目次:
- みうらじゅん執筆「にこにこぷん」終了記事
- 1991年秋人気の4スタイル
- 1991年の古着価格表
- 渋カジの象徴、レザーベストとライダースジャケット
- 渋カジの派生スタイル、キレカジとハードアメカジ
- 革ジャンを流行らせた、たったひとりの「起業家」
- チーマーの元祖『ファンキース』との出会い
- 1着10万円の革ジャンを2500人の学生に売る
- 大ブームとなったエヴィアンホルダー
- 500円以下の超B級グルメなラーメン
- 1991年のアメ横&神戸高架下ショッピングマップ
- アメ横でオールデンが37,600円!
今回ご紹介するのは、『Hot-Dog PRESS』1992年9月10日号です。
表紙は萩原聖人さん。
前年の1991年末にピークを迎えたバブル景気でしたが、一般庶民にその実感が広がったのはそこから数年後。ですので、この1992年11月当時はまだ日本経済に対して楽観的な見方をする人が多かったと言われています。
まずは順に誌面を見ていきましょう。
資生堂のヘアスタイリング剤の広告は永瀬正敏さん。今で言うところの菅田将暉さん的ポジションの、イケメン☓オシャレな雰囲気の俳優さんでした。
特集は“安いモノは絶対エライ!”。こういった「安いもの」特集はバブル景気が終わったから、という訳ではありません。『Hot-Dog PRESS』や『POPEYE』では、バブル景気真っ只中でも「安いもの」は幾度となく特集されていました。これらのファッション誌の主な読者層はティーンズ。いくらバブル期とはいえ、お金が潤沢にあるティーンズはそれほど多くはなかった筈です。
みうらじゅん執筆「にこにこぷん」終了記事
誌面冒頭のカルチャー系のミニニュースページ。
1990年代に人気を集めた腕時計、スウォッチ。
“新しいSWATCH・SHOPが出来る度に、何百人もの若者達が列をなして並び、我先にターゲットであるクロノグラフ、スクーバ200やアートシリーズを入手しようと必死である”と、当時のスウォッチブームの加熱っぷりが記されています。
スウォッチのスクーバ200というモデルのことを知らなかったので調べてみたのですが、こういうデザインで、当時は非常に高い人気を誇っていたモデルだそうです。
こういったファッション系だけではなく、アート系など多彩な分野の記事が掲載されています。
個人的に惹かれたのが、NHK教育テレビの「にこにこぷん」が終了するという記事。子供の頃、よく観ていました。
なんと、この「にこにこぷん」の記事を執筆しているのがあのみうらじゅんさん。
1991年秋人気の4スタイル
さて、ここからが“安いモノは絶対エライ!”特集ページ。
当時、僕も穿いていたナイスデザインのコンバースのバスケットボールシューズも気になりますが、それよりも存在感を放っているのが、左のモデルさん。
そう。「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」の、あの人です。
次ページでも存在感を放っています。
独特なカメラプリントのシャツは、ポール・スミスのもの。
タレントによる私物ガレージセール。ZOOやL.L.ブラザーズなど、こういったところに登場している有名人を見るだけでも、この時代の特徴が感じられます。
“この秋人気の4スタイルを安く賢く着こなしたい!”。
人気スタイルとして最初に挙げられているのは“クラブ&スケーター”。いわゆるストリート系ですね。着用しているのは、プルオーバージャケットに、ルーズフィットパンツ、そしてスニーカー。次の“フレンチカジュアル”はシャツをベースに、ジャケットやカーディガン、そしてブーツという上品なアイテム。
“クラブ&スケーター”のスニーカーは、“ナイキやユーイングなどの超レア以外に目を向けると意外と見つかるディスカウント商品。チャンピオン、VANS、エア・ウォークあたりが狙い目”とあり、当時はナイキとユーイングが飛び抜けて人気だったことが伺えます。
“この秋人気の4スタイル”、続いては“’50s”。“全体的に品薄状態で値上がり傾向にある’50s”と、こちらも当時人気だったようです。そして最後は“アウトドア”。今我々がアウトドアと聞いてイメージする、ゴアテックスなどのハイテク素材のアウトドアアイテムではなく、チノパンにシャツというオーセンティックなサファリスタイル。
1991年の古着価格表
“古着はチープが一番!最新人気ショップ情報”。渋谷や下北沢、高円寺などの古着屋集積地をはじめ、八王子や大阪のショップもピックアップされています。
古着の価格表。当たり前ですが、1991年当時の“レギュラー501”は80sだったりする訳で。
“リサイクルショップでブランド品を激安入手”。アルマーニやヴェルサーチ、フェレ、アイスバーグなど、イタリアンブランドが目立っています。当時は円高ということもあってインポートブランドが人気でしたが、そのなかでもイタリアのデザイナーズブランドであるジョルジオ・アルマーニ、ジャンニ・ベルサーチ、ジャンフランコ・フェレはそれぞれの頭文字を取って「3G」と呼ばれ、一際高い人気を集めていました
リサイクルショップのなかには、今や全国展開しているラグタグも。
“掘り出し物を探すなら、フリーマーケットに注目”。僕が先日初出品した代々木公園のフリーマーケットは“DCが豊富な掘り出し物いっぱいの一般店”と、やはり当時のトレンドを反映した品揃えだったようです。
“あのロレックスを15万円以下で手に入れたい”。こういう分野は知見が乏しいのですが、おそらく今からすると考えられないくらい、低価格だったのでしょう。
“3000円以下でジャンクウォッチを楽しむ”。バラエティが非常に豊か。
渋カジの象徴、レザーベストとライダースジャケット
ここで突如、レザーベストとライダースジャケットが登場。
“ベスト&ライダースはショップオリジナルを狙え”とあり、多くのショップがレザーベストとライダースジャケットのオリジナルアイテムを展開していたことが伺えます。
レザーベストは1万円前後、ライダースジャケットは2万円前後が中心価格帯。
ライダースジャケットはダブルがメインです。
このようにレザーベストとライダースジャケットが取り立てて大きく扱われているのは、この2アイテムが渋カジを象徴する存在だからです。
例えば。以前の“ファッション”でご紹介した『POPEYE』1990年3月7日号の特集、“’90年度版渋カジ必携インポートFASHIONカタログ”。
特集の冒頭で新しいアイテムとしてパタゴニアやヘリーハンセンなどのアウトドアブランドのフリースジャケットが提案されているのですが、ページ右端には“革は、もう古い!ポーラープラスでいこう”とあります。
ここに、「革」という言葉がなぜ登場するのか。
それは、レザージャケットは、渋カジを象徴するアイテムだったからです。
こちらは渋カジブーム後期となる1992年の雑誌。
1980年代から続くアメカジ要素の強いオーソドックスな渋カジはこのような雰囲気だったと思われます。
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51866741.html
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51866741.html
渋カジの派生スタイル、キレカジとハードアメカジ
1989年の段階ではまだ首都圏中心だった渋カジですが、1990年に入ると渋カジに2つの派生スタイルが生まれます。
ひとつめは、キレカジ。
ラルフ・ローレンのネイビーブレザーやボタンダウンシャツ、タータンチェック柄のパンツなどのトラディショナルアイテムをベースにした、上品な印象のスタイルです。
https://www.pinterest.jp/pin/366199013443030809/
そして、もうひとつがバイカー的要素の強いハードアメカジです。
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51866741.html
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51866741.html
https://www.pinterest.jp/pin/816347870001883290/
渋カジについて詳しく紐解いた書籍、『渋カジが、わたしを作った。』では、渋カジのアウターについてこのように記されてます。(強調引用者以下同)
89年の秋冬は、これまでのワーク、NBA系のアイテムに加えて、本格的なアウトドア・アイテムに注目が集まった。セーターはアメリカ物よりイギリス物が主流で、(インバーアラン)やファクトリーブランドのフィッシャーマンセーターや、〈マイケル・ロズ)などのフェアアイルセーターが売れ筋に。本国ではおじいちゃんが着るような服で、16~17歳の高校生には似合わないはずなのだが、エンジニアブーツや501と合わせれば、なぜか若々しく見えた。
アウターで目立ったのは、ダウンジャケットとダブルのライダースジャケット。この二大アウターの他にもマウンテンパーカーやフィールドジャケット、ブランケットジャケット、そしてインポートショップのスタッフやファッションリーダーの間ではムートンコートが流行した。 ダブルのライダースジャケットは黒の表革が主流。一番人気のメーカーは〈ショット〉で、5万円前後と品質に対してリーズナブルな価格と、基本に忠実なベーシックなスタイルで支持が高かった。翌年に爆発的にヒットする〈バンソン〉を着ている人はまだ少数派だった。 ダウンジャケットはライダースと違ってブランドも様々。〈ザ・ノース・フェイス〉〈ウールリッチ〉〈ウォールズ〉〈ウッズ〉などが様々なバリエーションで売られていて、安いものは1万5 000円ほどで、高いものでも5万円ほど。ダウンの流行は春夏の渋カジ・スタイルの延長線にあるもので、春夏に流行ったコーディネートに羽織れば一丁あがり。他のアイテムを買い足さなくてもお手軽に冬支度できたのが良かった。
渋カジが、わたしを作った。 団塊ジュニア&渋谷発 ストリート・ファッションの歴史と変遷(Amazon)
1989年の冬はショットのダブルライダースジャケット。
1990年の冬はバンソンのライダースジャケット。
『渋カジが、わたしを作った。』によると、ハードアメカジの存在が顕在化したのは1990年の秋頃。
1991年の春〜夏には衰退化を始めたキレカジに代わり、ハードアメカジが最大派閥となります。
革ジャンを流行らせた、たったひとりの「起業家」
ではなぜ、ハードアメカジの人気が高くなったのでしょうか。
その理由が記されているのが、『史上最短で、東証二部に上場する方法。』という書籍。もちろん、ファッション関連の本ではありません。
著者の野尻佳孝さんは、ウエディング業界最大手テイクアンドギヴ・ニーズの創業者で現会長。
現在は人気のラグジュアリーホテルのTRUNK(HOTEL)を運営する株式会社TRUNKを経営する起業家です。
2005年に出版された『史上最短で、東証二部に上場する方法。』はそのタイトル通り、野尻佳孝さんの生い立ちからテイクアンドギヴ・ニーズが上場するまでの道のりを描いた自伝的な内容です。
電気工事や建設を請け負う小さな会社を経営する家庭に生まれた野尻佳孝さんは、“やんちゃにも程がある悪ガキ時代”を送ったのちに進学した明治大学付属中野中学校で大変なカルチャーショックを受けます。
合格発表のとき300人しかいなかったはずの生徒が、入学式では400人近くに増えているのである。
私はこのとき初めて世の中の「不条理という名の道理」を、子供ながらに理解した。 同級生にはスポーツ選手や芸能人の息子、有名企業の御曹司…などがごろごろし ていた。おそらく、日本の中でも超のつくハイエンド層ジュニアが集まる学校に違いないだろう。
「有名私立中学校」と言われる明大中野は、大変なお金持ちが集まる学校でした。
めまいを覚えるほどのお金持ちに囲まれて、私の自尊心のようなものはガラガラと音を立てて崩れていった。
例えば、夏休み明けには、「プライベートジェットでどこそこへ行った」「ハワイに あるプライベートビーチでひと夏過ごした」「お前の家の別荘って、旧軽(旧軽井沢) のどのあたり?」などという会話が当たり前のように交わされる。テレビや漫画で誇張して描かれる「お金持ち」の姿そのままを、リアルに地で行く勢いである。
チーマーの元祖『ファンキース』との出会い
経営者の父を持つ野尻佳孝さんは比較的裕福な育ちを自認していましたが、桁違いの金持ちに囲まれる学校生活で、コンプレックスを感じるようになります。
私の住む江戸川区から学校のある東中野までは、同じ23区内ながら小一時間を要する。私は毎日荒川を越え、銀座や新宿を経由するルートで通学していた。 一方、友人たちが住む広尾や麻布、世田谷などは、すべからく荒川の向こうにあった。もちろん、渋谷や新宿、六本木といった繁華街もしかりである。好奇心旺盛でオシャレ心も芽生えた中学生の私にとっては、荒川の上を行ったり来たりする毎日さえもコンプレックスの対象となった。お世辞にも都心とは言いがたい地元・江戸川区は、 いかんせん刺激が足りない街だった。
私と友人たちは学校が終わると、新宿にあった古着店に毎日のように入り浸るようになった。その店は、新宿プリンスホテルの1階にあり、当時流行っていたアメリカ ン・カジュアル・テイストの洋服を売っていた。そこで何をするというわけでもなく ひとしきり時間をつぶすと、私たちは夜の街へと遊びに出かけるのである。
私の最初の遊び場は、六本木界隈。バブルの足音が聞こえはじめた80年代後半、最先端の遊びを知る大人は皆、六本木に集まっていた。そんな大人たちに交じって、私 たちは一人前の顔をして六本木の街を徘徊した。大企業の御曹司だったり、角界や梨園、芸能界で活躍する親を持つ同級生たちは、子供の頃から慣れ親しんだ場所といった風情で、夜の街にも自然になじんでいる。私たちはそのとき、まだ中学生だったにもかかわらず……………。
スポーツ選手や芸能人、マスコミ関係者。そういった最先端の遊びを知る大人たち と交流を持つことで、私たちは彼らが時代に先駆けて次々と新しいカルチャーを生み出していくのを 目の当たりにした。彼らが仕掛ける遊びや身につけるモノは、情報という波に乗ってブームへと押し上げられていく。それはじつにエキサイティングな体験だった。私たちはいつしか、自分たちも新しい文化、ニューカルチャーをつくり出し たいと本気で考えるようになっていった。
そのためには、新天地が必要だった。 遊び慣れた大人たちが集う六本木は、年端もいかない10代の私たちにとって等身大の場所にはなりえなかった。
そして、野尻佳孝さんが「新天地」として選んだのが渋谷でした。