山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

【2004年】ギャル男ファッション突然変異体「センターGUY」と、渋谷で革新的なストリートファッションが生まれる理由。

目次:

 

 『Men's egg』2004年3月号に見るお兄系

先日僕がFASHIONSNAPに寄稿したこちらの記事。海外で現在マルイ系が人気を集めており、そしてそのネクストとしてお兄系が注目されていることをご紹介しています。

www.fashionsnap.com

↑の記事からさらにお兄系を深堀りするため、前回の“ファッションアーカイブ”では、2011年のお兄系ファッションをご紹介しました。

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そして、今回は前回に引き続き、2000年代のお兄系についてご紹介いたします。

今回ご紹介するのは、『Men's egg』2004年3月号です。

表紙に“俄然一番人気の「お兄系」”とあることから、既に2004年にはお兄系がひとつのファッションスタイルとして浸透していたことがことがわかります。

ですが、この号で紹介されている「お兄系」を見ると、前回ご紹介した2011年のお兄系とはかなり印象が違うと誰もが感じるのではないでしょうか。

前回の記事で2011年のお兄系を「進化の最終形態」とご紹介しました。

ですが、それと比較すると2004年のお兄系はまだまだ生まれたばかりのヒヨコ状態

髪型や小物などに「らしさ」は感じられますが、服だけを見ると当時の他のメンズファッションとそれほど大きな違いはありません。

このヒヨコ状態の2004年のお兄系も、よくよく見ると結構味わい深いのですが、今回の記事では置いておいて(そのうちまた“ファッションアーカイブ”でご紹介します)、今回フォーカスしたいのが左ページから始まる“最新版ギャル男カルチャーコンプリートガイド!”と題されたこちらの特集です。

 

衝撃の「センターGUY」スナップ

フォントもカラーも独特の世界観ですが、それ以上に目を引くのが集まっている「ギャル男」の方々。

2004年当時は“「ギャル男」と言う言葉が誕生して数年以上経ったいま、このカテゴリーは細分化を重ね、様々なスタイルが存在している”状況で、“今年は「センターGUY」が大ブレイクの予感だし、第二次ギャル男ブーム到来も現実的!?”であるとしています。

そして、特集のトップが“もう誰にも止められない!?センターGUYスナップ!”です。

どうですか?この唯一無二の世界観

 

“渋谷センター街以外では気まずい”センターGUY

日本でしか生まれ得ないファッションスタイルであることは確実でしょう。“ぶっちゃけ、センター街以外は気まずいですが何か?”というキャッチコピーからもわかる通り、渋谷センター街で生まれた、正真正銘のストリートファッションです。

このスナップ企画に登場しているのは、渋谷の宮下公園で開催された「センターGUYスナップ」に参加した人々。つまり、雑誌に掲載されることを目的に、いつもよりも服やヘアスタイル、そしてメイクにいつもよりも気合が入れられいるとは思いますが、それでも凄い存在感です。

センターGUYの年齢層は10代後半から20代前半がほとんど。

カップルもちらほら。

 

センターGUYの制服アルバローザ

“アルバで大爆発だぜぇ(笑)”という言葉からも分かる通り、センターGUYのほとんどが当時大人気だったギャルブランド、アルバローザのアイテムを着用しており、ほぼ制服と称しても良いくらいの着用率です。

“うちら4人ハイパー・ヤマンバだよ♥”

ヤマンバとは、ヤマンバギャルのこと。ヤマンバギャルについては後ほど詳しくご紹介しますが、ギャル系の進化系であるヤマンバギャルも、アルバローザを好んで着用していました。

https://www.pinterest.jp/pin/273734483593992196/

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しかし、よくもこれだけ沢山のセンターGUYが集められたもんだと感心します。

“センターGUY'sポイントチェック”では、服やヘア、メイクだけでなくネイルやディズニー財布なども挙げられています。センターGUYがこぞって着用しているアルバローザはそもそもレディスブランドであることもあり、かなり「女子度」高いのがセンターGUYの特徴と言えそうです。

 

センターGUYはアルバローザで試着禁止

次ページは“時代の徒花センターGUYに迫るっ!”と題し、センターGUYのファッションや生態を深堀りしています。

まずは“センターGUY緊急サミット”。

かなり興味深いのですが、文字と背景がチラチラして非常に読み辛いです笑。センターGUY対談では。アルバローザでセンターGUYが試着するのが禁止されたということや、渋谷センター街だけでなく池袋にも多く生息していることなどが語られています。

“センターGUYの一週間”。“とりあえず高校に行ってないんで毎日がヒマッス”な16歳のセンターGUYのライフスタイル紹介記事。“プリクラ、カラオケ、日サロ”がセンターGUYの重要な要素だったことがわかります。

最後は“センターGUYの女ウケに迫るっ!”と、“1日センターGUY体験!”。このような取り上げられ方から見て、2004年3月当時センターGUYはまだまだ新しいファッションだったということがわかります。ひとまず以上で、センターGUYについてのページはおしましです。

 

ギャル男ファッションNo.1のお兄系

次ページは“ギャル男ファッション大全!”

“ギャル男ファッションの主流”のNo.1として挙げられているのが、“お兄系ファッション”です。つまり、2004年当時お兄系はギャル男ファッションが細分化されたひとつであったことがわかります。加えて、この頃のお兄系は1990年代後半に人気を集めたV男というファッションスタイルの延長線上にあるもので、“D&G系お兄”“Burberry系お兄”というタイプからも分かる通り、“カリスマ的な人気を誇るブランド”を強く押し出したスタイルでした。(当時はラグジュアリーブランドという呼称は使われていませんでした)

No.2は“サーフ系ファッション”

そして、No.3がセンターGUYです。

このように2004年時点で様々なスタイルが生まれていたギャル男ファッションですが、“ギャル男の共通項目チェック!”で挙げられているのがベンツ、クラブ。

そして渋谷

ギャル男カルチャーに欠かせない要素である街、渋谷

2004年から遡ること約15年。

日本初のストリートファッションと言われる渋カジが生まれたのも、当然渋谷でした。

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鉄道が変えた渋谷の命運

では、なぜ渋谷は1990年代にストリートファッションを多数生み出す街になったのでしょうか?

書籍「渋谷学」から、渋谷という街の成り立ちを紐解いてみましょう。(強調引用者以下同)

「渋谷学」(Amazon)

江戸時代が始まった頃は農村だった渋谷は、明暦の大火以降多くの藩邸が設けられるようになります。

天正18年(1590)、徳川家康は江戸を居城とするために、駿府から居を移した。 その後、江戸は繁栄し江戸府内(御府内)を形成するにいたった。渋谷の地域は府外の武蔵国豊島郡に位置していた。渋谷は上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村からなる農村であった。

渋谷は農村であったが、明暦の大火以後、下屋敷を中心とした多くの藩邸が設けられるようになった

慶応4年(1868)、新政府は江戸に東京府を設けた。渋谷の大半は武蔵知県事の支配となった。明治5年の人口は、渋谷宮益町(147世帯、611人)、中渋 谷町(201世帯、931人)、上渋谷町(88世帯、424人)であった。

明治時代に入ってから渋谷駅が開業したことにより、渋谷の命運が大きく変わり、商業地として発展が始まります。

明治18年(1885)、その後の渋谷の発展に決定的な影響力を持つことになる渋谷駅が開業した。日本鉄道会社が品川駅から赤羽駅までの路線を開通し、中間駅として渋谷、新宿、板橋の駅が設けられたのであった。場所は現在の渋谷駅から南に300メートル離れたところで、下渋谷の農民の反対によるものであった。

明治40年(1907)には渋谷・玉川間を玉川電車(玉電)が開通した。電車といっても道路の一部を走る、いわゆる路面電車で、車両も一両だった。この路線は 昭和33年(1938)までは玉川電気鉄道が運営したが、その後東京横浜電鉄に合併、さらに東京横浜電鉄の後身である東京急行電鉄が運営した。明治4年(1911) には市電が青山方面から渋谷駅まで延伸した。市街地の拡大とターミナル化で、渋谷は商業地としての繁栄の基礎を築いていった

山の手に位置する渋谷が大正12年(1923)9月の関東大震災によって受けた被害は、下町に比べれば軽微なものだった。

國學院大學が開学の地である飯田町(現在の千代田区飯田橋)から渋谷氷川裏の御料地(現在の東四丁目)へと移転したのは同年5月であった。以後、國學院大學は、渋谷の発展とともに歩みながら渋谷の変貌を見続けている。

東京市は拡大を続け、昭和7年(1932)に大東京市となった。その際に渋谷・ 千駄ヶ谷・代々木の三町を編成して「渋谷区」が生まれた。

ターミナル駅としての渋谷駅は拡大の一途をたどっていった。昭和7年(1932)には乗降客数が30万人にまで増えた。昭和9年、東急電鉄は渋谷駅に7 階建ての百貨店・東横百貨店東館を建築した。駅に直結したターミナルビルは、当時としては斬新だった。

いまひとつ、商業施設としてこの頃誕生したものがある。道玄坂の百軒店商店街である。箱根土地会社(西武グループの中心であったコクドの前身)が道玄坂の途中にあった中川伯爵(旧・豊前岡藩主家)邸を購入し、街区を区切り、関東大震災で被災した有名店・老舗を下町から招いたのが始まりである。一時期その賑わいは 浅草の仲見世に比べられたほどであったという。しかしその後、下町の復興とともに有名店は地元に戻っていき、寂れてしまう。

しかし、跡地に次々と小料理店やカフェ、映画館が設けられていき、賑わいを取り戻したのだった。

明治、大正と発展を続けてきた渋谷を襲ったのが、第二次世界大戦の空襲でした。

東京は昭和19年(1944)1月14日以降、百回以上にわたって空襲を受けた。 渋谷区が直接空襲を受けたのは昭和19年11月27日であった。7機のB29が来襲し、 焼夷弾 6個、250爆弾8個を投下した。被害を受けたのは穏田と原宿地区だった。 さらに昭和20年5月24・25日の空襲は激しかった。渋谷の街は焦土と化した

第二次世界大戦後、渋谷はヤミ市として再び歩み始めます。

焼け出された人々は、焼けたトタンや廃材を集め、灰の中から拾い集めた釘を伸ばして雨露をしのぐための掘っ立て小屋を建てた。食料をはじめ配給の遅配・欠配が続出し、人々はヤミ市を利用するしかなかった。渋谷は、新宿、池袋、上野と並ぶヤミ市の規模を誇った

東京都は昭和21年(1946)に「帝都復興計画概要」を発表した。計画では、渋谷は商業地域、消費歓楽街地域、住宅地域として位置づけられた。さらに昭和35年( 1950)、渋谷区は独自に渋谷駅前の整備を計画し、地下街を建設することとした。この地下街が「しぶちか」と呼ばれる現在まで残る地下街である。渋谷駅前の東横デパートの地下から駅前広場を横断する150メートルの地下街に、ヤミ市とともに急速に増加し定着した露天商を吸収したのである。地下街は昭和32年(1957)に完成した。当時としてはモダンな地下道だった。

以後、渋谷は駅周辺を中心にして急速な都市化を遂げていく。

 

渋谷をファッションの街に変えた堤清二

戦後の復興を強く後押ししたのが、1964年に開催された東京オリンピックでした。

昭和34年(1959)5月、第18回オリンピックの開催都市に東京が選出された。 東京が最初に誘致に乗り出したのは昭和35年ローマ開催のオリンピックだったが、 昭和39年(1964)の開催都市に決定したのだった。当初の誘致目的は国際社会に復帰した日本の姿や復興する東京を世界に広く認識してもらうためであったが、 高度経済成長の中で、しだいに東京改造の様相を呈することになった。

当時、東京は高度経済成長期に入って人口が急速に増加しはじめていた。とくに 深刻な問題として受け止められたのが都心の交通問題であった。自動車登録台数 は昭和27年(1952)の12万台に対して、昭和33年(1958)には40万台を超え、 昭和37年(1962)には30万台とわずか数年で倍増する増加であった。道路の渋 滞解消、都市に乗り入れる電車の混雑緩和が切に求められた。こうして地下鉄道の 整備、道路の拡幅、高速道路網の敷設が検討されることになったのである。

渋谷区にはオリンピックの主要会場と選手村が設けられることになった。主要会

場は、現在も渋谷と原宿の間にある国立代々木競技場である。選手村は現在の代々 木公園に、在日米軍施設であったワシントンハイツの返還を受け建設された。渋谷 区内各所に莫大な資金と労力が投入された。渋谷駅周辺では、首都高速道路3・4 号線の建築、国道246号線の拡幅整備が渋谷駅周辺を一変させることになった。

首都高速道路3・4号線は、渋谷駅に隣接して設けられた高速道路である。国道 246号線はその高速の下を通り、青山通り、六本木通り、多摩川通りとなる道路である。そのほかの関連通りも整備され、渋谷区の舗装率は昭和40年(1965) にはほぼ100パーセントとなった。

歴史学者の上山和雄は「シブヤ」が全国的に知られるようになった大きな要因の ひとつにNHKの存在を指摘している。NHKが渋谷へ進出したのはオリンピック 中継のためであった。昭和30年代に家庭で急速に普及したテレビで渋谷が映し出されたことは、ただメディアでの露出度が高かったということ以上の意味を持ってい たと思われる。渋谷にとってオリンピックは大きな意味を持ったのだった。

そして、単なるターミナル駅渋谷からカルチャーの街、渋谷へ変貌する大きな要因となったのが、西武百貨店と渋谷パルコでした。

渋谷が単なるターミナルステーションを超えた意味を帯びるようになるのは昭和40年代のことである。昭和43年(1968)に西武デパート渋谷店が開店した。48年(1973)には西武パルコが開店した。渋谷公会堂、小劇場・ジャンジャンへ と人が集まり、公園通りの名称が広まっていった。渋谷は時代を象徴するトポスへと変わっていく

渋谷をファッションの街に生まれ変わらせた実業家、堤清二についてはこちらの過去記事で詳しくご紹介しています。

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ギャルカルチャーの象徴ルーズソックス

次に引用するのが、僕の大学時代の恩師である難波功士先生の著書、「族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史」です。

「族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史」(Amazon)

ここでも渋谷が若者の街になった要因として、ターミナル駅であったことが挙げられています。

1980年代から90年代にかけて、次々とユース・サブカルチャーズを胚胎していった渋谷という場所の来歴を振り返ると、戦前にすでに「ターミナルとしての渋谷」は完成していたが、50年代中頃におこなわれた磯村英一らの調査によれば、新宿・銀座に比べて渋谷の人出は少なく、駅周辺、とりわけ駅に接する東急百貨店東横店界隈に人の流れ は集中しており、通勤・通学客にとってはまさに通過するだけの中継点であり、世田谷・目黒・渋谷区の女性を中心とした買い物客のための街であった。

だが60年代中盤以降、田園都市線や小田急線沿線を中心にいわゆる「第四山の手」が形成され、渋谷の後背地に 比較的裕福なホワイトカラーのための宅地が広がるようになった。また西武・東急による都市開発や77年の新玉川線の渋谷・二子玉川園間開通、翌年の地下鉄半蔵門線の渋谷・青山一丁目間開通などを経て、70年代、渋谷は若者の街として急速に脚光を浴びるようになっていく

「族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史」では、太陽族やみゆき族などの、戦後日本の若者カルチャーが描かれていますが、その第12章は「コギャル、ジェンダー・(アン)トラブルド 」と題され、1990年代のギャルカルチャーが紹介されています。ギャルカルチャーがあったからこそギャル男が生まれたと言えます。

ギャルという語(とその指示対象)は、1970年代の日本社会に登場し、80年代に一般化した。83年に 「 GALS LIFE」などのティーン向け女性誌のセックス記事が、国会でも取り上げられるなどの騒ぎもあって、それまでの「少女」概念が排していた性愛のニュアンスが、「ギャル」にはつきまとうことになる。だが当初ギャルは、ティーンだけを指していたわけではない。「HotDogPRESS」1982年7月25日号特集「ギャル、君のことがもっと知りたい!」などでは 、明らかに「ギャル=女子大生」とされており、ギャルの語は、83年に始まった深夜番組『オールナイトフジ』(フジテレビ)に象徴される女子大生ブームとリンクしていた。80年代初頭、女子高生はまだまだ「少女」の領域に存在したのである。しかし、85年放送開始の『夕焼けニャンニャン』(フジテレビ)をきっかけに女子高生ブームが起こり、また80年代に私立女子高校を中心に、SI(スクール・アイデンティティ) の一環として制服のモデルチェンジがブームとなったこともあって、女子高生自身が女子高生であることの価値に徐々に目覚めていくこと になる。

女子高生たちの制服の着こなしの変化で言えば、まずそのスカート丈が注目される。「青学付属はミニ化の最先端であった。ミニがまだ珍しかったころ、スカート丈を短く詰めるということは、都心のオシャレな、そして偏差値も決して低くはない学校に通っているという、一種のステータスでもあった。コールハーンのローファー、ポロ・ラル フ・ローレンのソックス、ハンティング・ワールドのバッグとともに、ミニは中産階級子弟のシンボルでもあったの だ」。やがてその足元は、ポロのソックスから、90年前後にはミニスカートとのバランスのよい「ルーズ・ソックス」へと変遷し始めるわけだが、その淵源に関しては、青山学院高等部から渋谷女子高の女生徒へと波及したという 説と、さらにその青学高生たちは「スポーツ用のソックスを日常的に着用」していた「アメリカンスクールの女生徒」ファッションを手本にしたという説がある。また一方、92年頃のフレンチ・カジュアルのブーム――その定番 の足元は「ショートブーツ+ぐしゅぐしゅソックス」――の影響を指摘する説もあるが、いずれにせよ「制服をかわいく見せるというよりも、より私服に近づけるようなはき方に変わってきている」という、私服と制服とのボーダーレス化の流れから、ルーズ・ソックスが発生してきたことは確かだろう。

1995年に高校に入学した僕も生で体験していましたが、ルーズソックスはまさに1990年代後半のギャルカルチャーを代表するアイテムのひとつです。

2000年に創刊されたヴォーグ・ニッポンに掲載されたこの冨永愛さんの写真はギャルカルチャーの集大成と言えるでしょう。

https://www.pinterest.jp/pin/15762667440925347/

 

渋カジがあったからコギャルが生まれた

そしてコギャルの元祖である「パラギャル」は元々、渋カジの系譜にあるチーマーの追っかけでした。つまり、渋カジがあったからコギャルが生まれたとも言えるでしょう。

一方その女子高生たちの私服は、90年当時は圧倒的にアメリカン・カジュアルであり、そのなかからやがて「チーマーの追っかけ」であり、コギャルの前身ともいえる「パラギャル」――「「一年中パラダイス」というノリでいつも肌を焼き、いつも夏のような格好をして遊ぶ、独特のセンスでかわいさを追求するスタイルの女の子達」――が出現してくる。 彼女たちは、渋カジ (族)からチーマーへと、 よりワイルドなアメリカン・カジュアルを志向する男性ファッションの影響下にありながら、「大きな花柄や水玉のワンピースやミニフレアスカート、ルーズなコットンセーター、ぴったりしたスパッツに、足はウェスタンやシープスキンブーツ。 脱色した髪に小麦色の肌、まぶたはブルー、唇はピンク、爪は白といった際立つメイク」といった、「最近のティーンズ誌では“LA”“ネオ・サーファー”など色々な呼ばれ方をしている」独特のスタイルを発展させていく。

こうしたコギャルたちは、当初チーマーの追っかけと評されたように、渋谷センター街界隈にたむろする高校生たちの系譜の上にあった。ティーンの街と化したこの一帯で、「パラギャルの聖地 “ミージェーン”」は、「90年2月に渋谷109地下に1号店がオープンして以来現在6店舗、渋谷店は毎年2ケタ成長、売り上げ年間7億円、8千万円 売る月も」という急成長を遂げている。

そして、ひとりのミュージシャンがファッションムーブメントを生み出した稀有な例である、アムラーが1996年に登場。そして1997年頃にはV男という男らしさを強調したスタイルが流行します。

パラギャルから始まり、1996年の「アムラー」ブームを典型とする露出度の高いギャルたちのファッション・ センスは、本来は「男ウケ」を意識したものであった。90年代後半、細分化していくコギャル・ファッションのなかには「カハラー(華原朋美)」のスーツ・スタイルに象徴されるような、より従来型の大人っぽい女性性にすり寄っていく流れる存在した。その男ウケのターゲットとして、97年頃には「V男(ヴイオ)」と呼ばれる男性たち ――シャツのボタンを開け、Vネックのセーターを素肌に直接着たりするなど男らしさを強調―が浮上し、そうしたファッションに身を包んだ一部の「有名高校生」 「スーパー高校生」は、一般誌にも取り上げられる存在となる。

シャツを中心としたキレイ目な雰囲気で、ブランド物を軸としたスタイルの2004年のお兄系は、1997年のV男の系譜を組んでいると思われます。

そして、チーマーから端を発した「ワル」なスタイルの人気の対象は、“不良性を帯びた男子高校生”へと移っていきます。

かつての渋カジやチーマーたちが、もともと有名私大系列校の生徒を中心としていたのに対し、90年代後半には 有名伝統校への人気集中は影を潜め、女子高生たちは「エリートブランドではなく、オスのフェロモンが感じられる、 一種不良性を帯びた男子高校生を求めるようになった」ために、「今では決して高い偏差値とは言い難い、昭和第一高や関東第一高に人気が集まるように、学校に対するステイタスも変わってきた」。

こうした高校の文化祭に、雑誌や口コミで情報を仕入れた女子高校生たちが、「有名高校生」目当てに殺到し、またそれら高校の学校指定のバッグが、女子高生の間で人気を呼ぶなどの現象が話題となった。

実は、先程の“最新版ギャル男カルチャーコンプリートガイド!”特集の、“ギャル男ファッション大全!”の次には、ちょっとワルそうな高校生たちを特集した“ギャル男校”というページが続いていました。

 

大人の価値観をひっくり返したギャルファッション

そして、ギャルの最終進化形とも呼べそうなヤマンバギャルが1999年頃に誕生します。

こうした男性たちを派生させる一方で、コギャルのなかには男ウケを一切顧慮しないファッションの流れも登場してきた。「ガングロ」「ゴングロ」などと呼ばれる不自然なまでの日焼けを誇る、「ヤマンバ」と称された極端かつ過剰な身体加工・装飾がそれである。99年頃から、「金髪や脱色の髪、褐色の肌に、ラメ化粧。超ミニスカートにすごい厚底のブーツ」の一群が話題を集め、当時の「egg」編集長は、「服やアクセサリーはサーファー系が源流、そこに10年前ならヤンキーになっていた層が合流した 。(略)ギャルファッションは、ある種の武装であり、社会への反発でもある。「女の子はこうでなくちゃいかん」という大人の価値観をひっくり返している」と述べている。

サーファーをベースに1990年代のギャルファッション、そしてヤンキーテイストがミックスされたスタイル。それは大人の価値観をひっくり返す、斬新なストリートファッションでした。

https://www.pinterest.jp/pin/273734483593992196/

そしてヤマンバギャルから生まれたのが、センターGUYです。

 

ギャル男はファッションではなくライフスタイル

ファッションは、上から下へ流れるものでした。

長い間、上流階級のファッションは憧れられる存在であり、上流階級で流行したスタイルが、下方へ拡散していくことが、第二次世界大戦までのファッションのあり方でした。

ですが、「ガングロは、自分が現実に属する階層よりも上の階層に属する人間であると見られたいと全然思っていない、その意味でまさに画期的なファッションだ」と、指摘されています。

1990年代のコギャル・クレーズは、センター街や109などでの彼女たちの共在を震源としたにせよ、まず何よりも男性誌を中心とした「マスコミネタ」であった。また当事者たちにとってみれば、「東京で、大阪で、コギャルたちは「コギャル」と言わず、自分たちを「ギャル系」と呼ぶ。ところが、水戸の女子高生たちは普通にコギャルという言葉を会話の中に使う。自分たちをコギャルとは思わず、その外に置いているからだ」というように、コギャル視されがちな者ほど、自身がコギャルであることを否定し、コギャルに対してネガティヴな定義を与えていた。また、 地方でのギャル系雑誌の購読は、必ずしもギャル系ではない女子高生の「東京の女子高生を知りたい」 という欲求に支えられていた。極論すれば、コギャルはメディアのなかにしか存在しなかったようにも思われる。だがコギャルは、ごく一部の若者の突拍子もない変異のように見えながらも、 若者の突拍子もない変異のように見えながらも、若者全般にわたる価値観の変容を象徴する存在でもある。多くの論者の見解を整理すると、それは「(同性・異性を問わない)仲間志向」と同時に「自分志向」であり、家庭・地域・学校など(の既存の価値観)から の「離脱志向」であり、いま・ここの流行と享楽への 専心という「現在志向」であった。曰く、「階層論的に言えば、ガングロは、自分が現実に属する階層よりも上の階層に属する人間であると見られたいと全然思っていない、その意味でまさに画期的なファッションだ」「社会の中で先端でいる事に興味を持たず、仲間うちの関係性でいかに楽しめるか「なごめる」かを重視する若い世代が増えている」。こうした価値観を前提に、仲間ウケしかしないメイクやファション(の千変万化)、放課後の街でのたむろ、他者の視線を顧慮しない地べたへの座り込み、ケータイに登録された、もしくは写真帳に貼られた数百人の友人など、 コギャルたちの一見不可解な身体技法は成立していた。それらは、まさに「コギャルが何がしかのライフスタイルもしくはアイデンティティと考えられており、単なる「ファッション」ではないことを示している」

ここではコギャルが“単なる「ファッション」ではない”とされていますが、当記事でご紹介してきたセンターGUYやギャル男など、渋カジを始祖とする渋谷のストリートファッションも、コギャルと同じように単なるファッションではなく、ライフスタイルだったと言えるでしょう。

つまり、ギャル男もファッションではなくライフスタイルだった、ということです。

これは“最新版ギャル男カルチャーコンプリートガイド!”にこういったページが続いていることからもわかります。

“ギャル男になるためのキーワード教えます!”という企画でまず挙げられているのが、日サロ。次にトランス、VIPカーと、非ファッション要素がトップ3を占めています

そして、4番目にようやくファッション要素であるギャルブランドが登場します。つまり、ギャル男にとってファッションは二の次、三の次。ギャル男にとって大事なのは日サロで焼いた肌で、VIPカーに乗ってクラブに行き、トランスに身を委ねることだったのです。

このようなギャル男をはじめ、革新的な若者のライフスタイルを生み出した街、渋谷。

渋谷はストリートファッションの世界的な聖地として、今後も語り継がれていくでしょう。