目次
- ビフォー渋カジ、DCブランドブームと不発に終わったエフデジェ
- 80年代のアメカジを支えた原宿渋谷のショップ
- 「渋カジ」ブランドの数々
- 渋カジは日本初の日本のストリートファッション
- キレカジとハードアメカジ
- 憧れのゴローズ
- 渋カジとチーマー
- 50代に「濃い」アメカジオジサンが多い理由
- ハードアメカジが根強く支持され続ける理由
以前から疑問だった、「50代に「濃い」アメカジオジサンが多い理由」。
【50代に「濃い」アメカジオジサンが多い理由】
— 山田耕史 (@yamada0221) 2023年5月29日
↑前から疑問でした。
GWキャンプで寄った栃木県茂木の道の駅。
多数いたバイカーの中で目立っていたのが、ハーレーに乗り「濃い」アメカジを着た50代。
雑誌「ライトニング」みたいな、キャラも服装も「濃いめ」な感じ。続https://t.co/wpBFHB6k7q pic.twitter.com/jyoknWBf0B
承前
— 山田耕史 (@yamada0221) May 29, 2023
「50代」「ハーレー」「濃いアメカジ」に何か関係はあるのか。
先日のワークマン説明会でご一緒したバイクの専門家 @oyaoya_r1100r にお聞きしたところ、映画「イージーライダー」に憧れた世代が、50代になって時間やお金の余裕が生まれ、ハーレーに乗っているのではないかとのこと。続 pic.twitter.com/Me1RbByjzI
承前
— 山田耕史 (@yamada0221) May 29, 2023
確かに「ライトニング」が提案するジーンズやライダースジャケット、エンジニアブーツ等のハードなアイテムが軸のワイルドな雰囲気アメカジは、かなり「イージーライダー」的。
「イージーライダー」の公開は1969年。50年以上経っても多数のフォロワーがいるのはかなり驚異的ですね。 pic.twitter.com/NELzfAZF70
このツイートに対して、色々ご意見いただきました。
その世代が18歳の頃にスティードとかビラーゴとか国産アメリカンバイクが流行ったんだよ。それのアップグレードだね。イージーライダーは基礎教養で、ファッション誌からストリートの「渋谷のお兄さん」に憧れ始めたとかが最初じゃないか。 https://t.co/bEB6Ezd9Qr
— ケースクエイク (@chucknorrisuke) May 30, 2023
我々より上の世代にはそれが暴走族の「マブい先輩」とかで、日本のストリートカルチャーの一部として育ってるよね。ヒップホップとかも。
— ケースクエイク (@chucknorrisuke) May 30, 2023
「イージーライダー」が一連のバイクカルチャーのルーツって感じですかね?
— 山田耕史 (@yamada0221) May 30, 2023
レンタルビデオ手軽に昔の映画が観られるようになったので当時の尖った人がニューシネマに影響を受けてというのはありますね。ライトニング以外もアメリンバイク、車の雑誌が台頭してきました。一方でルイスレザーはUKのバイク文化で、当時「バイクメ〜ン」なんてマンガがとっかかりになったなと。
— ケースクエイク (@chucknorrisuke) May 31, 2023
そしてその頃、本家ハーレーでもエボリューションという新型の壊れにくいエンジンの車両が登場、バブルも相まってハーレーに跨りバンソンを羽織りエンジニアにゴローズ、レイバンでロン毛、517、聴いてるのはガンズ。こういう人が大量に出てきた、その後マッコイズかな。
— ケースクエイク (@chucknorrisuke) May 31, 2023
「バイクメ〜ン」って漫画、知らなかったんですが、ドラゴンヘッドの作者の作品なんですね。
— 山田耕史 (@yamada0221) May 31, 2023
ざっとググって出てきた画像だけでも、かなり服装に気が配られていることがわかりました。 pic.twitter.com/fXhLcmwaYy
濃いアメカジ直球世代だけど、それは置いといて。イージーライダーと日本のアメカジって結び付けた事はまったくなかったな。日本のアメカジはPOPEYEが代表の雑誌文化とBEAMSSHIPSの黎明期セレクトショップの組み合わせが生み出して、90年代にBOONがハードアメカジの方向付けをした、という認識。 https://t.co/1UWLgCDYMY
— たかけい (@kei_ungatz) 2023年5月31日
イージーライダーはあくまで象徴的なものであって、みんなが影響を受けたというような直接的な要因ではなく、もっと単純に「渋カジ」の世代なんだと思いますがどうでしょう(僕もリアルタイムではなく後学ですが)。イージーライダーをリアルタイムで観てるのはさらに10歳上だと思うし。 https://t.co/0IlrzGKG8e
— 齋藤 (@saito_d) May 31, 2023
中学時代にヤンキーがVANSON着てたし、Walkerとか(今となっては考えられないけど)Chippewaとかの当時は安かったメーカーのエンジニアブーツは中坊でも履いてたもんですよ。大きく折返した耳つきジーンズもその時だしね。
— 齋藤 (@saito_d) May 31, 2023
この他にもご意見は色々ありましたが、50代に「濃い」アメカジオジサンが多いのは1990年前後の渋カジの影響という見解が多数でした。
では、渋カジとはどんなものだったか。
渋カジを知る上で一番わかりやすいと思うのが、こちらの「渋カジが、わたしを作った。」という書籍。
今回はこの書籍をベースに渋カジが生まれた背景と、その進化の流れをご紹介します。
ビフォー渋カジ、DCブランドブームと不発に終わったエフデジェ
渋カジが生まれたのは、1988年頃。
渋カジ誕生以前の1980年代を象徴するファッションのムーブメントと言えば、DCブランドブーム。DCブランドブームについては、こちらの「山田耕史のファッションノート」で詳しくご紹介しています。
DCブランドがマスに波及し、最も人気が高かったのが1985〜86年頃。
ですが、1987年に入るとその人気にも陰りが見え始めます。
その頃、DCブランドブームに代わる新しいファッションとしてPOPEYEが打ち出したのが、上品なフレンチカジュアルファッションをベースとしたスタイル、エフデジェです。
エフデジェについては当ブログで以前、当時のPOPEYEの誌面と共にかなり詳しくご紹介しています。
エフデジェは今の感覚で見ても格好良いと思えるファッションでしたが、大ヒットには至りませんでした。
当ブログでもお馴染みのユナイテッドアローズの創設メンバーである栗野宏文さんは、エフデジェがヒットしなかった理由を「結局着こなせる人がいなかった。消費者が育っていなかった」と分析しています。
80年代のアメカジを支えた原宿渋谷のショップ
このように、1980年代の最大のファッションムーブメントはDCブランドブームでしたが、当然全員が全員DCブランドの服を着ていた訳ではありません。
後に渋カジを生み出す原動力となったのが、原宿や渋谷に軒を連ねていたインポートショップです。
1975年に後のシップスになるミウラ&サンズがオープンしたのを皮切りに、1976年には原宿にビームスが開店。その頃のエピソードはこちらの「山田耕史のファッションノート」でもご紹介しています。
また、バックドロップ、レッドウッド、スラップショット、ジョンズクロージングなどのインポートショップが、スタジャン、MA-1やB-3などのミリタリーアウター、スニーカー、そしてリーバイスのジーンズなどのアメカジアイテムを打ち出していました。
DCブランドブームが訪れた1980年代中盤でも、これらのショップの多くはアメカジを提案したため、売上的には苦戦した時期もあったようです。
DCブランドブームの頃、ジーンズの主流と言えば、イタリアンカジュアルのケミカルウォッシュジーンズでした。
ですが、DCブランドブームが一段落した1987年頃の渋谷ではすでにケミカルウォッシュは時代遅れで、リーバイス501が主流になっていました。
そして渋カジが生まれるのが1988年。
なのですが、「渋カジ」がいつ、どこで、誰によって名付けられたのかは、「渋カジが、わたしを作った。」の他、いくつか渋カジについて書かれた書籍をあたってみても、わかりませんでした。
「渋カジ」ブランドの数々
渋カジのベースとなるのは、アメリカのワークウェア。こちらは渋カジブーム後期となる1992年の雑誌です。
後述しますが、この頃の渋カジは細分化して派生スタイルが誕生していましたが、1980年代から続くアメカジ要素の強いオーソドックスな渋カジはこのような雰囲気だったと思われます。
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51866741.html
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51866741.html
渋カジは日本初の日本のストリートファッション
○○が流行れば皆右にならえが当たり前だったそれまでのブームと違い、渋カジはこれらの「渋カジアイテム」をそれぞれが自分で編集し、自分なりのスタイリングを生み出していたという特徴がありました。
大学時代の恩師の著作からの孫引きになってしまいますが、ビームスの創設者である設楽洋さんは「形だけを取り入れるのではなく、自分たちで自分たちのスタイルを加工編集したのが渋カジ」であり、「初めて街が産んだスタイルだった」と語っています。
また、ファッションデザイナーの渡辺真史さんは「渋カジが、わたしを作った。」に掲載されているインタビューでこう語っています。(強調引用者以下同)
渡辺さんは「渋カジがなかったら今の日本のストリート・ファッションは違う形になっていた」と断言する。
「渋カジは雑誌が主導したムーブメントではなく、ストリートから自然発生的に生まれた正真正銘のストリート・ファッションです。あの時代があったから今の日本のストリートがあるのだと思うし、もしなかったら今とは違う形になっていると思います。初めてアメリカの地を踏んだ時、渋カジが世界のどこにもないドメスティックなファッションだったことに気づき、気恥ずかしくなりました。でも、今思うとそれが良かったと思うんです。自分たちのフィルターを通して生み出したカルチャーなのだから、それを誇りに思っていいし、大事にするべきですよね。様々な国の文化を吸収し、それを編集して新しいものを生み出すのは日本人の強みだと思いますが、 渋カジはまさにそれに該当する事例だと思います。」
渋カジは日本初のストリートファッションだったのです。
キレカジとハードアメカジ
1989年の段階ではまだ首都圏中心だった渋カジですが、1990年に入ると渋カジの流れを汲んだ派生的な2つのスタイルが登場します。
そのひとつであるキレカジはラルフ・ローレンのネイビーブレザーやボタンダウンシャツ、タータンチェック柄のパンツなどのトラディショナルアイテムをベースにした、上品な印象のスタイルです。
そして、もうひとつがバイカー的要素の強いハードアメカジです。
ハードアメカジについてはあれこれ説明するよりも、当時のファッション誌の画像を見てもらうと一目瞭然でしょう。
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51866741.html
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51866741.html
https://www.pinterest.jp/pin/816347870001883290/
ハードアメカジの核となるアイテムはバンソンの革ジャン、ミッキーマウスプリントのスウェット、リーバイス517(ブーツカット)、そして、エンジニアブーツ。
憧れのゴローズ
そして、ハードアメカジに欠かせないアイテムがゴローズのアクセサリーです。
こちらのハードアメカジ画像の左の彼が着用しているのがゴローズのベルト。
https://www.pinterest.jp/pin/816347870001863559/
ゴローズはハードアメカジだけでなく、渋カジにも広く受け入れられました。「渋カジが、わたしを作った。」から引用します。
<ゴローズ>の製品は全て手作りであり、魂が込められている。 長く使われることを前提にしているから丈夫であり、一朝一夕にマネできない繊細な細工が施されている。さらにそんな製品を自分好みに組み合わせることができるのだ。こんなところにも渋カジ初期から最後まで変わらず愛され続けた理由があるのかもしれない。
渋カジ少年に受け入れられたアイテムも多彩で、シンプルなフェザーから、憧れの存在だった イーグル、リング、ブレス、メディスンバッグなど、とにかく商品の全てが流行したと言っていいだろう。
もちろん、当の渋カジ君たちは最初はファッションとして身につけていたはずだが、愛用するうちにインディアンの文化や愛馬(ハーレーダビッドソン)にまで興味が広がり、ライフスタイル全般に影響を受けた人も多かった。団塊ジュニア世代でハーレーに乗っている人は、多かれ少なかれゴローさんの影響を受けているのではないだろうか。
https://www.pinterest.jp/pin/148055906489785715/
https://www.pinterest.jp/pin/9570217944474682/
こちらは7年前の写真ですが、2023年現在でもゴローズには行列ができるくらいの人気を保ち続けています。
そしたまだ続くゴローズ列。 pic.twitter.com/CdQYbaPRsa
— 山田耕史 文芸雑誌「群像」7月号にエッセイ「コムデギャルソンと川久保玲」掲載中 (@yamada0221) 2016年11月25日
渋カジとチーマー
「渋カジが、わたしを作った。」によると、ハードアメカジの存在が顕在化したのは1990年の秋頃。
1991年の春〜夏には衰退化を始めたキレカジに代わり、最大派閥となります。
上掲のハードアメカジの風貌を見ると「なんかワルそう」というイメージを持つ人も少なくないと思いますが、その理由は渋カジ成立の背景と関係しています。
そもそも渋カジの成立の背景には「チーム」がありました。
「チーム」の構成員は後に不良の代名詞的な言葉となる「チーマー」と呼ばれるようになります。
チームのはしりとなったのが、富裕層の子息が多数在籍していた都内の名門校、明大中野高校で結成された「ファンキーズ」。
その後、有名私立高校に通う不良たちの間で数々のチームが結成されるようになりますが、1988年にいくつかのチームが起こした恐喝沙汰が報道されることにより、渋谷のチームの存在が全国的に知られるようになります。
1990年頃になると、渋谷には東京近郊や近隣の県の不良たちも集まるようになり、チーム間での激しい抗争も頻繁に起こるようになります。
その結果、チームの存在は週刊誌やテレビなどで取り上げられ、知名度も全国区となりました。
その当時、ハードアメカジはチームの制服的な存在でした。
元々バイカーの影響が強く、コワモテな雰囲気があるハードアメカジでしたが、そういった当時の社会状況で更に「ワル」の印象が強まったのだと思われます。
50代に「濃い」アメカジオジサンが多い理由
改めて冒頭の僕のツイートで挙げていた、メンズファッション誌「Lightning」の表紙やインスタグラムを見てみると、渋カジのハードアメカジと極めて近しいファッションであることは一目瞭然だと思います。
https://www.instagram.com/p/CmBAdpHPVhi/?hl=ja
https://www.instagram.com/p/Cq6sFaxvEuc/?hl=ja
現在50代のオジサンが多感な時期を過ごしたのは、1990年前後。
当時人気の高かった渋カジの影響を受けた人も少なくないでしょう。
ということで、元々の僕の疑問である「50代に「濃い」アメカジオジサンが多い理由」は、「1990年頃に流行した渋カジの影響が強い」という答えが当てはまりそうです。
ハードアメカジが根強く支持され続ける理由
ですが、ここでふと疑問が浮かびます。
渋カジは確かに1990年頃最も人気だったファッションでした。
ですが、その中でもハードアメカジが30年以上経った今も根強く支持され続けているのでしょう?
そこには、何かしら特別な理由があるはずです。
この記事も少し長くなり過ぎてしまったので、その理由についてはまた次回考えてみたいと思います。