN D.M.C”。
1986年当時、日本においてまだまだヒップホップは新しい音楽でした。
近田春夫さんは“ヒップホップはこれからどうなって行くにせよ絶対にすべての音楽を越えてまったく今までと違う価値観を人類に提示することだろう”“ただハッキリ云って、もう(いわゆる)ロックはださいのだ。あんなモノ聴いてるんだったら死んだ方がマシ”と、この頃相当ヒップホップに熱中していたようです。
RUN D.M.Cと共に紹介されているのが、L.L.COOL Jのアルバム『レイディオ』。
“ヒップホップには珍しい白人3人組のビースティ・ボーイズ”のデビューアルバム、『ライセンス・トゥ・イル』
今やヒップホップの大御所となっている3組が、まだデビュー前後の超若手。
1986年がヒップホップ黎明期だったことがよくわかります。
“牛を一頭送りつけてやった”秋元康
『Hot-Dog PRESS』の名物、作家北方謙三さんの連載「試みの地平線」。
そして、当時はなんと秋元康さんも連載をしていました。「ペーパーノイズ」と題された日記です。当時から放送作家から作詞家など幅広く活動していた秋元康さん。“国生さゆり”“原田知世”“研ナオコ”など、芸能人の名前も多数登場しています。“貧乏くさいことを言う”事務所スタッフの実家に“牛を一頭”“送りつけてやった”というバブル全盛期ならではのエピソードも。
“ひとりよがりのコーディネイトはもうしたくない”
ここからが今号の特集、“最新コーディネイト完全マニュアル 冬の流行、こう着こなす!”。
特集で紹介されている着こなしを見てみると、今も参考になりそうだったり、逆に全くもって別次元のようなファッションだったりと、かなり面白い内容だったので、今回は着こなしに焦点を絞ってご紹介していきます。
“流行コーディネイト上手のための5つの誓い”。なにも誓わなくても、と思いますが笑。“僕たちはひとりよがりのコーディネイトはもうしたくない”の内容が結構興味深いです。
“自分だけがイカすなんて思いこんでいるだけで、彼女も友達もほめてくれない。本人が楽しんでればほんとうはそれでいいんだけど、でも、やっぱり少しは悲しい”
“自分の感覚と彼女や友達の感覚とのバランスを知っておいかなきゃいけないんだね”
という文章には「確かに」と思わされました。
“この冬のテーマ・カラー赤の着こなし大研究”。スタイリングに使われいる服は、タケオ・キクチ、チューブ、イサム・メンなどの日本のDCブランド、そしてポール・スミスなど。
DCブランドブームの頃はジャケットにシャツという、フォーマル度が高めのコーディネイトが主流なので、カジュアルがメインの2023年現在の感覚からはちょっと遠いかもしれません。
ちらりと見えるタートルネックと靴下の色を揃えるスタイリング。洒落てますね。
黒のMA-1とバッファロースタイル
“冬の基本アイテム「これはこう着る!」”という、アイテムを軸にしたコーディネイト提案。
最初は“今爆発的に売れている”MA-1。中でも“今年に入って黒が売りだされ、今もヒット中なのがこの“黒のMA-1”。夏も終わらないうちから売れ始め、売り切れ店が続出だとか”とあります。
そして、提案しているのが“ここはひとつTシャツとジーンズ・コーディネイトを脱けだして、フランスっぽく、黒をベースに、帽子や小物で演出してみよう”というスタイリング。
ですが、このスタイリングは1986年頃に人気だったイギリス発祥のファッション、バッファロースタイルの影響が強いように思えます。
https://www.pinterest.jp/pin/237494580347320433/
https://www.pinterest.jp/pin/646548090272936474/
書籍「WHAT'S NEXT? TOKYO CULTURE STORY」では、1986年のトレンドとしてバッファロースタイルが紹介されています。
WHAT'S NEXT? TOKYO CULTURE STORY(Amazon)
バッファロースタイルについての説明文を引用します。
"KILLER" と描かれたグラフィックが印象的なハットやスコットランドの民族衣装であるキルトに、MA-1 やハードなブーツを合わせたコーディネイト。シックでありながらも軽妙さを感じさせる着こなしは、モードファッションと機能・ミリタリー・スポーツといったキーワードの融合を連想させる。いまでこそあたり前になった“モード×スポーツ”のかけ算だが、当時それを提案していたのがロンドンで活躍していたスタイリスト、レイ・ペトリである。スタイル名にある "バッファロー”とは、彼が中心となって構成されていたクリエイティブ集団のこと。UKのストリート誌が輸入され、日本のシーンにも影響を与えたのだ。この他にもボクシングパンツやジャージを取り入れた着こなしを当時から発表していた。
そして、バッファロースタイルのキーアイテムとしてMA-1もこう紹介されています。
ミリタリーアイテムの王様といっても過言ではないMA-1。特に黒は人気を集めた。様々なテイストをコーディネイトに取り入れるのが、バッファロースタイルのセオリーだ。
そして、『Hot-Dog PRESS』が提案するコーディネイトにも、黒のブーツやタータンチェック柄など、バッファロースタイルに通ずるアイテムが散見されます。
フォーマルアイテムでドレスアップが80年代の特徴
次は“Wジャケットはジージャンとレイヤードでフランス風に”という、なんともアヴァンギャルドな提案。
とはいえ、ジャケットは“素材は上質なメルトンウール”なので、コート的な着方だと思われます。
Gジャンに合わせているパンツは千鳥格子。千鳥格子、最近ではなかなか見かけることがなくなった柄です。
“縦縞ジャケットはリボンタイでスクール・ボーイ風に”
“ニーロン・パンツはバルキーニットでよりスリムに見せる”
ストライプ柄のテーラードジャケットも、近年は見なくなったアイテムだと思います。フォーマルなアイテムでドレスアップするのが、80年代のメンズファッションの特徴と言えるでしょう。
“ニーロン、これは仏語。英訳すればナイロン。つまり、ナイロン・パンツのこと”だそうです。ケーブル編みのニットに黒のテーパードパンツ、レザーシューズというコーディネイトは格好良いですね。
“タートル・ニットは帽子でアクセントをよりトップめに”。
タートルネックニットはアニエス・ベーのもの。ベレー帽を合わせるのは、かなりハードルが高そうに思えます。
こちらはタートルネックニットの上からシャツを2枚羽織るスタイリング。
右ページ、三菱電機のビデオデッキはマドンナに目を取られてしまいがちですが、VHSでもベータでもなく、なんとHi-Fi。そう言えば80年代終盤に我が家で使っていたビデオカメラもHi-Fiだったことを思い出しました。
“黒のダッフルコートはインナーをカラフルにして楽しく”。このコーディネイトも格好良いです。
インナーの派手なワッペン付きトレーナーは、今も原宿に店を構えるパンクショップ、ア・ストア・ロボットのもの。
ア・ストア・ロボットが日本のファッションに与えた影響は少なくありません。いつか、“ファッションアーカイブ”で掘り下げてご紹介できたらと思っています。www.musicman.co.jp
このページから、グッズ類になります。
“チロリアン靴は、タータンやアーガイルでエスニックぽく”。
ボリュームのあるチロリアンシューズに、タータンチェック柄のマフラー、真っ白のヘアバンド。こちらも、今真似しても良さそうなコーディネイトです。
“エナメルやファーの靴は、パンツのすそをしぼって履く”。
かなりドレッシーなシューズ。
エナメル素材のレースアップブーツという、かなりインパクトのあるアイテム。
“アザラシの毛皮が全体をおおっているファーの靴”はメンズ・ビギのもの。
“エナメルとハ虫類のコンビ”なんていう、かなり迫力のあるシューズもピックアップされています。
“ツイードの帽子は、一回にぎりつぶしてからかぶる”
“もう、街中にあふれているから、いまさらいうのも気がひけるけど、とにかく今年の頭は帽子できめるのが常識”ということで、1986年当時は帽子人気が非常に高かったようです。
そして、提案する着こなしは“ツイードの帽子は、一回にぎりつぶしてからかぶる”。“使いふるしたように見えるとカッコいい”からだそうです。
右下のキャップは、グッチのブートもの。取り扱いは原宿の古着屋、デプト・ストアで、2,800円。
右ページ、缶コーヒーの広告はマラドーナ。缶のデザインが洒落てます。
“ウエスタン調ベルトは、ループを通さず締める”。
かなりネイティブ・アメリカン調を中心に、個性の強いデザインのベルトが並んでいますが、上掲のア・ストア・ロボットやハリウッドランチマーケット、そしてメンズ・ビギなどがこういうベルトを扱っていました。
“合わせる色に悩んだ時は、黒を選べば間違いない”
次は一転して、“誰でもできる実用配色テクニック”。
“合わせる色に悩んだ時は、黒を選べば間違いない”。1980年代はヨウジヤマモト、コムデギャルソンの「黒の衝撃」が牽引したカラス族がブームになり、黒が一気にファッションの色として浸透しました。
“流行のアース・カラーは青と合わせればひきしまる”。
“派手すぎ渋すぎはトーン差を利用して解決する”。
お次は柄。
“千鳥格子は柄の大きさで着こなし方を変えるのが正解”。
かなり多数の千鳥格子アイテムが集められています。
いかに当時が千鳥格子の人気が高かったのかがわかります。
“オシャレの天才・藤原ヒロシくんのスタイリング”
次は今号の僕的No.1ページ。
“KYON2から学ぶ3つの着こなし”。『小泉記念鑑』という“高級写真本”に掲載されている写真をピックアップして編集した、プロモーション的なページです。
スタイリングに名を連ねているのは、あの藤原ヒロシ。
この“キューティー・パンクス”というコーディネイトは“オシャレの天才・藤原ヒロシくんのスタイリング。洋服とクツは彼の私物で、セディショナリーズ”。そして“今、ちょうど10年前くらいのファッションのヌーベルものが旬です。例えばコレ、パンクの生みの親、ビビアン・ウエストウッドの初期の作品。DCブランドの最新作ばかりに目を向けてないで、手持ち物をチェック”とありますが、当時は誰もが初期セディショナリーズのアイテムを所有していたものだったんでしょうか。
続いて、“これも藤原ヒロシくんのスタイリング。洋服とクツは彼の私物で、すべてワールドエンド”。
ヴィヴィアン・ウエストウッドについては、長い長い自叙伝を読んで書いた過去記事がありますので、是非チェックしてみて下さい。
左の“バンカラ・ナイーブ”のスタイリングは藤原ヒロシさんではありません。が、こちらのスタイリングも格好良いです。
“KYON2 CHECK”。小泉今日子さんが語るオシャレ、的な内容です。
“『小泉記念鑑』には、ドキッとする写真が掲載されている”。後述しますが、当時はこういった写真が話題になっていたようです。
音楽プロデューサー藤原ヒロシとアイドル小泉今日子の関係
藤原ヒロシさんと小泉今日子さんの関係性は、書籍「丘の上のパンク」で詳しく描かれています。(強調引用者以下同)
丘の上のパンク -時代をエディットする男、藤原ヒロシ半生記(Amazon)
小泉今日子:『小泉記念鑑』(86) っていう写真集を作っていたとき に、いろいろな人たちがスタイリングに参加してくれて、ヒロシくんからも〈セディショナリーズ〉のスーツを借りたんですよ。で、 そのときもたぶんテープをくれたと思う。
『小泉記念鑑』は、総監督が秋山道男、アート・ディレ クション&デザインが仲條正義、写真が小暮徹、三浦憲治……………チェッカーズをブレイクさせた秋山らしいすこぶる高級なスタッフィングである。メディア的にはキョンキョンのカラフルな魚拓ならぬ人拓やビートたけしによるお姫様だっこといった辺りが話題となった が、HFがスタイリングした2点のうちの一つは、コイズミに〈セディショナリーズ〉のパラシュート・シャツを着せ、ボンデージ・ パンツを足下に下ろさせた大胆なものである。
「丘の上のパンク」では、藤原ヒロシさんは「HF」と略されて表記されています。
そしてその後、藤原ヒロシさんと小泉今日子さんは音楽を軸にした仕事を共にするようになります。
二人の出会いから3年後、89年4月から東京FM(現・TFM)で 小泉今日子のレギュラー番組 「KOIZUMI IN MOTION」が始まった。 近田春夫ブロデュースによる「KOIZUMI IN THE HOUSE」 (89)のドロップが決まっていたことや、ディレクターが「ナウ・ ゲリラ」担当の野川和夫というアイドル音痴ということもあり、ブレーン&準レギュラーをいとうせいこう、HFが、選曲をHF、石井亮、泉谷隆が、ネタ提供者を松沢呉一、高城剛、前田正志が、構成を川勝正幸が担当した。
90年7月、小泉今日子はクラブ・ミュージックへの歌謡曲からの回答と言ってよいアルバム『N°17』を発表する。
タイトルは、彼女の17枚目のオリジナル・アルバムだからというシンプルなアイディアと聞くが、表記の仕方や初回限定のクロス装ジャケットのデザイン(表1の蓄音機に耳を傾けるビクターの犬の マークの強調など)を含め、クラシックのアルバムを模しているの が洒落ていた。タイトル案は作家の花村カナ、アート・プロデューサーはHFとビクターの茂木ノブオである。
ラヴァーズ・ロックの「La La La・・・」、ドーン・ペンの隠れたレゲエの名曲「No No No」をリヴァイヴァル前にサンプリングした 「YOU DON'T LOVE ME (NO NO NO)」、ハウス・ミュージック の「ドライヴ」に、フォーキーな 「Heaven」······と17曲中14曲がHIROSHI&GOTA(屋敷豪太)のプロデュースによるロンド ン録音で、残り3曲がHIROSHI&ASA-CHANG(当時、 東京スカパラダイスオーケストラのリーダー)プロデュースによる東京録音であった。
6曲のインタールードの挿入も含め、CDの収録時間に対応した、 当時のヒップホップ・アルバムのワールド・スタンダードな構成である。
エンディングのアン・ルイスのヒット曲「グッド・バイ・マイ・ラヴ」の原曲を解体しながら、メロウネスを残す手腕は見事だった。 小泉は、秋元康作詞でアイドルがアイドルについて自己言及するメタ歌謡「なんてったってアイドル」 (35)を大ヒットさせたあと、 しばらくしっとりとしたシングルが続いたものの、近田春夫プロデュースの、ブレイク前の小西康陽(当時、ピチカート・ファイヴ) も参加したアルバム『KOIZUMI IN THE HOUSE』で歌謡曲・ ミーツ・ハウス”を遊んだ。
小泉今日子:初めはもっとやりにくいかなと思ってたの、詞を乗せるのも歌うのも。ヒロシくんが私の声を気に入ってくれて、それに合う作り方をしてくれた気がする。メロウな曲もあれば、ちょっととんがった曲もある。でも、乱暴じゃない、品がいいっていうか。 だから、私のパンチがない声(笑)と上手く絡んだ感じ。レコーディングも楽しかったしね。ヒロシくんは歌について細かくは言わないけれど、歌う気分を盛り上げてくれるプロデューサーだった、案外。笑い声を録るときは本当に笑わせてくれたり。急に煙草を吸いながら、ブースに入ってきた!
『N°17』は現在、Amazon MusicやSpotifyなどのサブスクで聴けるようになっています。
僕は今回『No.17』を初めて聴いたのですが、30年以上前の作品とは思えないファッショナブルな雰囲気に驚きました。
音楽メディアでは以下のように評されています。
彼女はプロデューサーに藤原ヒロシや屋敷豪太、ASA-CHANGといった、国内外のクラブミュージックに精通した人物たちを起用。ダブやラヴァーズ・ロック、UKソウル(グラウンドビート)などに接近した音楽性を披露している。同年のオリコン年間チャート上位がLINDBERG「今すぐKiss Me」やプリンセス・プリンセス「OH YEAH!」といった、明快で勢いのあるポップソングで多数占められていた状況を鑑みると、『No.17』のマニアックで静的なサウンドデザインは、国内の流行の逆を突く”冒険的”なものだったと言えよう。
藤原ヒロシは80年代中盤より、クラブDJとしての活動のみならず、高木完とのユニット “タイニー・パンクス(TINNIE PUNX / TINY PANX)” として、いとうせいこうと共に日本でいち早くヒップホップ作品を発表。1988年にはレーベル “MAJOR FORCE” を設立するなど、日本国内における “クラブミュージック”の発展に多大な貢献を果たした存在である。当時のMAJOR FORCEの先鋭性は、2018年にレッドブル・ミュージックでも特集が組まれるほど強いインパクト・影響を残すものであった。
そして、『No.17』にも収録されている「La La La・・・」のプロモーションビデオは、藤原ヒロシさんと「ハイパーメディアクリエイター」としても知られる高城剛さんとの共作です。
小泉今日子が「オシャレ」な理由
僕は1980年生まれで、1986年当時の小泉今日子さんについての記憶は全くないのですが、僕よりも一回り上の世代の人たちにとって小泉今日子さんは非常に「オシャレ」な存在で、他のアイドルとは一線を画していた、という声をよく聴きます。
「丘の上のパンク」では、小泉今日子さん本人もそのことについて語っています。
小泉今日子:『N°17』は、好きな自分のアルバムの3位以内に入っています。当時、10代で買ってくれたコたちが、今、30代になって洋服とかお店とかやっていて、最近、そのコたちからうちらのバイブル”だったって言われたりしますよ。カルチャーの師匠が、ヒロシくんとか私とか(スタイリストの野口) 強くんとかなんだって。「へえー、歳を取ることもいいことだ」なんて思ったりする(笑)。 「N°17」は自分の心の中や環境を自分の詞で表現したちっちゃな世界だったわけ、友達に近況を話すみたいな気持ちよさというか。わりと若いうちから周りに田村さんみたいな大人がいたから、けっこう自由にやってたのに、「大人に遊ばれてるかわいそうな子供」みたいな見られ方をしてちょっと悔しかった。80年代は評論家たちか ら「キョンキョンが推薦すると本が売れる」とか言って、持ち上げられたり批判されたり。そういう意味では、『N°17』は子供同士だ って物は作れますよ、ってある種の宣言だったのかもしれない。
『N°17』を発表したとき、小泉は24歳、HFは26歳だった。
小泉今日子さんは、藤原ヒロシさんをはじめとした当時最先端のカルチャーを発信する人たちとの交流を深めることで、その「オシャレ」なイメージに磨きを掛けていたのでしょう。
80年代末から90年代前半のキョンキョンはCMに大量露出し、TVドラマに出演し、主題歌を歌いながら、一方でアンダーグラウンドなカルチャーをお茶の間に届けるアンプのような存在であった。
ジーンズ×テーラードジャケットのドレッシーなバブル期スタイル
着こなし特集に戻ります。
“ジーンズは、シルエットに合わせてジャケットを選ぶ”。
ジーンズもテーラードジャケットと合わせてドレッシーな雰囲気に仕上げるのがバブル期スタイル、といったところでしょうか。
“ステンカラーは前を閉じて、手袋やマフラーで遊ぶ”。
2023年秋冬はコートが復権しているようなので、こういった着こなしも参考になるかもしれません。
“パーティのために派手やかなワン・アイテムを手に入れる”。パーティーシーンでの装いを提案しているのもバブル期ならではでしょう。
“米・仏・英・伊ニュージーンズ大旋風”
左ページは、エドウィンのジーンズ広告。
次ページはその続き。
“米・仏・英・伊ニュージーンズ大旋風”。
“アメリカン・クラシック”、“フレンチ、クラシック”、
“ロンドン・スリム”、“ワイド・ミラノ”と、ちゃんとジーンズのデザインやシルエットを4カ国のイメージに合わせていて、なかなか見事だと思います。
『Hot-Dog PRESS』別冊のデートブック広告。表紙のイラストは江口寿史さん。
モノクロページは“この冬の流行素材の着こなし研究”。
“着こなしのスパイスが探せる店20”。
原宿の古着屋、メトロ・ゴールドで販売されているのは“40年代のリーバイスのGジャン¥88,000。デッドストックだから状態はバツグン”。
“流行アクセサリー活用テクニック事典”。
ファッションに対する当時の熱量の高さが感じられます。
“ビデオ・クリップからミュージシャンの着こなしを盗む”。
冒頭でもピックアップされていたランDMCの代名詞でもある紐なしスーパースターの紹介されています。
ヒップ・ホップ・ファッションは黒人たちのチープ・シック・ファッション
“話題の着こなしを成功させるワン・アイテム”。
ここからはブランドアイテムを軸にしたコーディネイト提案。
“ケンゾーのコートとアーガイルで、カントリーレトロ”。
“エルメスのスカーフを自在に巻いて、フレンチ・ポップ”。
“ピカデリーのジージャンを小物で遊べばパニナーリ”。
僕的にピカデリーは1990年代終盤に大ブームとなったスリムフィットジーンズの印象が強いブランドです。
右ページ、マンダム広告は松田優作さん。
“カール・ヘルムのジャケットとゲートルでチロリアン”。
先ほどシューズもピックアップされていましたが、チロリアンも当時のファッションのキーワードだったようです。
“Dr.マーテンも編み上げブーツを選べばヒップホップ”。
紹介文が当時のヒップホップファッションの状況を知るうえでなかなか興味深いので、引用します
“ブレイク・ダンス、スクラッチ・DJ、ラッ プ・ミュージック…ニューヨークはブロンクスに発生し、たちまち世界中に広がったこのス トリート・カルチャーがヒップ・ホップ。そしてそのカルチャー・ムーブメントを支える黒人たちのチープ・シック・ファッションを元に生まれたのがヒップ・ホップ・ファッションだ。
ラン・DMCの「マイ・アディダス」のヒット以来、彼らの中であの3本ラインが爆発的人気となったことは、もうみんなも知ってるよね。
さて、まさに楽しくなければファッションじゃないといった遊び心に徹したアイデア・カジュアルの象徴ともいえるこのヒップ・ホップの着こなし。手っとり早くは、アディダスのシューズやトレーニング・パンツをはけばいいのだけれども、何も3本ラインばかりがヒップ・ホップじゃない。シューズには敢えてドクター・マーテンの編み上げタイプのヘビーな物を選び、 ボトムはかなり派手めのロンドン・ストライプ (白地と比較的太い縞が等間隔に並んだストライプ)などのスパッツでキメたい。単なるスポーツ・ ルックになりがちなヒップ・ホップの着こなしも、これならかなりファッショナブルになる。 さらに、ニューヨークで流行っているグッチの コピー物のTシャツやトレーナーを揃えれば、 お洒落なヒップ・ホップの完成だ”
特に興味深いのが“黒人たちのチープ・シック・ファッションを元に生まれたのがヒップ・ホップ・ファッション”というポイント。なるほど、そう言えばそうだな、とかんじました。
ロシアンファッションの火付け役はゴルバチョフ書記長夫人
“J.P.ゴルチェのコートにスパッツ組ませて完璧ロシア”。
ここでロシアのファッションが提案されている理由が非常に興味深いです。
“ここにきて、ロシアン・ファッションが注目されてきた。 昨年の冬、ソ連のゴルバチョフ書記長夫人がフランスを訪れた際、彼女のコスチ ュームが、灰色の空と暗いイメージの強かった パリの冬に実に新鮮に映り、J・P・ゴルチェ をはじめと する人気デザイナーが、今年のパリ・コレでロシアの匂いのする服を発表、これがロシア・ファッション・ブームのきっかけとなった”。
ほんまかいな、と思ってしまうエピソードです。
“オール古着なんてヤだもんね”
“竹下通りアイテムで、チープにロンドン・レトロを楽しむ”。
“DCブランドでロンドン・レトロしようと思えば高くつく。といって、オール古着なんてヤだもんね”という文章に、当時は古着のファッションアイテムとしての地位が低かったことが伺えます。
“キミを一番ひきたてるのは、この色とこのアイテムだ”。一応診断してみると、僕は「NATURAL」でした。“アメリカテイストで行こう!”とのこと。
バブル突入前夜のリアルなコーディネイト
左ページ、“元祖FASHION WATCHING”。選者は服飾評論家で、後に伝説のメンズファッション誌『MR』などにも寄稿していた出石尚三さん。
こちらがバブル突入前夜、1986年のリアルなコーディネイト。
誌面で提案されているのと同じように、テーラードジャケットやシャツ、コート、レザーシューズといったフォーマルなアイテムが中心。
黒も多いですね。
15歳〜18歳と年齢層が低いのも印象的です。
ミドルティーンでもこういったフォーマルな装いをしていた点は、バブル期の特徴と言えるでしょう。
BOØWYインタビュー。
東海銀行の広告キャラクターはタッチ。「さあ、<東海>で幸せにタッチ」というキャッチコピー。
こちらはスキー特集のページですが、左端の広告が気になりました。
“これぞ本物ラバーソール!”“ココロはすっかりロンドンッコ”。
これが“本物”だったのかどうかはわかりませんが、こうやって広告が出るということは、当時ラバーソールは人気があるアイテムだったのでしょう。
裏表紙はボブソンのジーンズ。