目次:
- お兄系は日本で最後のロック系ストリートファッション
- お兄系が行き詰まっていた2013年
- 憧れのお兄系ブランドデザイナー
- 人気読者モデルの今
- ギャル男ファッション14年史
- 髪型がお兄系ファッションの核
- ラグジュアリーストリートが登場していた2014年渋谷
- ラジオが日本人にロックを伝えた
- ロックンロールからロカビリーに
- ヤンキーファッションの登場
- 矢沢永吉が率いたバンド、キャロルのオリジナリティ
- ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「非エリート」ロックファッション
- ホコ天を彩ったガラパゴス的進化を遂げたファッション
- ローカル化するロックファッション
- アメリカに憧れを持たない世代のロックファッション
お兄系は日本で最後のロック系ストリートファッション
“ファッションアーカイブ”では以前から力を入れてご紹介している、お兄系。
こちらの記事でもご紹介しましたが、今や世界が注目する(現状かなりコアな層のみですが)日本独自のファッションカルチャーと言えるでしょう。
僕はお兄系が日本で最後のロック系ストリートファッションであると考えています。お兄系と2000年代に一世を風靡したロックファッションとの関係性については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
そのお兄系を牽引したファッション誌『men's egg』は2013年11月号で休刊となります。
この後、2010年代を席巻するのはヒップホップから強く影響を受けたラグジュアリーストリート。
ラグジュアリーストリートな人たち、みんな頭が痛くなっちゃってるのなんでだろ… pic.twitter.com/TX8R2KWQZW
— 山田耕史 ファッションアーカイブ研究 (@yamada0221) 2021年4月2日
ですので、僕は2013年の『men's egg』の休刊がお兄系の終焉だったのではないかと思っています。
とはいえ、2013年でお兄系を着る人がいなくなった訳ではありません。
その後、お兄系はティーンズを中心に日本全国に拡散され、より着用者の数は増えているでしょう。
また、ヴィジュアル系ファッションやホスト系ファッションとも融合し、「お兄系っぽい」ファッションは2010年代終盤まで存在していました。
ですが、そこには既にファッションとしての新しさは皆無な状況で、2000年代に培われたお兄系の残滓としか言えない状態でした。
お兄系が行き詰まっていた2013年
そもそも、今回ご紹介する『men's egg』2013年11月号でも、お兄系は既にストリートファッションとしては行き詰まりを見せていました。
ここから誌面のご紹介に入りますが、表紙裏の広告でいきなり登場するのが、ベースボールシャツにスケボーを持ったスケーターファッションのお兄系バージョンとなっている点でも、その行き詰まりっぷりが伺えます。
後述しますが、このお兄系スケートファッションも、次ページのパッと見はごくごく一般的なアメカジで、ジーンズのダメージ具合と着用者の髪型がお兄系であることも、それと同じと言えるでしょう。
詳しくは後述しますが、最初のREBTRAITとこのBONDS&PEACEはどちらも『men's egg』の読者モデル出身のモデルがデザイナーを努めています。
ビームスやユナイテッドアローズといったセレクトショップをはじめ、2013年当時の一般的なメンズファッションの主流だったプレッピースタイルを全て、お兄系らしいスキニーパンツと合わせただけ、という風にしか見えないこちらのスタイルも同様です。
憧れのお兄系ブランドデザイナー
右ページはバンタンデザイン研究所の広告。
デザイン系専門学校の広告が『men's egg』に掲載されているだけでなく、モデルも服装もお兄系ということに驚きます。
そして、“メンズスタイルプロデューサー”という“渋谷系スタイルをベースに、アジアンマーケット最新ストリートスタイルを発信する次世代型ファッションプロデューサーを育成”するコースが紹介されています。
上述のように、読者モデル出身のモデルがデザイナーを務めるお兄系ブランドが数多く存在していたので、お兄系を愛好する若者の中にも、デザイナーを志す人が増えていた、ということでしょう。
人気読者モデルの今
これまでの表紙を並んだ休刊特集の扉ページ。
特集の最初はお兄系ファッションの形成に多大な影響を与えたモデルたちのインタビュー。
トップバッターは澤本幸秀さん。
現在は新宿歌舞伎町でバーを経営されているようです。
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2番目は、田中大地さん。
田中大地さんも現在はバーを経営しているようです。
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上掲の広告のブランド、BONDS&PEACEを手掛けていた引地敬澄さん。
現在はアパレル関係。
【🇯🇵重大発表🇺🇸】
— 引地敬澄(ひっち)@📺かぐや姫と7人の王子たち🌙 (@takazumi0402) 2022年9月18日
この度私、引地敬澄は安藤翼さんと新ファッションブランド【ANDPEACE】を立ち上げる事となりました。
全て国内生産で拘り抜いて製作した本気のコレクションとなっております。
10月に展示会を開催しますので是非皆様の御来場を心よりお待ちしております🍀
※9/28に全貌解禁です🔥 pic.twitter.com/LUU6gJU2kQ
同じく上掲のブランド、REBTRAITを手掛けていた山田ジェームズ武さん。
今は俳優をされているようです。
Dミュ
— 山田ジェームス武 (@takezo0507) 2024年4月3日
そりくん、言わずもがな!
スーパー何でも屋さん。
そりくんおらんとこの作品成り立たんくらい大部分を背負ってくれてる…。
今回いっぱい相談に乗ってもらったしおかげで幅が広がった(僕の歌の)大感謝ちゅきでーす😘
りょーは前回に引き続き安定しまくりだったなぁ〜… pic.twitter.com/04E7zA1iQQ
— 山田ジェームス武 (@takezo0507) 2024年4月2日
左ページ、かずちぇるさんは今はバー経営。
33歳になりました✨
— かずちぇる[men's egg] (@kazucheru_mgg) 2022年7月5日
皆様お祝いありがとうございます🙇♂️
32歳の自分お疲れ様でした👏 pic.twitter.com/tdg3fmEVdP
ファッション関連ではなく、バーなどの水商売が多数なのはやはりお兄系が「ワル」なファッションだったという証左ではないかと思います。
ギャル男ファッション14年史
続いて、“ギャル男ファッション14年史”という、『men's egg』創刊からのギャル男ファッションの変遷という、『men's egg』にしかできない貴重な企画。この特集が“ギャル男ファッション”と銘打たれている通り、『men's egg』創刊当初はお兄系という呼称はありませんでした。この企画によると、2000年頃のギャル男ファッションはサーフ系が強かったようです。
そして、お兄系の文字が登場するのは2004年。“長らく一定の支持を集めていたアダルト系ファッションが『お兄系』と確立され、そのスタイルは全国は席巻”とあります。
以前“ファッションアーカイブ”でもご紹介した「V男」がその「アダルト系ファッション」の源流です。
その後2014年まで様々な派生形が生まれますが、『men's egg』の軸となっていたのはお兄系でした。
髪型がお兄系ファッションの核
続いての企画は“ギャル男ヘア14年史”。
最初にご紹介した広告のように髪型はお兄系ファッションの核と言える要素。その髪型も、このように時代によって移り変わっていたことがよくわかります。
“時代のキーパーソンに直撃”。右ページは現在も#FR2が人気を集める株式会社せーの社長の石川涼さん。
2014年当時も今もタレントとして活躍するJOYさんは特別枠での登場。
せーのが展開していたヴァンキッシュの、モデルが総出演の4ページに渡る広告。全員がテーラードジャケットに白シャツ、そしてジーンズという服装。各自違うシューズと髪型以外はあまりお兄系が感じられません。これも、お兄系の行き詰まりを象徴しているビジュアルなのかもしれません。
ラグジュアリーストリートが登場していた2014年渋谷
右ページ、『BITTER』は当時「ビタ男」という言葉も生み出したくらい勢いがあったメンズファッション誌ですが、4年後の2018年で休刊に。
左ページは『men's egg』最後のストリートスナップページです。
このスナップを見た驚いたのが、既にラグジュアリーストリートっぽいスタイルが登場していたこと。
“やや本気なスケータースタイルに渋谷テイストをプラス”と紹介されていますが、ブラック×レッドのカラーリングやスニーカー、ゴールドのアクセサリーなど、かなりのラグジュアリーストリート感。
ザ・お兄系なスタイルは少数で、多種多様なスタイルが登場しています。
この頃は完全にネタ扱いだった“ヲタ”。まさかこの10年後に一般的な存在になるとは、思いも寄りませんでした。
こちらでもラグジュアリーストリートっぽいスタイルが登場しています。
“ブラックなスト系モードスタイル”と、その説明文もまさにラグジュアリーストリート。
『men's egg』2013年11月号の誌面のご紹介は以上です。
ラジオが日本人にロックを伝えた
さて、これまで「日本で最後のロック系ストリートファッション」であるお兄系の最期をご紹介してきました。
ここからは、日本におけるロックとロックファッションの歴史を紐解いてみます。
引用するのは、私の大学時代の恩師が編著者である書籍「米軍基地文化」です。(強調引用者以下同)
第2次世界大戦の日本に占領軍としてアメリカ軍が駐留したことが、日本へのロック流入のきっかけとなります。
敗戦後、米軍を主体とした連合国軍の占領により、戦中は禁止されていたアメリカ文化が怒濤のように日本社会に流入することになった。米軍による占領は「戦前から都市部の中産階級に浸透していたア メリカニズムを国土全域にまで拡大させ」、困窮していた多くの日本人にとって、アメリカへの憧憬を醸成することになった。
勝者であるアメリカの豊かな文化は日本人の憧れとなりました。
日本にロックンロールがもたらされたのは、アメリカ本国で〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉のヒットによって本格的な流行を迎えた1955(昭和30)年であった。その受容には、1952年 サンフランシスコ講和条約発効後の大規模な撤退があったものの、在日米軍の存在が大きな影響を保っていた。それは、当時まだ全国に存在していた基地や関連施設周辺で、在日米軍向けのラジオ放送であるFENが大きな意味を持っていたからである。
FENはFar East Network の略称で、極東にいるアメリカ軍の軍人および家族向けの放送で、戦後の日本人ミュージシャンにも多大な影響を与えました。
〈ロック・アラウンド・ザ・クロック〉は、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの曲で、その曲名を知らなくても、「あ、聴いたことがある」と誰もが感じるのではないでしょうか。
また、ラジオの人気と並行してロックンロールのレコードは商業的な成功を収めた。〈ロック・アラウンド・ザ・ クロック 〉のレコードは、当時10万枚の売り上げ記録した。翌56年にエルヴィス・プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』などのレコードが日本でも販売されると、25万枚以上売り上げた。
さらに、映画がアメリカにおけるロックンロールと若者文化の様相を伝えた。〈ロック・アラウン ド・ザ・クロック〉がオープニング曲として使用された一九五五年公開のアメリカ映画『暴力教室』(1955)は、反学校的な不良少年の様相を描いた。また翌年公開された『真夜中のジャズ』(1956)、『女はそれを我慢できない』(1957)では、アメリカ人アーティストが演奏するシーンが数多く見られた。
ロックンロールからロカビリーに
この日本におけるロックンロールの人気に、日本の音楽産業とアーティストは次第に若者マーケットの存在を意識するようになる。すでにレコード会社と契約していた江利チエミや雪村いづみらの歌手は、英語の歌詞と日本語の訳詞を交互にしたアメリカのロックンロールのカバー曲を録音したレコードをリリースした。 米軍撤退後、日本人アーティストは日本人向けの演奏を増加させた。東京では定期的に開催されるイベントや「ジャズ喫茶」で演奏が行われるようになった。そこでは次第に若い女性のオーディエンスが 増加した。特に小坂一也の登場を機に、男性歌手をアイドル視する若い女性ファンが増加し、カントリーバンドが派手なパフォーマンスでロックンロールを演奏するようになると、会場は女性の歓声に包まれることとなった。
日本人アーティストの人気を背景に、ロックンロールは、「ロカビリー」として再パッケージされることで、国内の本格的なブームを迎えることとなった。1958(昭和33)年に大規模な会場に移して開催された「日劇ウェスタンカーニバル」は、一週間の興行期間でおよそ4万5千人の観客を集めた。この人気によって、日本人歌手は、レコード会社と契約し日本人向けの楽曲をリリースするようになった。部分的に日本語に翻訳されたロックンロールのカバーを、その後ロカビリー調の歌謡曲のレコードを発売するようになった。興味深いのは多数のファンがカバー曲を日本人歌手のオリジナルな作品として捉えていたことである。確かに「日本のエルヴィス」と呼ばれた日本人アーティストが 何人もいたものの、ファンにとっては「模造品」ではなく「オリジナル」な存在であった。それは、女 性ファンがそれぞれお気に入りの歌手の「親衛隊」を結成したことからも明らかであろう。
「日劇ウェスタンカーニバル」については、こちらの動画でわかりやすく紹介されています。
戦後の日本文化を語る上で欠かせないのが「東京」の存在です。
1960年代に入ると日本の「ロカビリー・ブーム」は、アメリカ同様急速に衰退していったが、「上京文化」を産み出す東京の文化的中心性はますます強化されていった。1962(昭和37)年までに東京の人口は終戦直後の三倍へ急激に増加したが、それはメディア関係者の東京への移動も意味していた。
国内の移動だけでなく、海外からの情報も次第に東京に一極集中するようになった。それは、音楽文化の受容において、米軍基地およびその関連施設の重要性が相対的に低下していくことと同時並行していた。その理由の一つは、基本的にアメリカ一辺倒だった戦後の若者文化に、ヨーロッパ、特にイギリス文化が受容されるようになったことがある。1960年代以降、イギリスはアメリカ同様、若者文化に強い影響力をもった。来日公演も行ったザ・ビートルズやそれに続くロックバンドの世界的な人気は、 イギリスの若者文化がグローバル化する契機となった。とはいえイギリスの音楽やファッションは、アメリカの若者文化がローカル化したものでもあることに注意を払う必要がある。ザ・ビートルズはキャリアの初期には、リーゼントに革製のジャンパーにジーンズというアメリカナイズされたファッションで、ロックンロールのカバーを演奏し録音した。
一方、アメリカ文化の媒介者としての米軍基地の役割は、都心での撤退とともにその機能を吸収し大規模化した東京の周辺部(横須賀、横田など)のエリアではまだまだ大きかったといえる。それは米軍関連施設とその周辺は地域の若者が「最新」のアメリカ文化に接触し消費する場所であったからである。 特に神奈川県の横浜、横須賀の基地周辺には米兵相手のサービス業や商店が立ち並び、交流を通じて容易にアメリカ文化を消費できる環境があった。当時高価で入手も困難であった輸入盤レコードは、横浜 ではアメリカ人の友人などを通じて容易に入手することが可能であった。
その結果横浜や横須賀では、東京のローカルな若者下位文化には、東京との差異化を目指す横須賀の若者たちが愛好したのは、ロックンロールをスタンダードとしてカバーしていたロックに加え、 これまでの日本の若者文化においてあまり影響を及ぼすことがなかったアフリカ系アメリカ人の音楽やファッションであった。
1960年代当時、欧米の有名な白人ロックバンドの影響を受けたグループ・サウンズが流行するなかで、ゴールデン・カップスは横浜を代表するバンドとして人気を博した。ゴールデン・カップスは、 ほかのバンドとは 異なり、比較的マイナーな白人ロックバンドが演奏したロックンロールのカバーや、黒人音楽であるブルースやR&Bの楽曲を好んで演奏した。
また横浜や横須賀の若者下位文化のこうした方向性は、ファッション面でも見いだすことができる。 横須賀・横浜の若者は、「コンポラ」(コンテンポラリー・スーツ)など基地の黒人の遊び着や、当時国内で流行した「アイビー・ファッション」 の消費を通じて、「スカマン」(横須賀マンボウ)と呼ばれた自分たちのスタイルを作り上げていた。「アイビー」は、VANに代表されるブランドが東京で立ち上げられ、『平凡パンチ』など若者向け雑誌で積極的に紹介されマニュアル化された。アメリカの大学生のファッションを模倣し、担い手は大学生であった。それとは対照的に、 マニュアルのないローカルなスタイルである「スカマン」は「非進学コース・グループ」のファッションであったという。東京との差異化は、都心の地理的な中心性と横浜・横須賀の周辺性という関係性が、若者の社会階層とアメリカにおける人種構造にパラレルに結びつきつつあったことを示している。
ヤンキーファッションの登場
1970年代に入ると、横浜・横須賀の若者下位文化は次第に拡散していき、その過程で変容していくことになる。その結果登場したのが「ヤンキー・ファッション」である。「ヤンキー・ファッション」 は70年代初頭に主に都心のディスコで見られるようになったものだが、その出自は横浜、横須賀の若者下位文化にあった。それは「コンポラ」のように米兵のファッションを基本としながらも、スカマンのファッションや都心でも入手が容易になったアメリカからの輸入品を加えたファッションであり、多 様な要素が混交しながら東京方面へと伝播していった。
ヤンキー・ファッションの「雑種化」は、いわば口頭伝承的に変化をともないながら拡大したと考えられる。拡大する過程で、映画の登場人物をまねるなど「独学」でさまざまな要素が付け加えられていったからである。それは「アイビー」のように東京の文化産業によってメディア化・規格化されて拡散していくのとは対照的であった。
この「アイビー」をメディア化・規格化して拡散した東京の文化産業の代表が、ファッション誌『POPEYE』でしょう。アイビーは、「パンツの裾幅は◯◯cm」などのように、規格化に非常に適したファッションで、それが日本人の気質にマッチしていたため、大きなムーブメントになりました。
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矢沢永吉が率いたバンド、キャロルのオリジナリティ
1960年代末から1970年代前半にかけて欧米を中心にロックンロールのリバイバル・ブームが起きた。50年代のロックンロールそして60年代初頭のポップは、「オールディーズ」(Oldies)という新たなカテゴリーを付与され、当時のヒット曲を再編集したアルバムが発売されるなど往年のア ーティストの「復活」公演や、『アメリカン・グラフィティー」(1973)に代表されるノスタルジックな映画が公開されるなど、当時をリアルタイムに青春を過ごした層に向けた再商品化が積極的に展開した。
このリバイバルを背景に、ロックンロールを演奏するロックバンドが登場した。その代表的なバンド の一つがキャロルである。キャロルはビートルズを愛好していた矢沢永吉と大倉洋一(ジョニー大倉) の二名を中心に1972年に結成された。矢沢と大倉は、それ以前は米兵も来店する横須賀、横浜のディスコ、さらに川崎、蒲田といった都心周辺でミュージシャンとしてのキャリアを積んだ。
キャロルは革製のジャンパーにリーゼントというファッションでロックンロールを演奏した。彼らのスタイルは初期のビートルズを基調としながら、横浜・横須賀の若者下位文化の要素も取り入れた。バンドの衣装をそろえるために矢沢がメンバーに指示したアイテムには、革製の「横須賀マンボ」のパンツが含まれていた。またキャロルの影響で若者に再び流行した髪型は、「ヨコスカ・リーゼント」と呼ばれ、前髪に工夫を凝らしたものであった。
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キャロルのスタイルは、グローバル、特にイギリスの若者下位文化の共通した性格をもっていた。それはロックンロール・リバイバルを背景にローカルな要素を混入させることで、バンドとしてのオリジナリティを産み出した点にある。キャロルのファッションは、当時のイギリスの最新の流行である「ロンドン・ポップ」との関連で、日本のファッション関係者からも注目を集めた。キャロルのデビューのきっかけとなったのはフジテレビの若者向け番組『リブ・ヤング!』の 「ロキシー・ファッション出演者墓集」という企画であった。ロキシー・ファッションとは、「ロンド ン・ポップ」の代表的な存在であったイギリスの人気ロックバンドのロキシー・ミュージックにちなんでつけられた造語であった。バンドには、1950年代のイギリスでアメリカの若者文化を吸収し、ロックンロールを愛好し、リバイバルの兆しを見せていたテディー・ボーイ(ロンドンの不良少年)ファッションのメンバーもいた。
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「非エリート」ロックファッション
一方キャロルとともに日本におけるロックンロール・リバイバルの代表的なバンドであるダウン・タウン・ブギウギ・バンド(以下、DTBWB)は、キャロルとは対照的に土着性や周縁性を強調することでより大きな商業的成功をおさめた。 ファッションはキャロルと同じリーゼントであったものの、工員のユニフォームである白い「ツナギ」を着用していた。「ツナギ」は、リーダーの宇崎が述べるように、偶然採用されたが、 バンドが日本の労働者階級的なイメージを演出する上で重要なファッション・アイテムとなった。
歌謡曲や演歌との連続性を強調したDTBWBは、ロックンロールを通じてローカルな文脈性を表現した。歌詞に登場する横須賀・横浜など米軍基地のある場所は、かつてのように先鋭的なアメリカが存在する場所でなく、戦後日本の「陰」、戦後の経済発展の中で周縁化された人々が日常を生きる舞台で あった。DTBWBの〈ほいでもってブンブン〉(1976)の夜の暴走を連想させる歌詞には、「テディ ・ボーイ」「ロンタイ」「スカマン」といった、横浜・横須賀の地域性を連想させる言葉が積極的に使用されている。また彼らの代表曲となった〈港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ〉 (1975)では、売春婦を連想させる女性を描いている。
DTBWBは、キャロルとは逆に、文脈的で周辺的なスタイルとイメージを積極的に活用した「非上京文化」的なバンドとして理解できるだろう。 日本におけるロックンロール・リバイバルは、真逆な志向性をもった二つのバンドの登場によってロ ーカルな特徴が決定されたといってよい。それはアメリカの動向とは異なり、おもに非エリートの若者のファンを産み出したからである。キャロルは当時サーキット族と呼ばれ、暴走族をはじめとして後に 「ツッパリ」といわれた大学に進学しない、反学校的なノンエリートの若者たちに強く支持され、そのファッションは彼らに模倣された。そのためヤンキーなどかつては黒人音楽を好んだ若者たちも、キャロルの影響を受けて、ロックンロールを「白人版、ソウルミュージックだ」と位置づけた。またリーゼント、キャロルの革ジャン、DTBWBの「ツナギ」も、暴走族などのノンエリートの若者に模倣された。 またロックンロールがノンエリートの下位文化として の性格をもつようになった背景には、消費社会の成熟にともなう世代内差異化、つまり若者文化の多元化と市場化がある。音楽のみならず、ロックンロールと関係が深く、ノスタルジックな映画の登場人物に見られるフィフティーズ (50's)・ファッションのアイテムが「クリーム・ソーダ」(1976 開店)など原宿のブランドによって企画、販売され商品化が進展した。フィフティーズ・ファッションもまた、ツッパリたちに消費されノンエリ ート層との結びつきをより強化されていった。
原宿で最初の古着屋であるクリームソーダの成り立ちと、原宿ファッションに与えた大きな影響については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
ホコ天を彩ったガラパゴス的進化を遂げたファッション
ロックンロールのノンエリート性が若者下位文化として顕在化することになる。それは(ロックン) ローラー族の登場であった。ローラー族のスタイルは1970年代半ばに都内で開店した、オールディーズのライブハウスである「グラフィティ・ハウス」に集まる若者によって産み出されたが、広くこうした若者下位文化が知られるようになったのは、1977年頃、東京都渋谷区の表参道の歩行者天国でフィフティーズ・ファッションの若者がダンスのパフォーマンスを始めたことである。この路上でのパフォーマンスは後に「ロックンロール」と呼ばれた。舞台となった表参道、そして原宿は、かつて米軍の住宅があったことから、アメリカ的な生活環境が存在し、デザイナーなど先鋭的な文化人が数多く集 まり、またフィフティーズ・ファッションのブランドの店舗も展開した場所であった。 ローラー族は、出自の異なる多様な要素を混交させた無国籍な下位文化を産み出した。ファッションであるが、リーゼント、黒の革製のジャンパーに、ポニーテイルに落下傘スカートなどアメリカのフィフティーズのファッションを基調としながらも、イギリスのテディー・ボーイやロッカーズ(イギリスの暴走族)のファッションもあった。ダンスに使われる楽曲も、「オールディーズ」に加え、ビートルズや、キャロルなどの日本人アーティスト、さらに当時流行したものなど多様であった。
こちらは当時の原宿の様子。こういった大きなドット柄などは、フィフティーズの象徴的なデザインです。
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ダンスもアメリカで1950年代に流行したジルバや、その単純さゆえに1960年代初頭にグローバルに流行したツイストが複雑なステップへと改良され、アーティストのステージ・アクションや、ディスコやブレイクダンスなど他のダンスの要素を吸収し、独自のスタイルを創り上げた。このように多種多様な要素が混交されたローラーの下位文化は、結果として日本以外どこにもないものであった。 ローラー族は新しい若者風俗としてマスメディアに取り上げられ、1980年初頭には全国的なブームとなり全国各地にローラーが登場することとなった。その過程で原宿は「聖地」となった。代々木公園前の区道補助24号線上に毎週日曜日に設置された「ホコ天」には、全国各地からローラーが集まり、多いときには20000人もの人数を記録した。またブーム期には地方からの多数の修学旅行生が「クリーム・ソーダ」などのフィフティーズ・ショップを訪れるようになった。このように「ロックンロール」も東京発信の流行となることで上京文化となっていった。
こういったロック系の系譜からは外れますが、原宿のホコ天の代名詞と言える竹の子族も「多種多様な要素が混交された」、つまり日本でガラパゴス的進化を遂げたオリジナリティを持つファッションと言えるでしょう。
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そのネーミングのもととなったショップ、竹の子は今も原宿の竹下通りに店を構えています。
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そして、竹の子族のオリジナリティは今も、レディ・ガガやBLACKPINKなどのポップスターを虜にしています。
以前からガガさんのスタイリストは来店していましたけど、本人も来日した時に店に来てくれました。当時は別のスタッフが対応しており、私はテレビ局から「ガガは何を買っていった?」と問い合わせを受けて知りました。ガガさんはうちで買った服をステージでも着てくれていたみたいですね。最近では浜崎あゆみさんがうちの衣装をアレンジして着ていたり、BLACKPINKが着ていたり。
ローカル化するロックファッション
1980年代後半になるとブームも影をひそめるようになったが、「ロックンロール」は原宿をはじめ消滅することはなく今日でも継続している。
茨城県中央部の「ロックンロール」にローカリティが生じたのは、ブームが沈静化しはじめた1980年代前半であった。そのきっかけは暴走族の活動として位置づけられるようになったことである。1983年に水戸市の暴走族のメンバーがチームを結成すると、周辺の暴走族も追随し「ロックンロール」を「公式行事」として位置づけるようになった。
その結果「ロックンロール」は次第に「暴走族化」していくことになった。それは「ロックンロー ル」の下位文化自体に対する関心の低下と関連していたといえる。1990年代中盤となると一部のチ ームは従来のフィフティーズ・ファッションに加え、暴走族のユニフォームである「特攻服」を着用した。そして踊りよりも、祭りの歩行者天国解除後踊りをやめさせようとする警察と「ケンカ」をし、バイクで走り回るという、暴走族としてのパフォーマンスが重視された。
暴走族化した「ロックロール」が支配的であった状況から、20代初頭の若者が新たに1992年頃 「チョッパーズ」というチームを結成したことによって大きな変化をむかえることとなる。従来の地域的な慣習に反して成人として活動を開始した彼らは、新しい「ロックンロール」を模索するため原宿におもむいた。そこで、バイカー系のファッションに日本のロックンロールの楽曲で踊り後に「黒系」と 呼ばれる、従来茨城にはなかったスタイルを吸収して、地域に多くのフォロワーを産み出した。そして2000年以降は、「引退した」30代後半の大人が中心となり、茨城で継承されて現在と呼ばれる「伝統的」なスタイルのロックンロールのチームも結成された。
その結果「ロックンロール」は「大人」が行う「趣味」へと徐々に変容することになった。チョッパ ーズの創設メンバーであるW氏が「仕事と家庭があってのロックンロール」と述べるように、「大人」 としての社会的な義務を果たすことが求められるようになった。この「ロックンロール」を「趣味」の 領域にとどめる意識は、前節で述べた「非上昇志向」的な態度が1980年代にローラー族で流行した 後に、地方で顕在化していることを示している。
また「趣味」として位置づけられたことは、「ロックンロール」が暴走族から「解放された」ことを意味している。「ロックンロール」に関心があった未経験者、かつては「見る存在として」排除されていた女性、そして親の影響を受けたその子どもたちが、茨城県中央部、つまり彼らの生活圏に範囲は限定されているものの、自分の選択でチームに加入することとなった。その結果、下は小学生から上は50代まで、幅広い年齢層が「ロックンロール」に参加するようになった。
このトランス・ローカルなローラーの関係性が構築されたことによって「ロックンロール」に対する理解も大きく変化した。かつての1950年代のアメリカの若者世界ではなく、「ロックンロール」が流行した時期である「昭和のフィフティーズ」が「理想郷」と位置づけられるようになった。ローラーに強く支持されるロックンロール・バンドであるマックショウは、キャロルをオマージュし、ライブやアルバムの発売日の年をあえて昭和の年号で表記したり、ポスターやジャケットには昭和4~50年代に生産された国産のオートバイを使用している。
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https://www.facebook.com/photo?fbid=803786277974285&set=pb.100050287608403.-2207520000
元々は音楽ジャンルのひとつであったロックはその後ファッションに変容し、そしてライフスタイル、さらには思想的な存在となっています。
特にリアルタイムにブームを経験していない若い世代のローラーは、年長の世代よりもいわば「昭和のフィフティーズ」を理想化している。彼らは、束縛の厳しい今日に対して、昭和の時代は若い世代に自由があったとか、不安定な今日と異なり、将来を心配する必要がない時代であったとか、個人化している今日と異なり、仲間同士の絆が緊密であった、と述べているように、現状に対する不満がその理想化の背景にある。特に若い世代のローラーにとって「ロックンロール」は「昭和の日本」の文化であり、基地のルーツそしてアメリカの象徴性は、もはや不可視になっているといえるだろう。
アメリカに憧れを持たない世代のロックファッション
特に今の50代以上には、アメリカへの強い憧れを持った人が少なくないようです。
ですが、現在44歳の僕はそれほどアメリカに対して憧れを持っていませんし、今の若い世代になると、アメリカに対する憧れはほとんどないのではないでしょうか。
上述しましたが、「日本で最後のロック系ファッション」のお兄系終焉後、ラグジュアリーストリートに代表されるようなヒップホップミュージシャンやK-POPアイドルが日本のファッションに強い影響力を持つようになっています。
そういった世代において、今後ロックファッションはどのように変容し、受け入れられていくのか。
楽しみにしていたいと思います。