目次
- 第二次世界大戦終結から東京オリンピックまで
- 1970年代~1980年代初頭までのファッションの流れ
- 「とらえどころがなくて、少しガッカリ」のコムサ・デ・モード
- 特集「中古感覚の服」
- 伝説の「黒の衝撃」穴あきニット
- 当時は「黒」よりも「中古感覚」が新しい価値観だった
- 縮絨の前身?コムデギャルソンの加工方法
- 中古感覚の服は着る人の愛着を最初から持っている
- アウトロ:「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と「ジャパニーズ・デザイナー・アズ・ナンバーワン」」
第二次世界大戦終結から東京オリンピックまで
今回ご紹介するのは、「アンアン」1982年9月10日号です。
雑誌の内容をご紹介する前に、まずは第二次世界大戦が終結した1945年から、1982年に至るまでの政治や経済の状況をざっと俯瞰してみます。
焼け野原の中から始まった戦後復興は、1950年に勃発した朝鮮戦争が大きな成長の弾みとなります。
朝鮮戦争は国内企業が積極的な設備投資をはじめるきっかけとなり、産業間の連関関係を通じて各産業の設備投資が連鎖的に拡大する「投資が投資を呼ぶ」という状況を生み出します。
1951年にはサンフランシスコ平和条約が結ばれ、翌年の1952年にはGHQの占領が終了。
1954年末から本格的な経済成長が始まり、1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」と宣言されます。
政治においては、自由民主党が与党、そして社会党が第一野党となる「55年体制」が成立するなど、政治、経済共に戦後日本の土台が固まります。
1955年から1973年まで、日本経済の実質成長率は年平均で9.2%以上の成長を続ける、高度経済成長期を迎えます。
この間、日本はGNP規模で先進諸国を次々に追い抜き、1968年にはアメリカ、ソビエト連邦につぐ世界第3位の経済大国へと躍進しました。
日本の高度成長を支えたのが、農村部から都市部に流入した若者です。
高度成長が始めると、東京圏、関西圏、名古屋圏の3大都市圏を中心とする太平洋ベルト地帯の工業が発展します。
この頃、アメリカを中心とする諸外国から生産技術だけでなく、原価管理やオペレーション、経営管理などの経営手法が導入され、生産性が大幅に向上し、それに伴って賃金も上昇し、若年層の農村部から都市部への流出が進みました。
1960年に発足した池田勇人内閣は、看板政策として「国民所得倍増計画」を打ち出しました。その名の通り、所得を倍に増やすという、今からは考えられない計画ですが、実際に1960年から66年までの間に、国民一人当たりの所得は2.3倍に増えます。
そんな1960年代の最大のエポックが、1964年に開催された東京オリンピックです。
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現在の日本の交通網はこの時期に開業したり、整備が始まったりしたものが多くありました。
1963年に完成した首都高をはじめ、オリンピックのために空港と宿泊施設を繋ぎ、点在する競技場を結ぶべく、モノレールの整備や地下鉄の延伸が行われました。
そして、1964年には東京敵と新大阪駅を結ぶ東海道新幹線が開業します。
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所得上昇に伴って個人消費支出も拡大し、「大衆消費社会」が到来します。
その中心となったのが、カラーテレビ、車、クーラーの「新・三種の神器(3C)」です。
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新しい家電製品の登場によって都市部の人々のライフスタイルは大きく変化し、やがてそれは地方部にも波及します。
1955年には517万人だった専業主婦は、1970年には1,213万人に増加し、アルバイトやパートタイムなどの非正規雇用労働者も増加しました。
食料品や日用雑貨を中心にセルフサービス方式で販売する、ダイエーやヨーカ堂(元イトーヨーカ堂)、西武ストアー(現西友)などのスーパーは、1960年代半ば以降に本格的な全国展開を進めます。
1972年にはダイエーが小売業売上日本一の座を三越から奪い、70年代中頃までには小売業の売上に占めるスーパーと百貨店のシェアが逆転しました。
ニクソンショックとオイルショック
1970年代に入った日本を襲ったのが、1971年のニクソンショックです。
ベトナム戦争の長期化による負担や、国内財政と国際収支の赤字に苦しむアメリカは、1971年にニクソン大統領が米ドルと均の交換停止を発表します。
これにより、それまでは1ドル=360円に固定されていたドル円相場が維持できなくなり、翌年には1ドル=308円に改訂され、1973年には現在も続く変動相場制に移行します。
そして同じ1973年には第一次石油危機(オイルショック)が発生します。
1948年にユダヤ国民評議会はパレスチナにイスラエル国の独立を宣言しますが、パレスチナに先住していたアラブ人と、アラブ諸国はこれを拒否し、第一次中東戦争が勃発します。その後、第二次(1956~57年)、第三次(1967年)を経て1973年に第四次中東戦争が起こりました。
アラブ産油国によって構成される石油輸出国機構(OPEC)は石油戦略を発動し、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸、原油価格を1バレル当たり2ドル前後から11ドル前後とへと大幅に引き上げました。
日本の製造業は1950年代から60年代にかけて、石炭から、安価で安定的に供給されていた石油へと原燃料の転換を進めおり、当時日本の石油輸入依存度は事実上100%でした。
この影響により、日本の物価は急上昇。1974年の消費者物価は23%上昇し、「狂乱物価」と呼ばれるようになります。
その後、1971年のニクソンショック、1973年のオイルショックを経て、日本経済は安定成長期に入ります。
ジャパン・アズ・ナンバーワン
第二次世界大戦後、アメリカを代表とする欧米先進国を範に成長し続けてきた日本のビジネスモデルは、1980年代に完成を迎えます。
1980年のドル円相場の平均は226円。この円安ドル高の恩恵を受け、日本のメーカーはアメリカ市場に対する輸出を拡大し、日米貿易摩擦がエスカレートします。
特に自動車は、1980年に日本での生産台数が1,000万代を突破し、長く世界トップの座にあったアメリカの約800万代を抜いて、世界一となりました。
日本車にシェアを奪われたアメリカの自動車企業は軒並み経営不振に陥り、自動車工場のレイオフなど業界の失業者は30万人の上ります。
アメリカ、ミシガン州の自動車販売店では、「たたき放題」の気晴らしサービスを提供。日本車にハンマーが振り下ろされる光景は、日米貿易摩擦の象徴となりました。
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1979年に出版されたのが、アメリカの社会学者、エズラ・ヴォーゲルによる、戦後の日本経済成長の理由を分析した書籍「ジャパン・アズ・ナンバーワン」です。
1982年の前年、1981年(昭和56年)の経済白書の「むすび」には、このような誇らしげな文章があります。
日本経済は,先進国の仲間入りをした。四半世紀前(昭和30年)アメリカは世界の総生産の約3分の1で第1位を占め,第2位はイギリスの同じく5%,そして日本はたった2%だった。現在(昭和54年),アメリカの比重は約5分の1に下がり,日本は世界の総生産の1割を占めるにいたった。
欧米の先進国に肩を並べ、そして追い越していく勢いを持ったの経済のよる「ナンバーワン」の自信を持っていたのが、当時の日本だったと言えるでしょう
1970年代~1980年代初頭までのファッションの流れ
原宿ファッションの始まり
さて、お次はより本題に近い、ファッションの話題に入ります。
1964年の東京オリンピックを契機に、原宿は閑静な住宅地から、新しい感性を持つ若者の街に変貌を遂げていきます。
中でも、表参道と明治通りが交わる交差点にあった原宿セントラルアパートには、写真家、コピーライター、イラストレーターたちが事務所やスタジオを構え、その1階にあった喫茶店レオンに若いクリエイターたちが集い、新たな若者文化が形成され始めていました。
原宿セントラルアパートの1階に店を構えたのが、今も原宿ファッションを代表するブランドである、ミルクです。
当時、原宿にブティックはミルクを含め3軒しかなく、文字通り原宿ファッションの先駆けとなったブランドです。
その他にも、荒牧太郎によるマドモアゼルノンノン、菊池武夫と稲葉賀恵によるビギ、コシノジュンコ、松田光宏によるニコルなどが原宿、表参道、青山にショップを構えます。
世界に進出する日本人デザイナー
文化服装学院を卒業後、1965年に渡仏した高田賢三は1970年パリにジャンクルジャップを開店し、コレクションを発表。
同1970年には権威あるフランスのファッション誌、ELLEの表紙を飾るなど、高い評価を受けます。
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また、1971年には三宅一生がニューヨークでファッションショーを発表。前年に相次いで死去したジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンへの哀悼の意を込めた、入れ墨のようなプリントが特徴の「タトゥ」が話題となりました。
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コシノジュンコのアトリエでお針子として働きながら独学で洋裁を学んだ山本寛斎は、1971年に日本人として初めてロンドンでファッションショーを行います。
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ロンドンでのショーが契機となり、山本寛斎はデヴィッド・ボウイのツアー用のステージ衣装製作の依頼を受けます。
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1980年代初頭にスタンダードだったファッション
歌舞伎などをインスピレーションソースにした山本寛斎は特に印象的ですが、高田賢三や三宅一生、そして彼らよりも前の1960年代に海外進出した森英恵など、当時の日本人デザイナーの作品は鮮やかな色使いや、オリエンタルな柄など、「和」を強く感じさせるデザインが中心でした。
こちらは当時人気だったフランス人デザイナー、クロード・モンタナの1980年春夏コレクション。 https://www.pinterest.jp/pin/672725263104487237/<
当時の欧米のデザイナーはこのように、誇張された肩、細いウエスト、そして鮮やかな色使いが特徴的なコレクションを打ち出していました。
こういったファッションが当時のスタンダードだったのです。
「とらえどころがなくて、少しガッカリ」のコムサ・デ・モード
改めて「アンアン」1982年9月10日号のご紹介に入ります。
目次の上には、かなり刺激的な写真。時代ですねぇ。
巻頭特集は「ディスコ最新情報」。実はこのページをよく見ると、世界のファッションシーンに大きな影響を与えた某氏が写っているのですが、そのお話はまた次の機会に。
「プチアンアン」という、ニュースページ。
ピックアップされているのは、「6年目にして初めてファッションショーを開いた「コムサ・デ・モード」」。「とらえどころがなくて、少しガッカリ。ファッションショーは、やはり強烈な個性がないとつまらないわね。どこかで見たって感じの服もあったし」という、かなり手厳しい関係者の意見も掲載しているのには驚きます。今のファッション誌でこのような内容ってまずありえませんよね。この頃はまだ、ファッション誌はきちんと批評していたことがわかります。
当時のコムサ・デ・モードのデザイナーは高瀬清子。
コムサ・デ・モードの創立メンバーで、現在は株式会社ファイブフォックスの取締役副社長を務められているようです。
https://www.ucf.jp/graduate_voice/takase_kiyoko/
https://www.ucf.jp/graduate_voice/takase_kiyoko/
特集「中古感覚の服」
ここからが「中古感覚の服」特集です。
中古感覚の服とは。
新品なのに、洗い、着込み、肌に馴染んだ感覚。今、アンチック加工の服や小ものたちが人気のまとだ。
石で洗ったストーンウォッシュ、洗えば洗うほど味のある色になるアルデラ加工、ウォッシュ、シワ加工、手もみ洗、ムラ染め、手法によって中古感覚もいろいろ。
ということで、まず登場しているのがこのスタイリング、ベスト、シャツ、プリーツスカートはピンクハウスです。
ピンクハウスは、高田賢三、松田光弘、コシノジュンコらと文化服装学院の同期だった、金子功によるブランド。
フリルやレース、リボンや花柄などをたっぷりと詰め込んだ独自のスタイルには、今も多くのファンに支持されています。
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左ページは少年っぽいスタイリング。ブルゾンはコムサ・デ・モード。
次ページ。
ゴワゴワ、服同士が馴染みにくい重ね着やカチッとしたコートも、ウォッシュ加工の適度な柔らかさがあれば大助かり。
右ページはTシャツにベスト、スカートのフォークロアっぽいスタイリング。
キャプションを見ると、このTシャツはトリココムデギャルソンのもの。表記から察するに、当時は「トリコ」というブランド名だったようです。そして、ボトムスはパンツの上にスカートを2枚レイヤードしており、全てがコムデギャルソンのもの。1980年代のコムデギャルソンは「黒の衝撃」のイメージが強かったのですが、このようなアースカラーのアイテムも多数展開していたようです。
「パリ、ニューヨークでは爆発的人気。日本のメーカーはまだ疑心暗鬼。でも、流行りそうです中古感覚の服。」
確かに、パリを中心にして、ロンドンでもニューヨークでも流行しています。
貝島はるみさんがはいているのが、パリで大流行のストーンウォッシュしたうえにほかの色をのせたジーパン。値段は1万円ぐらいだったという。
ストーンウォッシュ革のバッグやブーツもパリで買ってきたもの。
「中古感覚」の火付け役はパリの革ジャン
誌面中央に掲載されているのは、レザーのフライトジャケット。
そもそもの始まりは1年前。革ジャンの流行がなぜか中古感覚の火付け役。
パリのサンジェルマン・デ・プレのフール通りにある『ブリッツ』という男女兼用のブチックには、革製品のメーカーである『シャルル・シュヴィニヨン』のものがそろっている。このブチックで最も人気のあるのが、新品なのに洗いざらして着古した感じに仕上げてある革ジャン。それも飛行士が着るボンバージャケット。
ここで紹介されているシャルル・シュヴィニヨンというブランドは、シュヴィニヨンと名を変え、今も現役です。
そして、シュヴィニヨンのサイトの「ヒストリー」ページにあった文章を訳してみました。
シェヴィニヨンの歴史を語ることは、ジャケットの物語を語ることから始まります。1950年代、アメリカのパイロットが着ていた「フライト」ジャケット。美しさ、快適性、堅牢性。このジャケットのように、フランス人シャルル・シュヴィニョンの名前を冠したクリエイターのギー・アズレイは、アメリカへの夢を抱き、主にアメリカで作られたスタイルとインスピレーションを表現しています。古着をこよなく愛する彼は、アメリカ軍の象徴的なアイテムを集め、それを再構築して最初のコレクションを作りました。このように、世界中で見つけた作品を再解釈することが、彼のトレードマークとなりました。あっという間に、シェヴィニョン旋風が巻き起こりました。都会的でエレガント、そして冒険的なワードローブ。タイムレス。さりげなさに美しさを織り交ぜます。見事なまでの軽快さです。
そして、当時のものと思われるレザージャケットは、現在でもヤフオクなどで入手可能です。
ストーンウォッシュに用いられる「石」の紹介。プラスチック、ゴム、そして軽石と、様々な素材が用いられています。
次ページ。
中古感覚の服のポイントは、素材と仕上げ方法。
その代表である皮革素材の加工は、顔料染めにした上でひっぱって顔料を割ったり、染料で塗って乾ききらないうちに拭き取ったり、表面をサンドペーパーでこすったり。これらの方法を総称してストーンウォッシュと呼んでいるとのこと。
ストーンウォッシュ加工が施されたレザーグッズの数々。2番の黒のパンプスと、5番6番のバッグがコムデギャルソンのもの。6番のトートバッグは、90年代以降も似たような形のものが定番アイテムとして、素材や色を変えて展開されていました。
ワコール・ハイというブランドのブルゾン。下着メーカーのワコールが展開していたブランドでしょうか。ググってみましたが、わかりませんでした。
こちらのスタイリングに用いられる「白の洗いっぱなしのシャツ」は、コムデギャルソンオム。もちろん、メンズ。川久保玲がデザインを手掛けていた時代です。
右側のスタイリング、ワンピースに見えますが、ストーンウォッシュの革のエプロンです。シャツとともにビギのアイテム。
そして、僕的にかなり衝撃だったのがこのページ。
「各メーカーが、革の加工方法には苦心惨憺しています」。
右上のジャケットはワイズ。「まず下地として薄い色で染めます。革をシュリンク(縮める)させてそこに濃い色を吹きつけます。タイヤ型のぐるぐるまわっているサンドペーパーにシュリンクした革を引っ張りながら当てて表面をけずっていくのです。この方法だと色的にもムラになるし、表面の凹凸感もかなりでるわけです」という、かなり手間のかかる加工。
牛革のミニスカートと、ソックスをはいているように見えるタイツはコムデギャルソン。コムデギャルソンのミニスカートというのも、結構意外なアイテム。
伝説の「黒の衝撃」穴あきニット
この記事の山場というべき箇所がこちら。
「わざと穴をあけたセーターとか、虫喰い生地のワンピース。もちろん立派な新品なのです」
一目瞭然だと思いますが、ファッション史に今も燦然と輝く一大エポック、「黒の衝撃」を象徴するアイテムである、コムデギャルソンの穴あきニットです。
これです。これこれ。ボロルック、原爆ルックとも呼ばれる、ファッション好きなら一度は見たことがあるニットです。
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僕としては、この穴あきニットは展覧会で見る美術品のようなイメージがあったので、このように雑誌のスタイリングに使われているを見て、かなりびっくりしました。
もちろん、お値段もきちんと掲載されています。「ボコボコ穴のあいているセーター¥55,000」。これ、もし現存していたらお値段はいかほどになるのでしょうか。商品説明文によると、「大きさの割には穴があいているせいか分量はさほど感じられない」そうです。
当時は「黒」よりも「中古感覚」が新しい価値観だった
改めてページ本文を見てみましょう。(強調引用者以下同)
コム・デ・ギャルソンとか、ワイズがパリで行ったショーに対して、現地のジャーナリズムは、その手のこんだ素材におどろいたという。いまでこそ当り前になっている、特に中古感覚の服が流行しはじめてからはどこでもやっている製品の丸洗いとか、素材の段階で洗ってそのまま天日乾燥して、 縫製するとか、そういうことは、 もうとっくの昔からやっているわけです。このふたつのデザイナーブランドは。
中古感覚という言葉が流行る以前からずっと中古感覚の服をつくっているということになるわけですが、なぜこんなに手のかかる素材にこだわりつづけるのでしょう か。コム・デ・ギャルソンでは、「素材と縫製には力をいれるというのが、我が社の大きな方針。洗ったりシワ加工したことによってより体になじむ、着込んだ感じの服をつくりたいわけです」といっています。ELLEの7月1日号にもワイズの服を「メイドインジャパンの浮浪者風モード」として紹介されています。 半年もかけて念入りに染めたり洗ったり、天日で乾燥させたりして着古しスタイルをつくりあげている。「エスプリが豊かな、 貧乏人のイメージ」という山本耀司自身のコメントもつけられています。
このページではどうしても穴あきニットに注目してしまいますが、こちらもコムデギャルソンのアイテム。写真ではわかりにくいのですが、「厚手ウールにところどころ虫が喰ったように穴があいている素材のワンピース」。(お腹のあたりから裾まである半円状の白いのは、紙面のへこみで、服のデザインではありません)
こちらは、「打ち込みの強い厚手の生地でもちろんこれ以上穴がひろがらないようになっている」。そして、このコムデギャルソンの作品を紹介する文の結びとして、こうあります。
この一文、超重要です。
どっちをとってもいままでにはない素材であり、服です。中古感覚というより着古した感じといったほうがぴったりの服が受けいれられるということはやはり新しい価値観の誕生といえるのでは。
つまり、当時のコムデギャルソンとヨウジヤマモトは「中古感覚」が新しかった、ということです。
残念ながら僕の手元にはありませんが、以前読んだことのある当時の他の雑誌でも、コムデギャルソンの服作りは中古っぽいことが斬新である、というような内容で取り上げられていました。
これまで何度も触れてきましたが、現在の我々にとってコムデギャルソンとヨウジヤマモトの登場は「黒の衝撃」という言葉通り、「黒」という色が革命的だった、という印象が非常に強くあります。
ですが、当時は「黒」よりも「中古感覚」が新しい価値観として新鮮だったということが、この誌面からはわかります。
後のページで紹介されている、イッセイ・ミヤケのアイテムの説明文には、「新品ですと断らないと、古いの着てるわねっていわれそうなネル地のジャケット」とあります。
つまり、それまでは「中古感覚」がある服を着るのは、ファッショナブルではなかったのです。
コムデギャルソンとヨウジヤマモトの登場は「黒の衝撃」ではなく「中古感覚の衝撃」だったのです。
次ページ。
「洗うということがどうも中古感覚仕上げの基本のような気がします。なんでもかんでもザブザブ洗ってみた結果、いろんな効果があらわれたようです」。
実際のウォッシュ加工として、ワイズとイッセイ・ミヤケの手法が、なんとそれぞれの企画スタッフから紹介されています。
まずは、ワイズ。
今回はウールギャバとコットンサテンの2種類をストーンウォッシュしてみました。タンブラー(洗濯機を横にしたようなもの)に石をたくさんいれて、水は少ししかいれません。まわしたのは1時間。製品のまま洗う丸洗いです。ジーパンを一緒に入れて洗ったら偶然いいいろがでました。ウールギャバは硬い生地だったんですが、ストーンウォッシュしてみると、まず縫い目が落ち着くし、油が抜けて全体に服が落ち着きました。結果としてはウールが綿ライクになりましたね
そして、イッセイ・ミヤケの企画スタッフは、「メーカーが洗って売ればそれだけコストがかかるから」、ユーザー自身がウォッシュ加工をすることを勧めています。
カジュアル感覚をだすためにシワ加工などをしています。でもみる目があれば自分で洗えばいいと思うんです。洗い方はまったくむずかしくはないのですから。メーカーが洗って売ればそれだけコストがかかるからです。
このイッセイ・ミヤケのコメントに対して、アンアンはこう加えています。
この意見は確かに見識だと思います。中古感覚なんて自分でもできるんです。おしゃれに関心のある人は、服を買ったら必ず一度洗ってから着るといいます。
縮絨の前身?コムデギャルソンの加工方法
ストーンウォッシュしたアイテムを中心にしたスタイリング。
次ページでは、ウォッシュ加工とは逆の加工方法が紹介されています。
「油を抜くという加工方法が一方にある反面、わざと油を染み込ませるやり方もある。パラフィン加工というのがそれです」
ここでは、コムデギャルソンでの加工方法が紹介されています。
布地に織る以前の糸の段階で油を抜いてしまうんです。もちろん素材はウールです。それを織って生地にしてからさらに洗って天日乾燥するわけです。そのときにシワ加工をほどこしてあります。結果としては綿のような素材感になります。ちょっと肌にチクチクするけれど
そして、このページにスタイリングに使われているのは、「ウールを油抜きしてから水洗いしてコットン風にした」というコムデギャルソンのアイテム。
1980年代に行われた、コムデギャルソンの「中古」加工の取り組みが、1990年代中盤にコムデギャルソンの象徴となる「縮絨」に繋がっているのかもしれません。
コムデギャルソンの縮絨については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
こちらのニットはコムデギャルソンオム。
こちらのいかにもコムデギャルソンっぽいスタイリングには、やっぱりコムデギャルソンの「レーヨンをムラ染めしたエプロン」が使われています。
中古感覚の服は着る人の愛着を最初から持っている
この特集最後のページ。
「中古感覚最後はジーパンの話です。洗ったり、染めたりして最初から着こんだ感じにしてしまおうというわけです」ということで、ビッグジョンや、かつて存在した日本ハーフなどのジーンズメーカーで行われている加工方法が紹介されています。
ストーンウォッシュやブリーチアウト、パワーウォッシュなどの加工が施されたデニムアイテムの数々。
そして、特集の末文にはこうあります。
着古した服には、これだけ可愛いがったのよ、といった感じがあります。着る人のそうした愛着を最初から持っているのが中古感覚の服なのです。
アウトロ:「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と「ジャパニーズ・デザイナー・アズ・ナンバーワン」」
当記事の冒頭で、第二次世界大戦終戦からの経済の流れをご紹介しました。
このアンアン1982年9月10日号が発売された1980年代初頭の日本は世界第二位の経済大国でした。
高度経済成長時代は終えていたものの、まだまだ右肩上がりだった当時の日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、世界一の大国アメリカの脅威となっていました。
経済状況は、消費者の意識や行動に大きく影響を与えます。
80年代初頭は、大量消費の代表格のスーパーの業績が急激に悪化。「モノ余りで売れない時代。消費行動が大きく変わり、売り手市場から買い手市場になった」とセブン&アイ・ホール ディングス会長の鈴木敏文は分析していた。
そしてTDL開業時の35年。国が毎年実施する「国民生活に関する世論調査」でも大きな変化があった。定点調査の「今後の生活の 「力点は何か」の問いで初めて「レジャー・余暇」が「住生活」を抜き去りトップに躍り出た。以後、首位の座は揺るがない。豊かさの実感がモノからサービスへ移った瞬間だった。
戦後日本経済史 (日経文庫)
1980年代の消費の象徴と言えるのが、1983年の東京ディズニーランド開業です。
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同じようにファッションも、衣食住としての服、つまり生活の必需品という位置付けから、今回ご紹介してきたような「中古感覚」のように、新たな価値観がどんどん生まれて始めたのが、1980年代でした。
コムデギャルソン、ヨウジヤマモトがパリコレクションに進出し、毀誉褒貶はあるにせよ、世界で評価を受けたことにより、1970年代からパリやニューヨークでコレクションを発表していたケンゾーやイッセイミヤケにも、改めて注目が集まります。
日本のファッションが世界で評価されることは、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の代表選手である自動車と同じように、当時の日本人にとって大きな誇りとなったのでしょう。
そうして生まれたファッションが「カラス族」です。
1983年になると、山本と川久保の熱心な信者は、頭のてっぺんからつま先まで、全身をこのふたりのデザインで固めて東京や大阪を闊歩した。丈の長い漆黒の衣服を重ね着し、髪をアシンメトリックに切り、顔はあえてのナチュラルメイク、そしてぺちゃんこの靴を履いた女性たちを、マスコミは早速“カラス族”と命名した。
AMETORA
「カラス族」の出現には1980年代に週刊化された、『アンアン』の存在が大きい。同誌は、1970年代の創刊以来、若い女性のファッションテキストとして絶大な影響力を誇っていたが、1970年代後半よりマンションメーカーから出発したさまざまなDCブランドをメインに紹介するようになっていた。
ストリートファッション 1980-2020―定点観測40年の記録
カラス族登場の下地になったのが、1970年代にロンドンやニューヨークで発生し広まった、退廃的、前衛的な音楽ジャンルのニューウェーブと、それがストリートファッションに派生したニューウェーブスタイルでした。
日本で最初にこのスタイルを取り入れたのは、美術系の学生やミュージシャン、およびその予備軍たち。その後、NW、パンク、テクノといった前衛的でマナーな新しい音楽に胸をときめかせる文化系「トンガリキッズ」のファッションとして浸透していった。
ストリートファッション 1980-2020―定点観測40年の記録
「トンガリキッズ」たちが愛好していたのが、コムデギャルソンやミルクのような、最初期は「マンションメーカー」と呼ばれ、原宿のマンションの一室からスタートしたような、新しい世代のデザイナーズブランドでした。
当時は、デザイナーを表に出さず、一貫したキャラクターを持って直営店を展開していた国内ブランドをキャラクターブランドとして、デザイナーズブランドと区別し、両者を合わせてDCブランドと呼んでいた。キャラクターブランドには、コムサデモード、パーソンズ、アトリエサブなどがあり、デザイナーズブランドより買いやすい価格だった。
1980年代
それまでの大手アパレルとデザイナーズブランドが大きく違っていたのは、その服作りのシステムだ。生地原料から製品になるまで二〇回前後の売り買いが行われるという複雑なシステムを大手アパレルがとっていたのに対し、デザイナーズブランドでは生地の買いつけから直営店における販売まですべてをブランドが手掛けたのだ。直営店はどれもひと目でそのブランドだとわかるような内装で、ハンバーに至るまでブランドオリジナルを使う。ブランドの服を着たハウスマヌカンが客の対応にあたり、その店にいること自体それだけでカッコいいと思わせる。客は店に何度も通ううちに、マヌカンとは友だちのように親しくなって、ブランドの信者になっていく。実際、ショーで人気を集めた商品を手にするためにはマヌカンと懇意でなければムリだった。
1980年代
このような流れで生まれたのが、1980年代を代表するファッションのムーブメントである、DCブランドブームです。
DCブランドブームは日本国内でのムーブメントでしたが、他方コムデギャルソンとヨウジヤマモトの衝撃は、その後活躍する海外のファッションデザイナーに大きな影響を与えました。
アントワープ王立美術アカデミー出身のマルタン・マルジェラに代表されるベルギー勢、セントラル・セント・マーチンズ出身のアレキサンダー・マックイーンに代表されるイギリス勢など、1990年代以降に活躍する多くのファッションデザイナーが、コムデギャルソンとヨウジヤマモトの影響を強く受けています。
書籍「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は、当時絶好調だった日本の自動車産業や半導体産業に、アメリカ企業が学ぶべきことがあるはずだ、という内容でした。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で挙げられた日本企業と同じように、いや、それ以上に、コムデギャルソンとヨウジヤマモトは、世界のファッションシーンに多大な影響を与えました。
1980年代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代であり、「ジャパニーズ・デザイナー・アズ・ナンバーワン」の時代でもあったのです。(終)