山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

戦後〜80年代の日本経済の驚異的な成長と、世界に進出する日本人デザイナーたち。

先日の記事でご紹介した、「山田耕史のファッションノート」

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その第一弾記事が、「戦後経済と「ジャパニーズ・デザイナー・アズ・ナンバーワン」。1982年にコムデギャルソンとヨウジヤマモトが起こした「中古感覚革命」。」です。

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上掲過去記事で詳しく説明している通り、1記事500円、サブスク読み放題で月額980円に設定していますが、全部で14,878文字の内の半分以上は、無課金無登録で読めるようにしています。

今回は、「戦後経済と「ジャパニーズ・デザイナー・アズ・ナンバーワン」。1982年にコムデギャルソンとヨウジヤマモトが起こした「中古感覚革命」。」の導入部分をそのまま当ブログでもご紹介します。

 

戦後経済と「ジャパニーズ・デザイナー・アズ・ナンバーワン」。1982年にコムデギャルソンとヨウジヤマモトが起こした「中古感覚革命」。

こんにちは。

山田耕史です。

学生の頃からファッションが大好きで、今も好きなファッションを楽しむこと、人に楽しんでもらうことを仕事にしています。

そんな僕が、今一番ハマっているのが、昔のファッション誌を見ることです。

昔のファッション誌は、僕が見たこともないファッションが沢山見られる、僕にとっての宝の山です。

ファッションとは移ろいゆくもの、というイメージが強いせいでしょうか。

過去のファッションは意外と振り返られることがありません。

ヒッピーやみゆき族のような、知名度が高いファッションが振り返られることはありますが、それ以外のファッションは意外とアーカイブ化されていないことが多いのです。
ですが、そうやって埋もれさせておくにはもったいない、面白いファッションが過去には沢山あったことが、昔のファッション誌を見ているとよくわかります。

ファッションは時代を映す鏡です。

ファッションは、文化や経済、政治など様々な社会背景がある上で生まれています
昔のファッション誌を見て、「このファッションはどういう背景があって生まれたのだろう?」とか、「このファッションが人気だった時代の雰囲気ってどんな感じだったのだろう?」と疑問に思って調べてみると、これまで知らなかったことがあったり(僕が浅学なせいもあるでしょう)、知ってはいたけれど「これがこれに繋がるのか!」という発見があったりと、知的好奇心が非常に満たされます。

「山田耕史のファッションノート」は、昔のファッション誌で見たこともなかったファッションを見て、その社会背景や歴史などを深堀りしている様子をそのまま文章にしています

僕が撮影した昔のファッション誌の画像だけでなく、ピンタレストを中心としたインターネット上で収集した画像や、YouTubeの動画も随時引用して、できるだけ当時の空気感が掴めるようにしています。

 

第二次世界大戦終結から東京オリンピックまで

今回ご紹介するのは、「アンアン」1982年9月10日号です。

雑誌の内容をご紹介する前に、まずは第二次世界大戦が終結した1945年から、1982年に至るまでの政治や経済の状況をざっと俯瞰してみます。

焼け野原の中から始まった戦後復興は、1950年に勃発した朝鮮戦争が大きな成長の弾みとなります。

朝鮮戦争は国内企業が積極的な設備投資をはじめるきっかけとなり、産業間の連関関係を通じて各産業の設備投資が連鎖的に拡大する「投資が投資を呼ぶ」という状況を生み出します。

1951年にはサンフランシスコ平和条約が結ばれ、翌年の1952年にはGHQの占領が終了。

1954年末から本格的な経済成長が始まり、1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」と宣言されます。

政治においては、自由民主党が与党、そして社会党が第一野党となる「55年体制」が成立するなど、政治、経済共に戦後日本の土台が固まります。

1955年から1973年まで、日本経済の実質成長率は年平均で9.2%以上の成長を続ける、高度経済成長期を迎えます。

この間、日本はGNP規模で先進諸国を次々に追い抜き、1968年にはアメリカ、ソビエト連邦につぐ世界第3位の経済大国へと躍進しました。

日本の高度成長を支えたのが、農村部から都市部に流入した若者です。

高度成長が始めると、東京圏、関西圏、名古屋圏の3大都市圏を中心とする太平洋ベルト地帯の工業が発展します。

この頃、アメリカを中心とする諸外国から生産技術だけでなく、原価管理やオペレーション、経営管理などの経営手法が導入され、生産性が大幅に向上し、それに伴って賃金も上昇し、若年層の農村部から都市部への流出が進みました。

1960年に発足した池田勇人内閣は、看板政策として「国民所得倍増計画」を打ち出しました。その名の通り、所得を倍に増やすという、今からは考えられない計画ですが、実際に1960年から66年までの間に、国民一人当たりの所得は2.3倍に増えます。

そんな1960年代の最大のエポックが、1964年に開催された東京オリンピックです。

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現在の日本の交通網はこの時期に開業したり、整備が始まったりしたものが多くありました。

1963年に完成した首都高をはじめ、オリンピックのために空港と宿泊施設を繋ぎ、点在する競技場を結ぶべく、モノレールの整備や地下鉄の延伸が行われました。

そして、1964年には東京敵と新大阪駅を結ぶ東海道新幹線が開業します。

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所得上昇に伴って個人消費支出も拡大し、「大衆消費社会」が到来します。
その中心となったのが、カラーテレビ、車、クーラーの「新・三種の神器(3C)」です。

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新しい家電製品の登場によって都市部の人々のライフスタイルは大きく変化し、やがてそれは地方部にも波及します。
1955年には517万人だった専業主婦は、1970年には1,213万人に増加し、アルバイトやパートタイムなどの非正規雇用労働者も増加しました。
食料品や日用雑貨を中心にセルフサービス方式で販売する、ダイエーやヨーカ堂(元イトーヨーカ堂)、西武ストアー(現西友)などのスーパーは、1960年代半ば以降に本格的な全国展開を進めます。
1972年にはダイエーが小売業売上日本一の座を三越から奪い、70年代中頃までには小売業の売上に占めるスーパーと百貨店のシェアが逆転しました。

 

ニクソンショックとオイルショック

1970年代に入った日本を襲ったのが、1971年のニクソンショックです。

ベトナム戦争の長期化による負担や、国内財政と国際収支の赤字に苦しむアメリカは、1971年にニクソン大統領が米ドルと均の交換停止を発表します。

これにより、それまでは1ドル=360円に固定されていたドル円相場が維持できなくなり、翌年には1ドル=308円に改訂され、1973年には現在も続く変動相場制に移行します。

そして同じ1973年には第一次石油危機(オイルショック)が発生します。

1948年にユダヤ国民評議会はパレスチナにイスラエル国の独立を宣言しますが、パレスチナに先住していたアラブ人とアラブ諸国はこれを拒否し、第一次中東戦争が勃発します。その後、第二次(1956~57年)、第三次(1967年)を経て1973年に第四次中東戦争が起こりました。

アラブ産油国によって構成される石油輸出国機構(OPEC)は石油戦略を発動し、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸、原油価格を1バレル当たり2ドル前後から11ドル前後とへと大幅に引き上げました。

日本の製造業は1950年代から60年代にかけて、石炭から、安価で安定的に供給されていた石油へと原燃料の転換を進めおり、当時日本の石油輸入依存度は事実上100%でした。

この影響により、日本の物価は急上昇。1974年の消費者物価は23%上昇し、「狂乱物価」と呼ばれるようになります。

その後、1971年のニクソンショック、1973年のオイルショックを経て、日本経済は安定成長期に入ります。

 

ジャパン・アズ・ナンバーワン

第二次世界大戦後、アメリカを代表とする欧米先進国を範に成長し続けてきた日本のビジネスモデルは、1980年代に完成を迎えます。

1980年のドル円相場の平均は226円。この円安ドル高の恩恵を受け、日本のメーカーはアメリカ市場に対する輸出を拡大し、日米貿易摩擦がエスカレートします。

特に自動車は、1980年に日本での生産台数が1,000万代を突破し、長く世界トップの座にあったアメリカの約800万代を抜いて、世界一となりました。

日本車にシェアを奪われたアメリカの自動車企業は軒並み経営不振に陥り、自動車工場のレイオフなど業界の失業者は30万人の上ります。

アメリカ、ミシガン州の自動車販売店では、「たたき放題」の気晴らしサービスを提供。日本車にハンマーが振り下ろされる光景は、日米貿易摩擦の象徴となりました。

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1979年に出版されたのが、アメリカの社会学者、エズラ・ヴォーゲルによる、戦後の日本経済成長の理由を分析した書籍「ジャパン・アズ・ナンバーワン」です。

1982年の前年、1981年(昭和56年)の経済白書の「むすび」には、このような誇らしげな文章があります。

日本経済は,先進国の仲間入りをした。四半世紀前(昭和30年)アメリカは世界の総生産の約3分の1で第1位を占め,第2位はイギリスの同じく5%,そして日本はたった2%だった。現在(昭和54年),アメリカの比重は約5分の1に下がり,日本は世界の総生産の1割を占めるにいたった。

https://www5.cao.go.jp/keizai3/keizaiwp/wp-je81/wp-je81-02701.html

欧米の先進国に肩を並べ、そして追い越していく勢いを持ったの経済のよる「ナンバーワン」の自信を持っていたのが、当時の日本だったと言えるでしょう。

参考文献:

 

1970年代~1980年代初頭までのファッションの流れ

原宿ファッションの始まり

さて、お次はより本題に近い、ファッションの話題に入ります。

1964年の東京オリンピックを契機に、原宿は閑静な住宅地から、新しい感性を持つ若者の街に変貌を遂げていきます。

中でも、表参道と明治通りが交わる交差点にあった原宿セントラルアパートには、写真家、コピーライター、イラストレーターたちが事務所やスタジオを構え、その1階にあった喫茶店レオンに若いクリエイターたちが集い、新たな若者文化が形成され始めていました。

原宿セントラルアパートの1階に店を構えたのが、今も原宿ファッションを代表するブランドである、ミルクです。

当時、原宿にブティックはミルクを含め3軒しかなく、文字通り原宿ファッションの先駆けとなったブランドです。

その他にも、荒牧太郎によるマドモアゼルノンノン、菊池武夫と稲葉賀恵によるビギ、コシノジュンコ、松田光宏によるニコルなどが原宿、表参道、青山にショップを構えます。

世界に進出する日本人デザイナー

文化服装学院を卒業後、1965年に渡仏した高田賢三は1970年パリにジャンクルジャップを開店し、コレクションを発表。

同1970年には権威あるフランスのファッション誌、ELLEの表紙を飾るなど、高い評価を受けます。

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また、1971年には三宅一生がニューヨークでファッションショーを発表。前年に相次いで死去したジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンへの哀悼の意を込めた、入れ墨のようなプリントが特徴の「タトゥ」が話題となりました。

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コシノジュンコのアトリエでお針子として働きながら独学で洋裁を学んだ山本寛斎は、1971年に日本人として初めてロンドンでファッションショーを行います。

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ロンドンでのショーが契機となり、山本寛斎はデヴィッド・ボウイのツアー用のステージ衣装製作の依頼を受けます。

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1980年代初頭にスタンダードだったファッション

歌舞伎などをインスピレーションソースにした山本寛斎は特に印象的ですが、高田賢三や三宅一生、そして彼らよりも前の1960年代に海外進出した森英恵など、当時の日本人デザイナーの作品は鮮やかな色使いや、オリエンタルな柄など、「和」を強く感じさせるデザインが中心でした。

こちらは当時人気だったフランス人デザイナー、クロード・モンタナの1980年春夏コレクション。

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当時の欧米のデザイナーはこのように、誇張された肩、細いウエスト、そして鮮やかな色使いが特徴的なコレクションを打ち出していました。

こういったファッションが当時のスタンダードだったのです。

参考文献:

まだ続きはありますが、長くなってきたので次回に。
気になる方は、noteをご覧下さい。
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