山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

【1993年】バブル崩壊後だから生まれた“普通”ファッションと、「裏原系」独自のカルチャーを育んだ「地価の下落」。

目次

 

今回ご紹介するのは、「POPEYE」1993年9月15日号です。

1980年生まれの僕は、当時13歳の中学1年生でした。

平日の学校終わり、そして休日はずっと部活のソフトテニスをやっていた当時の僕は、私服を着る機会がほとんどなく、週に2回通っていた塾に行くときくらいでした。

自分が着る服は、たまに家族と買物に行ったときに、スーパーの2階の衣料品売り場で買っていたと思います。

朧気な記憶ですが、確か中学2年生のときに歩いて行ける範囲にユニクロができ、自分で自分の服を買うようになりました。当時ユニクロで買っていたのは、ナイキのTシャツやアディダスのソックスでした。

というように、1993年当時の僕は、「POPEYE」のようなファッション誌とは全く縁がない生活を送っていました(生まれて初めてファッション誌を買ったのは高校生になってからです)。

 

1993年のJ-POPの凄まじい売り上げ

この頃の僕にとって一番大事だったカルチャーは間違いなくJ-POPです。

1990年代のJ-POPは「メガヒットの時代」とも言われるように、ミリオンセラーが多発した時代でした。

その中でも特に、1993年のJ-POPの勢いには凄まじいものがありました。

年間売り上げシングルCD第1位の「YAH YAH YAH/夢の番人」の241.9万枚(オリコン調べ)を筆頭に、第10位の「世界中の誰よりきっと」までシングルトップテン全てが200万枚以上を売り上げています。

1位 CHAGE&ASKA:「YAH YAH YAH/夢の番人」

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2位 B'z:「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」

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3位 THE 虎舞竜:「ロード」

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4位 サザンオールスターズ:「エロティカ・セブン EROTICA SEVEN」

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5位 B'z:「裸足の女神」

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6位 ZARD:「負けないで」

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7位 WANDS:「時の扉」

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8位 松任谷由実:「真夏の夜の夢」

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9位 ZARD:「揺れる想い」

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10位 中山美穂&WANDS:「世界中の誰よりきっと」

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バブル崩壊が本格的に始まった1993年

このように、J-POPが空前の好景気に沸いていた1993年でしたが、日本経済にとって1993年は本格的にバブル崩壊が始まった年でした。

失われた10年、いや失われた20年、いやいや失われた30年?の始まったのが、1993年ということです。

バブル崩壊についてご紹介する前に、そもそも何故1980年代の日本にバブル景気が到来したのかについて触れておきます。
1981年に就任したレーガン大統領は、高金利による金融引き締めによりインフレを抑え込む、新しい経済政策が進めました。

高金利は海外からのドルへの流入を招き、ドル高が進行しました。

アメリカは景気回復には成功したものの、巨額の経常収支赤字を抱えこむようになり、それは世界経済の波乱要因になる可能性がありました

1985年9月にニューヨークのプラザホテルで開催された、先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議では、ドル高是正の協調政策をとることが合意されました。これをプラザ合意と呼びます。

プラザ合意のポイントは3つでした。

・行き過ぎたドル高

・その是正のため各国が外国為替市場に協調介入するなど積極的に協調行動を取る

・市場開放や内需拡大策の推進

プラザ合意前のドル円相場は概ね1ドル=240円前後で推移していましたが、その直後は229円まで円高が進行。その後更に進み、1986年1月2日のニューヨーク株式市場での円相場は200円を切りました。つまり、9月22日にプラザ合意から3ヶ月で1ドル=240円から199円になったのです。
円が高くなるということは、ドルが安くなるということ。

プラザ合意ののちに、円高の動きが急速に始まります

その後、1985年末には200円近くまで上昇し、1988年には120円代前半に達します。

1985年初頭には1ドル250円はドル円相場はだったので、1985年から88年の3年間で円の価値が2倍になったのです。

こういった状況を受け、日本の資産価値は急上昇しました。

特に、1987年以降景気が急回復する中で企業収益が大幅増益を続けたことが要因となり、株価が上昇

また、東京都心部におけるオフィスビル需要が増加したことにより、地価が上昇しました。

1982年10月を底に上昇し始めた日経平均株価は1984年に1万円台、1987年に2万円台を付け、1989年末の大納会での終値は3万8,915円となります。

これ以降、2023年の今に至るまでこの3万8,915円が日本の株価のピークでした。

年が明け、1990年に入るとバブルの崩壊が始まります

同年3月に日経平均株価は2万円台に、10月にはピーク時の約半分の2万円近くまで下落します。

バブル崩壊の引き金となったのは、1990年末に大蔵省が金融機関に通達した土地関連融資の「総量規制」と、不動産・建設業・ノンバンク向け融資の実態報告を求める「3業種規制」でした。

すでに首都圏を中心に始まっていた地価の下落は1991年末ごろから全国に波及していきます。

日経平均株価も、1990年10月に一時2万円台を割り込み、1992年8月には1万4,000円台に突入しました。

また、銀行の自己資本比率を8%以上とする国際決済銀行(BIS)規制が、1992年度末から日本の大手銀行にも適用されたため、自己資本比率低下に苦しむ金融機関は、いわゆる貸し渋り、貸し剥がしに動きました。

企業倒産は過去最多のペースで推移し、それが金融機関の不良債権を増大させるという悪循環をもたらしました。

 

バブル崩壊が世間一般に認識されるようになった1993年

ちなみに、バブル景気の象徴のようなイメージが持たれているジュリアナ東京のオープンは、実質的にはバブル景気が終了していた1991年でした。

1991年の時点でジュリアナ東京は大盛況。

全盛期は、平日でも1000人以上の集客があり、台風で山手線が止まった月曜日であっても、約800人が来店した。1991年年末頃の金・土・日曜日は2000人以上、3000人を超えることもままあった。そのため、店内が鮨詰め状態であり、周囲の他人と触れることなく、店内を移動することは不可能であった。

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ですが、このジュリアナ東京の浮かれっぷりからもわかるように、1991年の時点でバブル経済が崩壊したという認識は、世の中にはほぼありませんでした

そもそも、それまでの好景気がバブルだったという認識を持っていたのは、専門家でもごく少数でした。

事後的に見ると、1989年末の日経平均株価3万8,915円がバブル景気のピークであり終わりであったとわかります。

ですが、1991年8月に経済企画庁が作成した月例経済報告の判断文に「国内需要が堅調に推移し、拡大傾向にある」とあるように、日本政府も1991年の段階ではバブルが崩壊したという認識はしておらず、景気は上昇局面であるとしていました。

ですが、1992年に入ると景気の低迷が顕著になりはじめ、1993年頃には、1989年頃までの景気がバブルであったことが、世間一般にも広く認識されるようになります。

 

“上質でチープが合い言葉”

ということで、バブル経済が崩壊したという認識が広まっていた、という当時の世相を踏まえた上で、ここで改めて「POPEYE」1993年9月15日号の表紙を見てみます。

特集は“誰もが「いいね」といってくれる普通ファッションの極意”。右端にも“普通に見える”とあるように、“普通”を強くアピールしています

誌面序盤の小ネタページ、“POP EYE”。

“パリ発想のヴィンテージモデル”という触れ込みのジーンズ。

そのキャッチコピーが“上質でチープが合い言葉”

直接的な意味での「チープ」という表現が誌面冒頭に登場するのは、バブル景気真っ只中では考えられなかったのではないでしょうか。

 

“普通”のオシャレが一番大切な時代

特集の“誰もが「いいね」といってくれる普通ファッションの極意”の扉ページ。

タイトル横の文章。(強調引用者以下同)

ウケを狙ったり、奇をてらったりっていうファッションが、今、一番アブナイ何気なく“普通”のオシャレをしているというのが大切な時代なのだ。でも、この普通さを極めるのはかなり難しい。当たり前すぎても、ワザとらしくてもいけない。ごく自然に、“普通”をこなさなくちゃならないのだ。”

“ウケを狙ったり、奇をてらったりっていうファッション”というと、こういう感じでしょうか。

これは以前の“ファッションアーカイブ”でご紹介した、1987年の「POPEYE」です。

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↑の記事で詳しくご紹介していますが、1980年代中盤から本格化したDCブランドブームは、後期の1980年代終盤になるとかなり奇抜な服装が人気を集めるようになりました。

こちらは同じく以前の“ファッションアーカイブ”でご紹介した、1986年の「POPEYE」に掲載されたスナップ。

ファッションに対して非常に前のめりで、主張の強い時代だったことが伝わってきます。

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↑の記事でもご紹介しましたが、書籍「WHAT'S NEXT? TOKYO CULTURE STORY」に収録された、DCブランドの代表格であるタケオキクチ、メンズビギを手掛けた菊池武夫さんと、メルローズのチーフデザイナーを務めていた横森美奈子さんの「ブームを牽引した立役者が語るD/Cブランド回想録」という対談で、80年代のDCブランドブームの頃の若者のファッションに対する価値観が非常によくわかるエピソードが話されています。

横森:ファッションのいまと当時を比較すると、お金をかける優先順位が違うんですよね。
菊池:それはみなさん言ってるよ。ほとんど食べないで働いて、とにかく服を買った時代だね。 道路工事の仕事しながらお金を貯めて服を買ったというような話もよく耳にしましたしね。
横森:洋服で自分を表現したいという欲求が、いまと違ってものすごく高かった。 いまのようにライフスタイ ルという言葉もないし、生活全体のバランスをとってという考えもなかったですしね。
菊池:お利口じゃないんだよ(笑)。 それは80年代半ばまで続いたね。

このような“ウケを狙ったり、奇をてらったりっていうファッション”がバブル景気の象徴であり、そのカウンターとなるのが、この1993年の「POPEYE」で提案されている“普通”ファッションであると言えそうです。

その表れが、特集タイトルの横に並ぶのが、“普通に見える。清潔に見える。ギンギンにオシャレに見えない。渋い。上品に見える…”という文言でしょう。特に、“ギンギンにオシャレに見えない”というのは、明らかに金満バブルファッションのアンチテーゼ的な主張であることを感じます。

 

“普通”ファッションの三神器「テーラード」「タートル」「同系色」

で、その“普通”ファッションとは具体的にどういうファッションなのでしょう。

その象徴とも言うべき、このページに何度も登場しているキーワードが“コンサバ”です。

コンサバはコンサバティブ(conservative)の略語で、ファッション辞典によると“<保守的な>の意で、流行にとらわれずに頑固に昔風の型を保ったスーツやドレスなどの装いをいう”とのこと。

そして、このページで挙げられている、“普通”ファッションのキーアイテムがテーラードジャケットとタートルネックセーターで、スタイリングの要点となるのが“色目は同系色のグラデーションでまとめる”こと。

 

アメカジショップも“普通”ファッション

次のページからは、様々なブランドやショップが提案する“普通”ファッションです。ユナイテッド・アローズやエンポリオ・アルマーニなど。

扉のページになったように、テーラードジャケット、タートルネックニット、同系色コーデが並びます。

シップス、チャオパニック、ハリウッドランチマーケットなど。

渋カジの発信地のひとつでもあった、アメカジショップの代表格、ジョンズクロージングの河原拓也さんも、“普通”ファッション。

アニエスベー、ポロ・ラルフローレン、メンズ・ビギ、ポール・スミス、エリオポールなど。本来はどれもそれぞれ個性を持ったデザイナーズブランド、DCブランド、セレクトショップですが、こうやって見るとどれも同じファッションのように見えてしまいます。

それぞれのブランドやショップが、この号のテーマである“普通”ファッションに寄せた提案をしているので、同じように見えるのは仕方ない、というか当たり前のことでしょう。

ですが、逆にこれだけ各ブランドショップが似たりよったりのファッションになってしまうことは、どれだけバブルファッションが奇抜だったか、言い換えると個性的だったか、という証左になるような気がします。

 

若き日の清永浩文、宮下貴裕が語る“普通の極意”

次ページは、“超人気ショップが考える“普通の極意”。”

ユナイテッド・アローズの吉原隆さん。“さりげなく、カッコ良く、知的に見える。女性ウケが良さそうなのはこれですね”。

ビームスの青野賢一さんは““普通”に見えるかどうかはアイテムじゃなくて着方でしょう”。

吉原さんや青野さんは僕がファッション誌を読むように1990年代終盤でもよく目にした「ファッション有名人」ですが、この号には彼らの他にも多数「ファッション有名人」が登場しています。

こちらは後にSOPH.を立ち上げる、A.P.C.オム時代の清永浩文さん。モデルみたいなルックス。清永さんは“とにかく流行りものをとっかえひっかえすることないようなワードローブをつくることを心掛けるべきです”とアドバイス。

次ページにも「有名人」が。

ナンバーナインを立ち上げて日本のメンズファッションに大きな影響を与えることになる宮下貴裕さんは“秋にショートパンツ、というのがいいですよ。ウールとかネルといった素材の。今日もしてるんですがその上にベストとジャケット。帽子も欠かせません”と、“普通”ファッションという趣旨にはあまりマッチしていないように思えるコメント。

宮下貴裕さんについてはこちらの記事で詳しくご紹介しています。

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松任谷正隆、高倉健、唐沢寿明は“趣味のいいコンサバ”

次の企画。“コンサバ座談会 趣味のよい普通、これが渋い。”

出席者はシップスの中澤宏之さん、ビームスの登地勝志さん、クラブキングの大野智己さん、大学病院勤務の大友正敏さん。中澤さんは“変わらないのがトラッドなら、時代の空気で微妙に変化していくのがコンサバ”と定義付けています。

“今、活躍している方で、この人はセンスいいな、趣味のいいコンサバだなというのは”という質問に対し、挙げられいるのが松任谷正隆さん。

高倉健さん。

唐沢寿明さんの3人。

次ページでは、具体的なコンサバブランド、アイテムが挙げられています。ブランドはアイク・ベーハー、マルセル・ラサンス、Jクルー、ラコステ、ジョン・スメドレー、オールデン、JMウエストン、クラークスなどなど。

ビームスの登地さんは高倉健さんのスタイリストを務めていたそうです。

 

“コンサバ”なデザイナーズブランドもの

“ちょっと手が出ないけどやっぱほしい、コンサバセレクション”

高価なブランドものの紹介ページです。

“歴史と名前に裏付けられた品々には、必ずそれだけの価値がかるはずである”と、価格やブランドネームだけではない価値をアピールしているところに、バブル崩壊後らしさが感じられます。とはいえ、エンポリオ・アルマーニのパンツが1万9000円、オールドイングランドのニットが2万9000円と、今の感覚からするとかなり安いんですよね。

エルメスのスエードシャツは63万円。

“デザイナーものにもコンサバは存在する”。左ページはコムデギャルソンシャツのシャツ。2023年の今も店頭に並んでいるようなデザインです。

2万7000円。今なら倍額以上になっていると思います。

“コムデギャルソン・シャツのシャツは、一言で言うなら「カジュアルに着れるドレスシャツ」である”という、後に大御所スタイリストになる祐真朋樹さんのコメントにはなるほどと思いました。

“最低限きちんとしていたいから、コンサバ”と、わざわざ文章をぶった斬るように配置したコンバースオールスターは、非コンサバの象徴的存在ということでしょう。

で、コンサバのシューズが“グッチに新しく登場した”ビットブーツ。グッチの定番、ビットシューズをこの時代の雰囲気に合わせてアップデートさせたアイテムなのでしょう。

 

“こんな女のコと付合いたいならコンサバにしなさい”

そして。

誌面終盤には“こんな女のコと付合いたいならコンサバにしなさい”というページが。

“ストリートファッションって清潔感がない”

“アクセサリーをたくさんつけているのも嫌い”

“気張ってないとこがいいですよね、コンサバは”

などというコメントが並んでいます。

次ページでも“ストリート系のファッションってなんだか中学生みたい”と、ストリートファッションにはこれでかというくらい、悪評が寄せられています。

 

芽吹き始めた東京のストリートファッション

このように、ストリートファッションに対してのコメントが多いのは、1993年当時ストリートファッションが存在感を増していたからでしょう。

↓の記事で詳しくご紹介していますが、バブル経済真っ只中の1988年頃に「日本初のストリートファッション」である渋カジが登場します。

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渋カジについてはこちらの過去記事で詳しくご紹介しています。

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その後、バイカースタイルの影響を強く受けたハードアメカジや、シャツやネクタイなどのキレイ目アイテムが中心のデルカジなどの派生スタイルも登場。

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更に、スケートボードやBMX、そしてヒップホップなどのアメリカのカルチャーの浸透により、ストリートファッションの勢いが拡大しつつあったのが、1992〜93年頃でした。

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この頃から徐々にファッションアイテムとし注目度を高めていたスニーカーは、1995年にナイキのエアマックス95が発売されたことをきっかけに社会現象と言えるくらいのムーブメントになりました。

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「地価の下落」が裏原系カルチャーの生みの親

そして、1993年は日本の現代ファッション史を語る上で非常に重要な年でもあります。

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高橋盾さんとNIGO®さんによるショップ、NOWHEREがオープンされるのです。

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1990年に藤原ヒロシさんらが立ち上げたブランド、グッドイナフとこのNOWHEREを中心に生まれたいわゆる「裏原系」は日本のみならず世界のストリートファッションに多大な影響を与えることになります。

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ですが、1990年代の裏原系ブランドは大きな生産背景を持っていなかったので、小ロット、小品種での展開が基本でした。

そういった中で編み出された手法が、コラボレーションやダブルネームです。

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上掲記事でもご紹介していますが、1993年頃に裏原宿に新世代のクリエイター達がショップをオープンできたのは、バブル崩壊により地価が下がったから、という要因もあったようです。

こちらは東京のオフィスの賃料変動率と空室率の推移を表したグラフです。1980年代のバブル期に上昇し続けた賃料は、1991年から92年にかけて滝のように下落し、1993年頃に底を打ちます

これだけ賃料が下落すると、資本を持たない若手クリエイターもショップを構えやすくなっていたはずです。

https://www.cbre-propertysearch.jp/article/the_next_bubble-2006-vol3/

元々、裏原系のクリエイターたちは横の繋がりが強いという特徴がありましたが、裏原宿という狭いエリアにそれぞれのショップが密集していることで、仲間意識も更に高まったのではないでしょうか。

このように、バブル崩壊後の裏原宿だったからこそ、裏原系独自のカルチャーが生まれたと言えるでしょう。

つまり、バブル崩壊が裏原系の生みの親、と言っても過言ではないと思います。

また同じ頃大阪では、20471120やビューテービーストといった、独自の個性を持つブランドが徐々に人気を集め始めます。

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このように、1990年代後半に爆発し、今も影響力を持ち続けている日本ファッションのクリエイティビティが芽吹き始めていたのが、1993年だったのです。

 

参考文献

www.toyota.co.jp