山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

1991年に東京で流行ったアレコレ。スケーターブランドとヨウジヤマモトとジュリアナ東京。

目次:

今回ご紹介するのは『POPEYE』1991年7月17日号です。“ヨージヤマモトのレザージャケットに注目せよ”“ポロ・ラルフローレンのビッグポロが欲しい”“スケーター以外も着てるスケーターズブランド”など、惹かれる文言がいっぱい。

誌面のご紹介に入る前に、1991年の経済状況や時代の雰囲気を見ておきましょう。

 

1980年代のバブル景気

1970年代の高度経済成長期、1980年代の安定成長期を経て、日本にバブル景気が到来した1980年代

1985年9月にニューヨークのプラザホテルで開催された、先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議では、ドル高是正の協調政策をとることが合意されました。これをプラザ合意と呼びます。

プラザ合意のポイントは3つでした。

・行き過ぎたドル高

・その是正のため各国が外国為替市場に協調介入するなど積極的に協調行動を取る

・市場開放や内需拡大策の推進

プラザ合意前のドル円相場は概ね1ドル=240円前後で推移していましたが、その直後は229円まで円高が進行。その後更に進み、1986年1月2日のニューヨーク株式市場での円相場は200円を切りました。つまり、9月22日にプラザ合意から3ヶ月で1ドル=240円から199円になったのです。

円が高くなるということは、ドルが安くなるということ。

プラザ合意ののちに、円高の動きが急速に始まります。

その後、1985年末には200円近くまで上昇し、1988年には120円代前半に達します。

1985年初頭には1ドル250円はドル円相場はだったので、1985年から88年の3年間で円の価値が2倍になったのです。

こういった状況を受け、日本の資産価値は急上昇しました。

特に、1987年以降景気が急回復する中で企業収益が大幅増益を続けたことが要因となり、株価が上昇。

また、東京都心部におけるオフィスビル需要が増加したことにより、地価が上昇しました。

1982年10月を底に上昇し始めた日経平均株価は1984年に1万円台、1987年に2万円台を付け、1989年末の大納会での終値は3万8,915円となります。

 

バブル崩壊と庶民の実感

年が明け、1990年に入るとバブルの崩壊が始まります。

1988年に本格的に突入したバブル景気のピークは、日経平均株価3万8,957円を付けた1989年末でした。


そして、1990年の年明けから株価は下がり始めます

日経平均株価は、1992年8月に1万4,309円と、89年末のピークからなんと63%も下落し、バブル以前の水準に戻ってひとまず底を打ちました。


株価から少し遅れ、地価も下落を始めます。1991年7月から1年で、東京の住宅地の地価は14.7%も下落。そして、1994年には1990年の約半分にまで下落します。

バブルが崩壊するまでは、誰もが日本経済は右肩上がりを続けると信じていました。
国土が限られている日本の土地の値段は必ず上がり続け、それに比例して資産も増え続けるという、「土地神話」が当たり前のように語られていたのです。

ですが、1980年代までの「右肩上がりの日本経済」という価値観はバブル崩壊で一変しました。

1990年前後は世界情勢にも大きな変化がありました。

日本のバブルがピークを迎えていた1989年11月には東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊

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1989年12月に開催されたマルタ会談では、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が冷戦の終結を宣言します

1991年1月には湾岸戦争が勃発

また、同年12月にはソビエト連邦が崩壊します。1917年のロシア革命以降、世界の共産主義運動を主導してきた社会主義国家は、69年でその幕を下ろしました。

 

バブル景気の余韻があった1991年

ちなみに、バブル景気の象徴のようなイメージが持たれているジュリアナ東京のオープンは、実質的にはバブル景気が終了していた1991年でした。

1991年の時点でジュリアナ東京は大盛況。

全盛期は、平日でも1000人以上の集客があり、台風で山手線が止まった月曜日であっても、約800人が来店した。1991年年末頃の金・土・日曜日は2000人以上、3000人を超えることもままあった。そのため、店内が鮨詰め状態であり、周囲の他人と触れることなく、店内を移動することは不可能であった。

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ですが、このジュリアナ東京の浮かれっぷりからもわかるように、1991年の時点でバブル経済が崩壊したという認識は、世の中にはほぼありませんでした

そもそも、それまでの好景気がバブルだったという認識を持っていたのは、専門家でもごく少数でした。

事後的に見ると、1989年末の日経平均株価3万8,915円がバブル景気のピークであり終わりであったとわかります。

ですが、1991年8月に経済企画庁が作成した月例経済報告の判断文に「国内需要が堅調に推移し、拡大傾向にある」とあるように、日本政府も1991年の段階ではバブルが崩壊したという認識はしておらず、景気は上昇局面であるとしていました。

ですが、1992年に入ると景気の低迷が顕著になりはじめ、1993年頃には、1989年頃までの景気がバブルであったことが、世間一般にも広く認識されるようになります。 

つまり、今号が発売された1991年は、まだまだバブル景気の余韻が色濃くあった時代だと言えるでしょう。

 

広告から見る1991年の雰囲気

さて、誌面を見ていきましょう。

昔のファッション誌で楽しいのは、ファッションだけではありません。

どんな商品の広告が多いのか、どういった訴求がされているのか、そしてもちろんデザインなど、時代によって全く異なる広告も、見ものです。

ファッションと同じくらい、広告にはその時代の雰囲気が反映されていると思います。

今号の最初に登場する広告はトヨタのカローラレビン。“明るい運動神経”をアピールしたスポーツカーです。

右ページはPF21という、“体をデザインする”というキャッチコピーの“脂肪ゼロのプロテイン飲料”。

1980年生まれの僕は、1989年に発売された清涼飲料水「鉄骨飲料」のCMをよく覚えています。おそらく、このPF21もこういった流れで企画された商品だったのではないでしょうか。

youtu.be

パナソニックのヘッドホンステレオ広告。フォントが非常に特徴的です。

エドウィンの広告。“OLD BLUE”と銘打った、アメリカ製のジーンズです。

ソニーのコンポ(今や死後ですね…)広告。左ページに3モデルありますが、最安値で11万円、最高値で17万8千円。高い。

右ページ、ホンダ・ディオ広告のフォントも非常に印象的。

右ページ、リズミィというリンス・イン・シャンプーの広告。リンス・イン・シャンプーも当時の人気新製品でした。

ハリウッドランチマーケットのロゴTシャツ。

このロゴが入ったアイテムは今も変わらず販売されています。

www.hrm-eshop.com

右ページはセイコーのダイバーズウォッチ。左ページ、顔を黒塗りにしたスタイリングは、今では絶対に見られないビジュアルです。

右ページは東芝のテレビ。バズーカは、ウーハーの名称のようです。

“おしゃれ生意気盛りの服えらび”というページ。今号は“後染めのTシャツは重ねて着ちゃう”というテーマのようです。

無地のTシャツにチノパンツ、スニーカーというタイムレスな魅力があるアイテムを、タイムレスなスタイリングで提案

やけに雰囲気が良いビジュアルだな、と思ってクレジットを見てみたら、スタイリングは喜多尾祥之さん、ヘアメイクは加茂克也さん。

喜多尾祥之さんは、僕が大好きなスタイリストの長谷川昭雄さんの師匠。

加茂克也さんは後にジュンヤワタナベやアンダーカバー、シャネルなどのコレクションを手掛けた、日本随一のヘアメイクアップアーティストです。

www.yamadakoji.com

ちなみに使われているアイテムはこんなの。定番のアメカジブランドが中心です。

 

ヨウジヤマモト×コムデギャルソンの伝説のコレクション

今号の特集、“いま、東京で、ベスト・セレクションTOP10”。スタイリング&テキストは祐真朋樹さん。

冒頭に登場しているのが、ヨウジヤマモトのレザージャケット。

祐真朋樹さんによる説明文にもありますが、杖村さえこさんというイラストレーターが手掛けたこのレザージャケットは1991年6月にヨウジヤマモトとコムデギャルソンがコラボレーションして開催したファッションショー、「6.1 THE MEN」で発表されたアイテムです。

現在では130万円オーバーというプレミア価格。

https://www.playful-dc.com/products/details127403.html

こちらは「6.1 THE MEN」の動画。デニス・ホッパーやジョン・ルーリー、細野晴臣、高橋幸宏など、多彩な著名人がモデルとして登場しています。

www.youtube.com

 

最近女のコの間で大人気なDKNY

次は“DKNYのタートルネックのカットソー”。“最近、女のコの間で大人気なのがDKNY”“本来は女のコのためのブランドだが、Tシャツその他のカットソー類はサイズも大きめで男のコでも十分着れる”ということで、当時はメンズの展開はなかったよう。リラックス感のあるタートルネックや、ボディと同系色のロゴなど、さり気なさがいい感じです。

少し前にDKNY JEANSの素晴らしい古着のニットを手に入れたので、気になっているブランドでした。

次ページは、表紙にも登場していたグッチのクロノグラフ。

“フィラのトレッキングシューズ”の説明文には“ロンドンのストリートシーンで最も熱い支持を受けているのがこのナイキのトレッキングシューズだ”とあります。これはさすがにフィラの誤字でしょうね。

 

“ラルフ・ローレンのビッグポロ”は“ありそでなかった”アイテム

続いては、“ラルフ・ローレンのビッグポロ”。2024年の今、古着で高い人気を誇るビッグポロですが、この頃は当然店頭に並んでいるレギュラーアイテム。クレジットは裏原系ブランドも多数揃えていた当時の人気セレクトショップ、メイド・イン・ワールド。

説明文には“ニュースクールの流行、イコール、ルーズフィットな服の流行であるわけである”“ここにきていよいよ、ありそでなかった鹿の子のポロシャツのルーズフィット版が出た。それもポロ・ラルフローレンからだ”と、当時はルーズフィットがそれほど一般的でなかったことがうかがえる文章。

左ページ“ネイビーシャツ。ピュアな魅力”として提案されているのは、ヘルムート・ラングのシャツ。

下の彼が着ているのは、ポールスミスのシャツ。

 

“ストリートファッションのシルエットを変えたブランド”ステューシー

ここからは“信じる者はトクをする。これが東京流行モノ。”という、東京の最新流行紹介特集。で、最初は“本気のスケーター以外のコたちも着ている人気のスケーターブランド”。“本気のスケーター以外のコたちも着ている”とは、当時スケーターブランドに対するファッション的な注目度が高まっていたということでしょう。

“堂々第1位に輝いたのはやっぱりステューシーだ”

1位のステューシーの説明文には“ストリートファッションのシルエットを変えたブランド”とあります。

ステューシー着用者のスナップには、“Tシャツのラインはズドーンとボックスなのがわかるでしょう?”とあります。つまり、こういったボックスシルエットはステューシーが提案した新しいシルエットだった、ということでしょう。このことに関しては、もっと深堀りができたらと思っています。

ステューシーは言わずとしれた、ショーン・ステューシー。が1980年に創設したブランド。

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ステューシーについては記事が何本も書けるくらいの歴史があるのでここでは割愛しますが、1991年当時から2024年の今までクールなイメージを保ち続けているストリートブランドことは驚異的ですね。

2位はサンタクルーズは1973年創業の、老舗スケートボードデッキブランド。“日曜日の世田谷公園ではオーリー(ジャンプ)をきめるボードの裏にこのTシャツと同じ神様やモンスターハンドの姿をよく見かける”とあり、当時はリアルスケーターからの支持を集めていたようです。

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4位はパウエル(パウエルペラルタ)。

1970年代のスケートブームを牽引したスケーターチーム、Z-BOYSのメンバーだったステイシー・ペラルタとスケートボード用品の製造をしていたジョージ・パウエルによって立ち上げられたブランド。

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5位はスラッシャー

“創立から10周年を迎えたスケーターズ必読のマガジン「THRASHER」”とあるように、スケート雑誌から生まれたブランド。

https://www.pinterest.jp/pin/2040762323535641/

現在はスラッシャーの「じゆうちょう」がイトーヨーカドーで売られていたりします…

と、ここまでは僕も知っていたブランドでしたが、スケーター文化に馴染みがない僕にとってその他のブランドは見覚えがなかったので、90年代に人気があったスケーターブランドを知る良い機会だと思い、色々調べてみました。

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