目次
- 渋カジ必携インポートFASHIONカタログ
- バブルが終わったけど終わってなかった1990年
- 1990年のネペンテス
- パタゴニアのシンチラジャケット人気は1989年末から
- 1987年初期渋カジの定番アウターB-3
- 渋カジを洗練させたインポートショップ
- “質の高さは世界一”のジムフレックス
- 「最も快適なブーツ」はハイテック
- “ジェットスキーをはじめたら彼女ができた”
- 1990年の時代の雰囲気がよくわかる広告の数々
- “いまやコレクターズアイテムと言える程のNB576シリーズ”
- インポートものは“安くオシャレができる”
- 理由その1:渋カジのベースは労働者の普段着
- 渋カジは“ショップがファッションリーダー”
- 1990年に“インポートブランド”が大人気だった理由
- 全国に点在していたインポートショップ
- 渋カジはバブル経済の申し子だった
渋カジ必携インポートFASHIONカタログ
今回ご紹介するのは、『POPEYE』1990年3月7日号です。
特集は“’90年度版渋カジ必携インポートFASHIONカタログ”。
“シンチラが大ブーム到来!”のキャッチコピー。シンチラ素材の説明文が表紙に記載されているので、当時は(今もそうかもしれませんが)シンチラがそれほど知名度がなかったことがわかります。
“元祖”はパタゴニア。
“新種”はヘリー・ハンセンと、ザ・ノース・フェイス。そして“気鋭”はサマスという見慣れないブランド。
バブルが終わったけど終わってなかった1990年
表紙裏はトヨタ、スターレットの広告。
服装や髪型、そしてこの広告全体から感じられる明るい雰囲気から、1990年の雰囲気が垣間見えるのではないでしょうか。
第二次世界大戦後の復興から高度成長を経て、世界2位の規模にまでなった、日本経済。
その到達点とも言える1980年代後半に訪れたバブル景気は、ファッションに対する影響も非常に大きく、これまでの“ファッションアーカイブ”で何でも触れてきました。
バブル景気のピークと言われているのが、1989年末の日経平均株価の終値3万8,915円です。
この3万8,915円は空前絶後の高値。これ以降今に至るまで、日本の株価が3万8,915円を上回ることはありませんでした。
そして、年が明けた1990年から、株価は下がり始めます。
ですが、バブル景気はシャボン玉が弾けたように一瞬で崩れ去った訳ではありません。
例えば、バブル景気の象徴のようなイメージが持たれているジュリアナ東京のオープンは、実質的にはバブル景気が終了していた1991年でした。
1991年。「東京ベイエリア攻略大作戦」。ジュリアナ東京。 pic.twitter.com/uHCpYSL5th— 山田耕史 ファッション×歴史のnoteはじめました (@yamada0221) January 20, 2023
1991年の時点でジュリアナ東京は大盛況。
全盛期は、平日でも1000人以上の集客があり、台風で山手線が止まった月曜日であっても、約800人が来店した。1991年年末頃の金・土・日曜日は2000人以上、3000人を超えることもままあった。そのため、店内が鮨詰め状態であり、周囲の他人と触れることなく、店内を移動することは不可能であった。
このジュリアナ東京の浮かれっぷりからもわかるように、1991年の時点でも、バブル経済が崩壊したという認識は、世の中にはほぼありませんでした。
そもそも、それまでの好景気がバブルだったという認識を持っていたのは、専門家でもごく少数でした。
事後的に見ると、1989年末の日経平均株価3万8,915円がバブル景気のピークであり終わりであったとわかります。
ですが、1991年8月に経済企画庁が作成した月例経済報告の判断文に「国内需要が堅調に推移し、拡大傾向にある」とあるように、日本政府も1991年の段階ではバブルが崩壊したという認識はしておらず、景気は上昇局面であるとしていました。
ですが、1992年に入ると景気の低迷が顕著になりはじめ、1993年頃には、1989年頃までの景気がバブルであったことが、世間一般にも広く認識されるようになります。
つまり、この『POPEYE』1990年3月7日号が発売された時点では、バブルは終わったけど終わってなかったのです。
そんな世の中の空気感が上掲の広告にも現れているように思えます。
1990年のネペンテス
目次。
右ページ、コンバースのワンスターの広告。
パナソニックやソニーといった大手家電メーカーが当時の『POPEYE』出稿していたのは、オーディオの広告でした。
こういったコンポが、この頃の若者に売れていたということでしょう。
誌面冒頭のミニニュースページ、“POP・EYE”。
“シルクのように柔らかいコットンにペイズリーが蘇る”というキャッチコピーのシャツを販売していたのがネペンテスです。
ネペンテスは今も人気の渋谷のセレクトショップで、オリジナルブランドのニードルスのトラックジャケットは数年前からリバイバルで大ヒットアイテムとなっています。
2000年代のメンズファッションに多大な影響を与えたブランド、ナンバーナインのデザイナーの宮下貴裕さんを輩出したことでも知られています。
建築家、高松伸さんのコラムは、ジャンフランコ・フェレのジーンズについて。
ジャンフランコ・フェレは、ジョルジオ・アルマーニ、ジャンニ・ベルサーチと共に「3G」と呼ばれ、当時大人気だったイタリア人デザイナー。1989年から1996年は、クリスチャン・ディオールのクリエイティブディレクターも務めていました。
https://www.pinterest.jp/pin/819303357225868074/
余談になりますが、ジャンフランコ・フェレの後任として、クリスチャン・ディオールのクリエイティブディレクターに就任したのが、ジョン・ガリアーノです。
https://www.pinterest.jp/pin/8162843051374072/
パタゴニアのシンチラジャケット人気は1989年末から
ここからが今号の特集、“’90年版Fashionインポートカタログ”。
筆頭は“アウトドアウェアメーカーの雄<パタゴニア>”です。“シンチラという名は<パタゴニア>の登録商標で、他のメーカーはこの素材をポーラープラスなどと呼んでいる”、
“日本でも街着として昨年暮れあたりから人気はウナギ登りで、街のあちこちで着ている人を見かける”とあり、パタゴニアのシンチラジャケットは1989年末から人気だったということがわかります。
1987年初期渋カジの定番アウターB-3
様々なブランドのフリースジャケットの紹介。ページ右端には“革は、もう古い!ポーラープラスでいこう”とあります。
ここに、「革」という言葉がなぜ登場するのか。
それは、レザージャケットは、渋カジを象徴するアイテムだったからです。
「渋カジが、わたしを作った。」という書籍の表紙でも、表紙にミリタリーもののレザージャケットであるB-3が登場しています。
渋カジが、わたしを作った。 団塊ジュニア&渋谷発 ストリート・ファッションの歴史と変遷(Amazon)
この書籍では、渋カジが生まれる前の1985年頃からの、ビフォー渋カジ達が着用されていたアイテムが細かく紹介されています。
85~87年の黎明期のアメカジは、新しい情報が瞬時に広がるSNS全盛の今とは違い、都内有 名私立高校→都内私立高校の順番で口コミでゆっくり広がっていった。そうした現象を、ティーン向けファッション誌が単発で紹介することで、それまでよりは大幅に速度を上げて伝播したものの、98年の時点ではまだ、アメカジは都内のみの局地的な流行にすぎなかった。 ファッション的な視点で見ると、この時期のアメカジを「アメカジ」にカテゴライズするのは 少し抵抗があるかもしれない。85~86年のアメカジは、当初からアメカジと呼ばれていたものの、全身をアメリカのブランドで固めたわけではなく、DCやヨーロッパのブランドも混ざっていて、なんとも不完全なスタイルだったからだ。
↓の記事でもご紹介していますが、1985年はDCブランド人気絶頂期。
そこから2年経った1987年でもまだまだファッション誌の中心はDCブランドでした。
そんなビフォー渋カジも、1987年になると雰囲気が変わってきます。
当初は野暮ったかったアメカジは、年を経るごとに、洗練の度合いを深めていった。MA-1 にジョッパーズパンツに〈Kスイス〉のスニーカーだった85~66年の微笑ましいアメカジは、87年には〈アヴィレックス〉のB-3に〈ヘインズ〉のTシャツに〈リーバイス〉501に〈レッド・ウィング〉のエンジニアブーツ、と男らしく進化した。そして、88年の春になり、分厚い B-3を脱ぐ季節になると、これまで制服のように画一的だったアメカジに、様々なバリエーションが加わるようになる。
1987年の渋カジ達が着用していたアイテムは、今も変わらず販売されています。
[アヴィレックス] B-3 フライト ジャケット リアルムートン MADE IN USA(Amazon)
[ヘインズ] ビーフィー Tシャツ BEEFY-T 2枚組 綿100%(Amazon)
[レッドウィング] 2965 8inch Engineer 8インチエンジニアブーツ
そして、こういった渋谷に集まる若者のファッションに対する呼称として、1988年頃に「渋カジ」という言葉が生まれます。
誰がこの言葉を生んだのかは不明だが、洗練されたアメカジは88年頃から渋カジ”と呼ばれるようになる。渋谷を徘徊するアメリカン・カジュアルの集団=渋谷カジュアル=渋カジ。それ は渋谷センター街に屯する若者たちから生まれた日本で初めてのストリート・ファッションと言えるものだった。
88年に入ると、かれらのファッションとライフスタイルが都内の高校生に口コミと雑誌(女性誌、ティーン誌)で伝わり、それを真似するフォロワーが爆発的に増加。一部の少数の有名私立 高校生たちが仲間内で温めていた卵が、まだ東京都内限定ではあったものの、孵化したのだ。
翌年の1989年になると、渋カジ御用達アイテムはさらに変化します。
89年の秋冬は、これまでのワーク、NBA系のアイテムに加えて、本格的なアウトドア・アイテムに注目が集まった。セーターはアメリカ物よりイギリス物が主流で、(インバーアラン)やファクトリーブランドのフィッシャーマンセーターや、〈マイケル・ロズ)などのフェアアイルセーターが売れ筋に。本国ではおじいちゃんが着るような服で、16~17歳の高校生には似合わないはずなのだが、エンジニアブーツや501と合わせれば、なぜか若々しく見えた。
アウターで目立ったのは、ダウンジャケットとダブルのライダースジャケット。この二大アウ ターの他にもマウンテンパーカーやフィールドジャケット、ブランケットジャケット、そしてインポートショップのスタッフやファッションリーダーの間ではムートンコートが流行した。 ダブルのライダースジャケットは黒の表革が主流。一番人気のメーカーは〈ショット〉で、5 万円前後と品質に対してリーズナブルな価格と、基本に忠実なベーシックなスタイルで支持が高かった。翌年に爆発的にヒットする〈バンソン〉を着ている人はまだ少数派だった。 ダウンジャケットはライダースと違ってブランドも様々。〈ザ・ノース・フェイス〉〈ウールリッチ〉〈ウォールズ〉〈ウッズ〉などが様々なバリエーションで売られていて、安いものは1万5000円ほどで、高いものでも5万円ほど。ダウンの流行は春夏の渋カジ・スタイルの延長線にあるもので、春夏に流行ったコーディネートに羽織れば一丁あがり。他のアイテムを買い足さなくてもお手軽に冬支度できたのが良かった。
もちろん、ショットのダブルライダースジャケットも現在でも入手可能。
[ショット] 228US ラムレザー ライダースジャケット(Amazon)
と、長くなりましたが、1990年3月の時点で、渋カジの定番冬アウターのひとつがレザージャケットでした。
そこに、パタゴニアをはじめとしたアウトドアブランドのフリースジャケットを推す、というのが、今号の『POPEYE』の提案です。
パタゴニアに続いて、エーグル、LLビーンと現在もお馴染みのブランドに続き、“ショットガンで知られるメーカー”レミントン、そしてミリタリーウェアの老舗、ロスコ。
表紙で“気鋭”と紹介されていたサマスは、スキーウェアからアウトドアウェアに参入したイタリアのメーカー。
2016年にはビームスで取り扱われていたことがわかりましたが、2023年現在はどういった展開をしているのかは、わかりませんでした。
表紙にもあった、ポーラープラスの説明。
“ダウンベストは赤系が人気だ”。
細かくご紹介していくとキリがないので割愛しますが、各ブランドの解説もしっかりと記されているので、特に古着好きにはかなり有益な資料になるのではないでしょうか。
“カーハートのポリ・パーカは絶対買い!”。スウェットが中心です。チャンピオンやセント・ジェームスなどの今も人気のメーカーだけでなく、おそらくなくなってしまったであろうメーカーも多数。
“重ね着に役立つハイネック&Tシャツ”。
渋カジを洗練させたインポートショップ
“インポートの目玉は別注アイテムだ”。セレクトショップの醍醐味のひとつである、別注アイテム。
当時、まだ別注アイテムは一般的な存在ではなかったようで、以下のような説明文が記されています。
“インポート物の中でも各カジュアルショップが、各国のメーカーやファクトリーリセットにスタイルやサイズバランスなどを独自に注文して作っているアイテムのこと”。
「渋カジがわたしをつくった。」に記されている1988年頃にアメカジの洗練度合いを深めていった、という上掲の引用の後に、以下のような一節があります。
これには、渋谷のインポートショップ(セレクトショップ)の存在が大きく関係している。当 時の渋谷・原宿周辺には「ビームス」「シップス(ミウラ&サンズ)」 「バックドロップ」「ユニオンスクエアー (レッドウッド、ナムスビ)」などの既存のインポートショップに加え、「スラップ ショット」 「ラブラドールリトリーバー」「ジョンズクロージング」などの新興勢力が矢継ぎ早にオープン。アメリカ製の洋服を扱う店が爆発的に増えていた。そしてそこには、洗練された着こなしの店員がいた。見よう見まねで始めた新世代のアメカジが、年季の入ったアメカジの先輩の薫陶を受けたのは想像に難くない。
そして、このページに掲載されている別注アイテムを販売していたのが、バックドロップやレッドウッドなどのインポートショップだったのです。
ナイキのバルトロは“山男”のカラー別注商品。
山男フットギアは、現在も人気のアメ横の老舗スニーカーショップです。
“Gジャン&ジーンズは欧州ブランドが主流”。
リーバイスやディッキーズといったアメリカの定番ブランドはもちろんのこと、ディーゼルやシマロンなどの当時はまだそれほど一般的ではなかったであろう欧州ブランドも多数ピックアップ。
次ページに大きく映っている、ボランフライが露出した特徴的なデザインのジーンズは、イタリアのリプレイのもの。
“デニムシャツと綿パンツは相性がいい”。圧倒的なデニムシャツの数です。
“今春、定番シャツはB・Dタイプ”。
メルトン素材のメルトンが、メルトン社を表していたとは知りませんでした。
“プリントシャツが復活するぞ”。ご存知ポロラルフローレンやレイン・スプーナーの他、初見のブランドも多数。
“質の高さは世界一”のジムフレックス
“売れ筋のブルゾン、ショートパンツをチェック!”。
ブルゾンはイギリスの老舗、バラクータからアメリカのサーフブランド、ビラボン、そしてLLビーンやカーハートなどのアウトドア、ワークまで幅広いラインナップ。
短パンで目を引いたのが、ジムフレックス。“ラグビーの本場イギリスで、プロ・アマ無数のチームユニフォームとして使われてきて、改良に改良を重ねてきたので質の高さは世界一”というブランドだったようです。取り扱いはABCマート。
“渋カジ卒業生は、こんなニットを着ている”。
大きく掲載されているのは、今も古着で人気のクージ。
ここで特集は一旦お休み。後半戦に続きます。
「最も快適なブーツ」はハイテック
モノクロページは“ススンでいる奴はアウトドア・スタイルでキメている”。
“アウトドアアイテムはインポート物の宝庫”ということで、これまでの特集でもアウトドアブランドは数多く登場していましたが、こちらではアウトドアブランドだけに絞った提案になっています。
います。
大きく掲載されているのは、今も人気のコロンビアのフィッシングベスト。渋カジでも人気のアイテムで“街着として着られることが多くなった”と記されています。
フィルソン、グレゴリー、ヘリー・ハンセン、ビクトリノックスなどなど、ファッション系に比べ、アウトドア系ブランドのほうが今も残っている確率が高いような気がします。
“米バックパッカーマガジンのテストで、「最も快適なブーツ」という評価を受けた”、ハイテック。当時、僕はボーイスカウトに在籍していて、たま〜に登山をしていたりしたんですが、そのときにハイテックのブーツを履いていました。
ノースフェイスはテントで登場。
“ジェットスキーをはじめたら彼女ができた”
バブル期に爆発的な人気を誇ったスポーツと言えば、スキーです。
1987年に公開された『私をスキーに連れてって』は、メディアなどでバブル期を振り返るときに、必ずと言っていいほど登場する作品です。
ということで、スキーグッズの数々。“白のYJでゲレンデに乗りつけたい”。
YJとは、ページ中央のジープラングラーのモデル名です。
https://www.pinterest.jp/pin/74168725099993452/
“ルーフトップにはMTBが一番似合う”。
モンドリアン柄のブーツカバーは、フランスの高級ロードバイクブランド、ルックのもの。
以前、ロードバイク通勤をしていたときに見かけて以来、ルックは憧れのブランドでした。子供たちと公園や買い物に行く程度ですが、最近またロードバイクに乗る機会が増えたので、また気になってしまっています。
現在鋭意執筆中なんですが、誌面にフランスの自転車ブランド、LOOKのグッズが出てきて、以前燃えていたヴィンテージLOOK熱が再燃してしまっています…
— 山田耕史 ファッションアーカイブ研究 (@yamada0221) December 8, 2023
やっぱり格好良いな… pic.twitter.com/qOvfviibSD
“フランス製のパトリックのMTBシューズ”も気になりますね。
“ジェットスキーをはじめたら彼女ができた”って、凄いフレーズですね笑。“爆発的な人気のジェットスキー”と、当時ジェットスキーは相当な人気スポーツだったようです。
以上でアウトドア編は終了。
1990年の時代の雰囲気がよくわかる広告の数々
まだインポート特集は続きますが、ここでちょっと閑話休題。
印象に残った広告をいくつかご紹介します。
広告にはデザインやキャッチコピーにその頃の時代性が強く出るので、見ていて飽きません。
リーバイス広告。“CLASSIC in EVERY DETAIL”と、リーバイスの歴史が強調されています。
こちらはラングラー。“フロンティア・スピリットの故郷テキサスのNo.1”と、こちらも同じくその出自である西部のカルチャーを打ち出しています。
ヤマハの原付き、JOGの広告。シンガーソングライターの松岡英明さん。フォントがめちゃくちゃ90sぽいですね。
チェッカーズによるケンウッドのコンポの広告。モンドリアンっぽいマルチカラーの車が、めちゃくちゃ当時っぽいです。
似た雰囲気のこちらはビクター。こういった色使いがトレンドだったことがわかります。
パナソニックのコードレスホン広告。そう言えば、僕の実家のダイヤル式電話機がコードレスホンになったのもこの頃でした。
森高千里さんのパイオニアのコードレスホン広告。欲しかった。
左ページ、日清パワーステーションの1ヶ月のライブスケジュール。
日清パワーステーション (にっしんパワーステーション、NISSIN POWER STATION) はかつて東京都新宿区新宿六丁目の日清食品東京本社ビルの地下に所在していたライブハウスである。
かなり興味深いラインナップ。大きく扱われているのは、THE ALFEEの坂崎幸之助さんのライブには、スペシャルゲストとしてTUBEの前田亘輝さんとXのToshiさんが登場。その他、YOUさんがかつて在籍していたバンドFAIR CHILDも出演していたようです。
三菱電機のテレビの広告。
“いまやコレクターズアイテムと言える程のNB576シリーズ”
後半は、“’90年度版渋カジ必携インポートFASHIONカタログ”特集のグッズ編。
“ベルトや靴、リュックなどはインポートものに限る”。その理由は“正直な話、ベルトや靴なんて、次々とっかえるというワケにゃいかない。だからこそ、思いきってちょっといいものを買っといた方がいい”とうことだそうです。
ベルトに関する資料は、かなり少ないのではないでしょうか。僕も知らないブランドがほとんどです。
スニーカーとブーツ。
“いまやコレクターズアイテムと言える程のNB576シリーズ”という書き方から、当時ニューバランス人気が非常に高かったことがよくわかります。
右下はハイテックの他、イタリアのロットやトレトンなど、なかなか見ないブランドのアウトドア系シューズ。
左上はブーツ。
左下はロングブーツ。
お次はバッグ。
“ブラックのリュックは卒業。ウエストバッグに注目”。
カラフル。
バリ島のブランド、Bali Collectionには“耐久性には少々難あり”と正直な解説笑。
左上のcosbyは懐かしいですね。僕も当時、cosbyのバッグを使っていた記憶があります。
知らないブランドもちらほらと。ここらへんちゃんと覚えておいたら、リユースショップをディグるときに役に立つかもです。
“ベースボールキャップ人気、ガゼン強し”。
こちらも知らないブランドが結構あります。やはりこの頃のデザイン総じては色が良いですね。
“今年のサングラスはミラーなのである”。
こういうグッズ類の資料はかなり貴重なのでは。
例えば右下のEmbassyの説明文には“フロリダ州に本社があるナイト&アンダーウエアのメーカー。B・ブラザースのナイトウエアもココでつくられている”という有益情報が記されています。
靴下探究家の僕としては非常に気になるラインナップ。
インポートものは“安くオシャレができる”
“インポート・ブームを探る”と題された、モノクロページ。“洋服から靴、クルマと、身の回りの総てにわたりインポートものが大変な人気を読んでいる。いったいこのブームは何が原因で、現実はどう動いているのか?”という内容です。
“「洋服買うなら、インポートショップへ行く」のはナゼか”。
理由として最初に挙げられているのが、“安くオシャレができる”ということ。
詳しい解説もあります。
理由その1:渋カジのベースは労働者の普段着
“インポートものって、安いのにカッコつく。お得なワケね”と題された、解説1を全文引用します。
“とにかく今の渋カジ、あえて言っちゃうとアメリカの労働者の普段着がベースになってるわけだ。 ヘンリーネックのシャツにネルシャツ、ワークブーツ、ジーンズ…。そういうファッションが高い値段のわけはない。アメ横とか行って探せば安い掘り出しもので、上から下まで正統渋カジコーディネイトができあがる。シルベスター・ スタローンのはいてるLeeの101もディーンのリーバイス501 もボクらの1日の バイト代で買える んだもんね。日本のDCで揃えることを考えれば、余った金でインポートショップに行き一点豪華主義に走ってもオツリがくる。 一ロにインポートといってもプライス的にはすごく幅がある、が右の図。本国でのプライスは日本の服より安いけど、それを日本に持ってくるんだから当然高くなる。 でも定番ものは工場から直接買うなど努力の結果激安もんも出現するけど、人に差をつけられるトレンドもんは買いつけて持ってくるから割高になってしまうわけね。”
ということでまとめると、“アメリカの労働者の普段着”だから安い、ということです。
お次は先程も登場した、別注の流通システムについて。
渋カジは“ショップがファッションリーダー”
次が興味深いです。
“ショップがファッションリーダーになってる”。
こちらも全文引用します。
渋カジに限っていえば、自分なりにアメリカをどう表現するかがオシャレ心なわけで、インポートショップはそれぞれにカッコいいアメリカを表現している。そんなにカッコよくないアメリカの店にものりこんで、それぞれのショッ プの目で表現したいものに合ったものを選んでくる。
とりあえず自分の表現したいア メリカの方向が決まったら、そのテイストの店にとにかく通う。さらに定番ものはアメ横で安く買う。 で、渋カジ完成、のてっとり早さもオシャレ初級者にはかえがたい魅力なのだ
渋カジはストリートから発生した正真正銘のストリートファッションでした。
上掲の「渋カジがわたしをつくった。」でも書かれている通り、渋谷界隈に集まる中高生たちが発信源となりましたが、上でも引用したように、同時期の渋谷には後にセレクトショップと呼ばれるインポートショップが数多く生まれていました。
これには、渋谷のインポートショップ(セレクトショップ)の存在が大きく関係している。当時の渋谷・原宿周辺には「ビームス」「シップス(ミウラ&サンズ)」 「バックドロップ」「ユニオンスクエアー (レッドウッド、ナムスビ)」などの既存のインポートショップに加え、「スラップ ショット」 「ラブラドールリトリーバー」「ジョンズクロージング」などの新興勢力が矢継ぎ早にオープン。アメリカ製の洋服を扱う店が爆発的に増えていた。そしてそこには、洗練された着こなしの店員がいた。見よう見まねで始めた新世代のアメカジが、年季の入ったアメカジの先輩の薫陶を受けたのは想像に難くない。
これらのショップが先導して、渋カジブームはさらに拡大していきました。
1990年に“インポートブランド”が大人気だった理由
さて、今回ご紹介してきたように、1990年当時はインポートブランドが大人気でした。
では、その理由はなんだったのでしょうか?
先ほども出ていたように、“アメリカの労働者の普段着”だから安くオシャレができるという理由ももちろんあるでしょう。
僕はそれに加え、円高の影響でインポートブランドに非常に割安感があった、という理由も大きいのではないかと思っています。
こちらは1973年に変動相場制が導入されてからのドル円相場の動きです。
https://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/reference/gazou/yenrate/yenrate1.pdf
バブル景気の引き金となった、1985年のプラザ合意以降急激に円高が進んでいます。
1985年には1ドル=250円だったのが、ピークの1987年には1ドル=122円に。
その後揺り戻しのような円安ドル高が訪れ、1990年には1ドル160円になります。
ちなみに1990年の円安ドル高は異常事態だったようで、こちらのような解説記事も見つけられました。
とはいえ。
たった5年前まで1ドル=250円だったのが、1ドル=160円になっているのはインポートブランドを買う場合相当お得感があったのは間違いないでしょう。
諸々を端折ってシンプルに表現すると。
例えば、パタゴニアのフリースがアメリカで100ドルで売られていた、としましょう。
1985年にそのフリースを買うためには、25,000円が必要でした。
ですが。
1990年にそのフリースを買う場合は、16,000円だけでいいのです。
全く同じアイテムが、9,000円お安くなっています。
ざっと4割引です。
購買意欲を刺激するのに充分過ぎるお得感でしょう。
また、当記事の最初にご紹介したように、1990年の段階ではバブル景気のピークを過ぎていたを認識していた人は、当時の日本にはごくわずか。
ほとんどの人は右肩上がりの経済成長が永遠に続くというイメージを持っていたと思われます。
そういった時代だからこそ、「将来のために貯蓄しておこう」などと心配することなく、ファッションにお金をかけることができたのでしょう。
全国に点在していたインポートショップ
モノクロページ、“しばしばチェック必要あり重インポートショップ”。
“日本全国9大都市。まわりにまわって、すこしでも安く、すこしでも多くいい物ある店、見つけてきたよ”ということで、全国のインポートショップカタログです。
トップバッターはアメカジの聖地、東京上野のアメ横。玉美やヤヨイなど、今も人気のショプも掲載されています。
渋カジ発祥の地、渋谷はさすがのショップ数。
ショップはタイプ別に分類されています。スラップショップやプロペラなどが“渋カジの定番ショップ”として挙げられています。
オリジナルアイテムが中心の“ちまたの定番ショップ”はビームスやシップス。
“きっと、渋カジ少年がフォーマルするときに着る服”を買う“ワンランク上の定番ショップ”はビームスFやエリオポール。“個人輸入をガンバッテルお店”、つまり並行輸入品を扱うのはラブラドール・レトリーバー。
古着屋はサンタモニカやデプト・ストア。インディアンジュエリーはゴローズ、そして“掘り出し物が見つかるショップ”はネペンテス、オッシュマンズ、ハイ!スタンダードやハリウッドランチマーケットなどなど。
下北沢、自由が丘、吉祥寺。
関西です。京都、大阪。
今も人気のセレクトショップ、ロフトマン。
名古屋と神戸。
神戸は“高架下が震源地”。三宮高架下やモトコー(元町高架下)ですね。
今も神戸に店を構えるナイロンやタイガースブラザーズ。
札幌、金沢。
福岡、熊本。
渋カジはバブル経済の申し子だった
こうやって全国のショップカタログを見ていると、当時の日本で渋カジが人気になった理由がわかってきました。
これだけ全国各地にインポートブランド、主にアメカジアイテムを扱うお店が点在していると、地方在住でも渋カジは比較的容易に真似ができたのでしょう。
円高の恩恵もあって、バブル期はそれまでよりも海外旅行のハードルがかなり下がり、庶民でも気軽に海外に行けるようになりました。
ショップカタログでも並行輸入品を扱うお店がピックアップされていましたが、そういった個人バイヤーも当時かなり増加していた筈です。
まだバブル景気真っ只中の1987年頃に生まれた渋カジ。
そして、今号が発売された1990年も、まだまだバブル景気の余韻が色濃かった時代です。
そう考えると、渋カジはバブル経済の申し子だった、と言えるのかもしれません。