目次
- 「ナンバーワン」の日本経済がもたらす豊かさ
- プラザ合意による円高不況と公定歩合引き下げ
- バブル景気は1988〜89年
- テーラードジャケットが定番アウター
- 長続きしなかったアダルト志向のDCブランド
- DCブランド→マルイ系栄枯盛衰
- 憧れデザイナーズブランドトップ5
- DCブランドサクセスストーリー
- 超高飛車なハウスマヌカン
- 乱立するDCブランドの系譜
- 普遍性の高いアイビー×時代感の強いDC
- DCブランドに影響を与えた海外デザイナーズブランド
- ほとんど食べないで働いて服を買った時代
- 「夜霧のハウスマヌカン」と藤原ヒロシ
- デザイナーズブランドを名乗るための2つの要素
- 実は重要な役割を果たしていたハウスマヌカン
- デザイナーズブランドは「高効率高利益型システム」
- キャラクターブランドのアイデンティティーは「ビジネスのシステム」
- 今も生き残るDCブランド
- 実は格好良いDCブランドファッション
以前の記事で、第二次世界大戦後から1980年代初頭までの日本経済についてご紹介しました。
そして、こちらの記事では1989年のバブル崩壊から、1997年のアジア通貨危機までの日本経済をご紹介しています。www.yamadakoji.com
今回ご紹介するファッションアーカイブは「ホットドッグプレス」1986年5月10日号。
1980年代後半の日本経済というと、バブル景気のイメージが強い時代ですが、本格的にバブル経済が始まったと言えるのは1988年から。
そして、そのきっかけとなったのが1985年のプラザ合意でした。
今回は1980年代前半から中盤にかけての、バブル景気前夜の日本経済についてご紹介します。
「ナンバーワン」の日本経済がもたらす豊かさ
1979年に発売された書籍「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に象徴されるように、圧倒的な力を誇っていたアメリカ経済の脅威となるくらいの成長を遂げていた1980年代の日本経済。
それを象徴するのが、1983年の東京ディズニーランド開園と、任天堂の家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータ、ファミコンの発売でしょう。
1983年に内閣府が実施した「国民生活に関する世論調査」では、「今後の生活の力点は何か」という問いに、それまで長年首位だった「住生活」に代わり「レジャー・余暇」がトップになります。
発売当初のファミコンは大ヒットとは言えない状況でしたが、1985年に発売されたソフト「スーパーマリオブラザーズ」で一大ブームを巻き起こしました。
余談ですが、我が家にファミコンが来たのは1987年の正月。ソフトは「サッカー」と、そしてやはり「スーパーマリオブラザーズ」でした。
更に余談。僕の父は京都にある大学に通っていたのですが、就職活動をしていた頃に京都の企業である任天堂からお誘いがあったそうです。
ですが、当時の任天堂は花札とトランプの会社としか認識されていなかったため、父はそのお誘いを断り、別の会社に就職しました。
そのエピソードを聞いた子供の頃の僕は、「もし父が任天堂で働いていたらファミコンで遊び放題だったのに」なんていう、つまらない「if」を考えていたものでした。
で。
当時の中曽根康弘内閣は民営化を勧めており、1985年には日本電信電話がNTTになり、日本専売公社が日本たばこ産業(JT)となりました。
後の話になりますが、1987年にNTTが株式上場したときはサラリーマンや主婦がにわか投資家となって参加する、大衆的な株式ブームを巻き起こします。
売り出し価格は119万7,000円。
「政府が売り出す株で損をするはずがない」というセールストークでNTT株の人気はエスカレーターし、165万株の売出しに対し申し込みは1058万件。その99%が個人でした。
1987年2月9日の上場初日は回注文が殺到して値付かずのまま初日を終え、翌日の取引終了間際に大蔵省が10万株を追加することでようやく160万円の初値を付け、4月には318万円になります。ですが、その後のバブル崩壊により、多くのにわか投資家は損失を蒙りました。
プラザ合意による円高不況と公定歩合引き下げ
1985年9月21日に、アメリカニューヨークのプラザホテルで開催された5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議での共同合意、いわゆるプラザ合意のポイントは3つでした。
・行き過ぎたドル高
・その是正のため各国が外国為替市場に協調介入するなど積極的に協調行動を取る
・市場開放や内需拡大策の推進
プラザ合意前のドル円相場は概ね1ドル=240円前後で推移していましたが、その直後は229円まで円高が進行。その後更に進み、1986年1月2日のニューヨーク株式市場での円相場は200円を切りました。つまり、9月22日にプラザ合意から3ヶ月で1ドル=240円→199円になったのです。
円が高くなるということは、ドルが安くなるということ。
近年は円安ドル高になっており、日本人がアメリカに行ってちょっとしたランチをしようとしたら数千円もかかってしまう、なんて話題もありますが、1986年当時はその逆でした。
円高ドル安は日本の輸出企業にとって大きな足枷となり、1986年に入ると、円高不況に対する危惧の声が広がってきます。
日本銀行はそれまでプラザ合意の方針に合わせ、円高を実現させるために金融引き締めを行っていましたが、円高不況回避の為に金融暖和を行います。
そのために取られた措置が、公定歩合の引き下げでした。
公定歩合は日銀が民間の銀行に資金を貸し出すときの金利です。
日銀が公定歩合を引き下げれば、企業や個人も民間の銀行から資金を借りやすくなります。
それまで5.0%だった公定歩合は1986年1月30日に4.5%に、その後3月10日に4.0%、4月21日に3.5%、11月1日に3.0%、1987年2月23日には2.5%まで引き下げられます。
バブル景気は1988〜89年
今回の記事でご紹介するのは1986年の「ホットドッグプレス」ですが、その後についても軽く触れておきます。
1987年10月19日にアメリカで「ブラックマンデー」が起き、株式が23%も大暴落し、日本でも株価が下落します。世界恐慌が始まるのではないかという懸念が広がりますが、1988年になると株価は一気に上昇します。1987年12月末には2万1,564円だった日経平均株価は、1988年12月には3万159円と、1万円近くも上昇。
そして、日経平均株価の終値が38,915円を記録する1989年12月29日が「バブル経済のピークであり最後」と言えるでしょう。1990年の年明けから、株価は下落を始めます。
つまり、実質的には日本のバブルは約2年の短い夢だったのです。
テーラードジャケットが定番アウター
さて、ここから「ホットドッグプレス」1986年5月10日号の誌面をご紹介していきます。
誌面最初にある、小ネタページ。「生音ディスコ」の項を執筆しているのは、藤原ヒロシ(リミックスDJ)。
「ホットドッグプレス」の名物連載、作家の北方謙三さんによる「試みの地平線」。
時代が時代ということもあり、なかなか過激な内容です。
で、ここからが今号の特集「D.C.ブランドに強くなる本」。
「D.C.ブランドとは?」。Dはデザイナーズ、Cはキャラクター。デザイナーズブランドの代表例はコムデギャルソン、キャラクターブランドの代表例はビギグループやファイブフォックスグループのブランド。この辺りについては、後の誌面で詳しく解説されます。
「今、注目の最新流行アイテムBEST5」。
「ストライプ・シャツが絶対!」。こういうキレイ目なシャツのコーデイネート、最近はなかなか見ないから新鮮気がします。
お次は「ジャケットの色と形で遊ぶ」。
こんな色合いのジャケットも、今はなかなか見られないですね。下段はマルイ系定番ブランドのひとつ、ジュンメン。
そう言えば最近見ていないな、と思って調べてみると、ブランド休止になっていました。
現在はジュンレッドというユニセックスブランドが、ジュンレッドの後釜になっているようです。
https://www.jun.co.jp/brand/junred/
「ジャンパーが気になる」。「ジャケットの大ブームで忘れられていたジャンパーがこの夏復活する」とあるように、テーラードジャケットが当時の定番アウターだったようです。
ということで、次もテーラードジャケット。柄物です。
ニット。このキレイ目だけどリラックス感のある雰囲気は新鮮かつ今でもいけそうな感じ。
長続きしなかったアダルト志向のDCブランド
「アダルト志向のニューブランドでワンランク上の洒落者になる」。
「D.C.ブランドに飽きた高感度な感覚を持つ20代半ばからのヤングアダルト層をターゲット」とあるように、上掲のジュンメンなどの既に人気を集めていたDCブランドが新規顧客獲得のために新たにブランドを展開していたようです。
DCブランドブームの二匹目のドジョウを狙った、という感じでしょうか。
そういった出自だったからか、その後長続きしたブランドはほとんどなかったようです。
DCブランド→マルイ系栄枯盛衰
お次は「レディス・ブランドから生まれたメンズでさり気なくペア感覚」。既にレディスで人気だったブランドが、メンズも展開するようになったということですね。こちらも二匹目のドジョウ狙い感が漂っています。
左ページのニコルクラブフォーメンは今も継続して展開されています。
https://www.instagram.com/nicoleclubformen/<
細身のシルエット、モノトーンベースのカラー、ロックっぽいディテールなど、これぞマルイ系!という雰囲気。
たまに話題になる、ワンショルダーバッグも販売しています。
次ページもレディス→メンズのDCブランド。
DCブランドというより、原宿系のイメージが強いブランド、ミルクボーイ。
左ページはペイトンプレイスフォーメン。
PEYTON PLACE FOR MEN。頭文字に注目。
そう、今現在海外で人気で、インスタグラムで高値で売買されているPPFMです。
www.yamadakoji.comが、PPFMもブランド自体は今はもう存在していません。
憧れデザイナーズブランドトップ5
DCブランド特集が続きます。
「憧れのデザイナーの服は、こう着こなす」。
「日本のD・B(デザイナーズブランド)の中で最も独自のスタイルを強く持つデザイナー5人」ということで、数あるDCブランドの中でも最も評価が高いブランドトップ5、ということでしょう。
その筆頭が、ワイズフォーメン。
言わずと知れた、山本耀司が手掛けるブランドです。現在、ヨウジヤマモトのメンズコレクションラインはヨウジヤマモトプールオムですが、1986年当時はまだ存在しませんでした。
そして2つ目に挙げられているのが、コムデギャルソンオム。
デザイナーは川久保玲。当時はコムデギャルソンオムと、コムデギャルソンオムプリュス両方のデザインを川久保玲が手掛けていました。田中啓一がコムデギャルソンオムのデザイナーとなるのは1990年。
僕の田中啓一愛については、こちらの記事も是非ご覧下さい。
ワイズ、ギャルソンに続く3つ目のデザイナーズブランドは、タケオキクチ。
↓の説明文にもあるように、1970年代に設立したメンズビギで、日本のメンズファッションを牽引。1984年に大手アパレルメーカー、ワールドに移籍してタケオキクチがスタートします。
続いては、イッセイミヤケメン。
こちらもこの頃はまだ創業者である三宅一生がデザイナーを務めています。
そして、憧れデザイナーズブランド最後はムッシュニコル。松田光弘が創業したレディスブランド、ニコル。
「松田光弘氏総合ディレクト、小林由紀夫氏デザインによるムッシュ・ニコル」とあります。後にコムデギャルソンオムを手掛ける田中啓一がデザイナーを務めていたのが、このムッシュニコルです。
DCブランドサクセスストーリー
続いては、「原宿ブランド&ショップ徹底研究」。
「今でこそ星の数ほどあるD.C.ブランド。知名度の低いブランドまで含めたら、その数は何千という数に達するかもしれない。もちろん、ボク達が認知しているブランドはせいぜい20〜30ぐらいのもの」という文言に、時代を感じますね…。いわゆる、DCブランドのサクセスストーリーを探るという特集のようです。
筆頭は、パーソンズフォーメン。先程も登場しましたが、レディスブランドのパーソンズから派生したメンズブランドです。「今や大人気ブランドとなったパーソンズ」とあるように、当時はDCのC、キャラクターブランドの代表格でした。
パーソンズ、実は僕的には思い出深いブランドでして、中学生の時にパーソンズの文具が流行っていて、かなり色々な商品を集めていました。
個人的に、パーソンズと言えば文具。中学生のとき(92年頃)、流行ってて揃えてました。この画像のペン、筆箱、シャーペンは全部持ってました笑
— 山田耕史 ファッション×歴史のnoteはじめました (@yamada0221) June 7, 2020
こういう色使いやデザインは今も好きなので、僕の嗜好のベースになってるのかも。 pic.twitter.com/3fJfHU7kYd
ですが、今改めて考えてみると、東京で大人気だったファッションブランドが、たった6年後には地方の中学生が気軽に買う文具のブランドになっていたという、DCブランドの栄枯盛衰を象徴するような出来事だったんです。
とはいえ、文具のようなライセンス展開ができたパーソンズは、かなり良い例だったのでしょう。この特集で紹介されている他のDCブランドは、パーソンズのようなライセンス展開もできなかったと思われます。
逆に言うと、当時のファッション業界は成り上がりができる夢があったと言えるでしょう。竹下通りのマップに掲載されているショップも、今は存在していないものばかりです。
超高飛車なハウスマヌカン
次のページは「ハウスマヌカン覆面座談会」。
ハウスマヌカン、今で言うところのショップスタッフ。販売員です。「夜霧のハウスマヌカン」というシングルが発売されたのが、1986年1月。
歌詞を見ればわかりますが、「夜霧のハウスマヌカン」ば当時の人気職業だったハウスマヌカンをネタにしたパロディソングのような歌です。この歌については、また後で触れます。
この頃には既にハウスマヌカンはネタにされていたということですが、この誌面に掲載されたハウスマヌカンのコメントは、非常に非常に非常に高飛車です。「女性編」では、「ダサいコに死に筋の洋服を買わせるのなんて、あたりまえ」。
次ページは男性編。
「買わないなら、見るだけ見てとっとと出てってほしいよ。ったく」。今の感覚だと考えられない態度ですが、実はこのハウスマヌカンの存在が、DCブランド人気の重要なポイントになっていたのです。それに関しては、後述します。
乱立するDCブランドの系譜
次ページは「一目でわかるD.C.ブランド発展図」。
「ブランドの系列を知って、ワードローブ計画に参考にしちゃう!」って、何がどう参考になるのかはわかりませんが、当時はそれだけDCブランドが乱立していたのでしょう。特に、ビギグループやニコルグループのブランド数はなかなかのものです。ピンクハウス、カールヘルムがニコルグループだったのは知りませんでした。
右ページ、アメ横のまるきんという靴屋の広告は、Kスイスが筆頭、続いてアディダス、コンバースと続きます。
左ページは「D.C.ブランドのボリューム・ゾーン早見表」。DCブランドが価格帯とトレンド性でマッピングされています。例えば、アニエスベーは最もベーシックなブランドのひとつ。
余談ですが、少年マガジンの広告。意外と絵柄が今っぽいような気がします。
普遍性の高いアイビー×時代感の強いDC
DCブランド紹介の続き。
「やっぱり普段着は50〜60年代のアメリカン・テイストで」。いわゆるアイビーをベースとしたDCブランドの特集です。
アイビーは普遍性が高いファッションなので、今の感覚でも違和感のないアイテム、コーデイネートが並んでいます。
このページは、アイビーの普遍性と、この時代のDCブランド特有のシルエットやデザインがいい具合に融合されているように感じます。
DCブランドに影響を与えた海外デザイナーズブランド
お次は「日本のDCブランドに多大な影響を与えた海外のデザイナーズブランド」のラインナップ。筆頭のジャンポール・ゴルチエには納得感があるのですが、ナイジェル・ケーボン、キャサリン・ハムネットと続いているのが僕的には意外でした。
当時の人気アイテムだったテーラードジャケットが並ぶ中、大胆なデザインのニットに柄シャツを提案しているのが、我らがポロ・ラルフローレン。
マーガレット・ハウエルは、今も当時も変わらない優しい色使いと素朴な素材感。
そして、今も人気のポール・スミスとアニエス・ベー。日本のDCブランドに比べ、今も生き残っている海外ブランドが多いのが印象的です。
ほとんど食べないで働いて服を買った時代
「ファッションウォッチング」のページ。こちらはいわゆるストリートスナップではなく、丸井新宿店で開催されたファッションイベントの参加者なので、掲載されているのはかなり気合を入れておめかししている服装だと思われます。
なので、完全にリアルとは言えないでしょうが、こういう感じがDCブランドブームのときにある程度リアル感のある服装だったと言えるでしょう。
服装だけでなく、髪型にも相当コストがかかっていそうな雰囲気。そして、驚きなのが年齢層の低さ。
16歳の多いこと多いこと。
おそらく、彼ら、彼女らが着用しているのはこれまでご紹介してきたDCブランドのアイテムなんでしょう。
シャネルなどのブランド名も登場しているところから、当時のティーンエイジャーがファッションに相当なお金を使っていたことが伺えます。
当記事の冒頭でもご紹介しましたが、当時の日本経済はまだバブル景気前夜でしたが、安定成長を続けていた時代。なので、こうやって10代の少年少女たちがファッションにかけられるお金も潤沢にあったのでしょうし、何よりも経済が右肩上がりに成長を続けており、明るい未来しか想像できなかったという世の中の空気感も、DCブランドブームの要因のひとつだったのだろうと思います。
それに加え、当時の若者のファッションに対する価値観も大きいと思われます。
ビームス創業40周年を記念して2016年に発売された、「WHAT'S NEXT? TOKYO CULTURE STORY」という書籍。
タケオキクチ、メンズビギを手掛けた菊池武夫さんと、メルローズのチーフデザイナーを務めていた横森美奈子さんによる、「ブームを牽引した立役者が語るD/Cブランド回想録」という対談が掲載されています。(強調引用者以下同)
横森:ファッションのいまと当時を比較すると、お金をかける優先順位が違うんですよね。
菊池:それはみなさん言ってるよ。ほとんど食べないで働いて、とにかく服を買った時代だね。 道路工事の仕事しながらお金を貯めて服を買ったというような話もよく耳にしましたしね。
横森:洋服で自分を表現したいという欲求が、いまと違ってものすごく高かった。 いまのようにライフスタイ ルという言葉もないし、生活全体のバランスをとってという考えもなかったですしね。
菊池:お利口じゃないんだよ(笑)。 それは80年代半ばまで続いたね。
引用元;「WHAT'S NEXT? TOKYO CULTURE STORY」
「80年代半ばまで続いた」という指摘がある通り、1986年は「ほとんど食べないで働いて、とにかく服を買った時代」で、このファッションウォッチングに登場している若者たちは「洋服で自分を表現したいという欲求が、いまと違ってものすごく高かった」のでしょう。
「夜霧のハウスマヌカン」と藤原ヒロシ
そして、興味深いのがこの「ファッションウォッチング」隅っこにあるこちら。「ご存知HDP連載から出現したLP「業界くん物語」よりシングル・カットされた、名曲「夜霧のハウスマヌカン」を熱唱する東芝EMIのややサン」と、「HDPの編集者であり、芸人である、いとうせいこうクン」。
「夜霧のハウスマヌカン」は、いとうせいこうさんのアルバム「業界くん物語」に収録された一曲。
日本有線大賞の新人賞を獲得したややの「夜霧のハウスマヌカン」や、日本における最初期の本格ヒップホップと言われているいとうせいこうの「業界こんなもんだラップ」を始め、多彩なジャンルの音楽とコントを収録。
この「ホットドッグプレス」1986年5月10日号にも、巻末に「業界くん物語」が掲載されています。
そして、「業界くん物語」には、↓のページにも登場しているストリートファッション界のゴッドファーザーも参加しています。
左ページの吉田照美さんじゃありませんよ。右ページの「トンガリスト宣言vol.1」に登場している、「”トンガリスト1号”の藤原ヒロシ」です。
藤原ヒロシさんの半生がとても詳しく綴られた書籍「丘の上のパンク -時代をエディットする男、藤原ヒロシ半生記」で、「業界くん物語」について、いとうせいこうさんがこう語っています。
「業界くん物語」は雑誌の連載や単行本は、スーパヴァイザーを景山さんにお願いして。 レコードは東芝(EMI) の広瀬さんというディレクターが、「ハウスマヌカンもので、シングルを1枚」みたいな依頼でやって来たんですよ。そこで、「だったら、アルバムを作ろうじゃないか」って熱意を持ってしゃべったら、とんとん拍子にことが運んじゃった。僕は音楽のことは詳しくは分からないから、ヤン (富田)さんに入ってもらって、ヒロシに相談して、「業界こんなもんだラップ」 で HIROSHI THE RIPPER、 DUB MASTER X ZULU KING KUDO3人のDJのスクラッチに乗せて、ラップすることが出来たんです。
引用元:丘の上のパンク -時代をエディットする男、藤原ヒロシ半生記
「ホットドッグプレス」1986年5月10日号についての内容は以上になります。
デザイナーズブランドを名乗るための2つの要素
さて、ここまでご紹介してきた内容だけでもある程度DCブランドブームのあらましは理解していただけたと思います。
ですが、もっとDCブランドについて深堀りができる、良い書籍を見つけました。それがこちらの「ポストDC時代のファッション産業」。
DCブランドブームが一段落した1989年に発売されており、著者は当記事でこれまで何度も登場してきたDCブランド、ニコル出身ということもあり、とても解像度の高い内容になっています。DCブランドについて詳しく知りたい方にはお勧めの一冊です。
まず著者はDCブランドのD、デザイナーズブランドを「日本で初めての『ヤングカジュアルマインドを持った個性的な高級既成服』」だったと定義しています。
昭和四十年代、「ビギ(菊池武夫)」「ニコル(松田光弘)」「ブティック・ジュンコ(コシノジュンコ)」「ピンクハウス(金子功)」「やまもと寛斎」「イッセイ・ミヤケ (三宅一生)」 「ワイズ (山本耀司)」「コム・デ・ギャルソン(川久保玲)」といったデザイナーズブランドが続々誕生した。
これらのブランドは、日本で初めての「ヤングカジュアルマインドを持った個性的な高級既成服」 だった点で共通している。それ以前の服は、「よそいきの服」と「普段着」しかなかった。「よそいきの服」には、ヤングカジュアルマインドが無く、「普段着」の高級なものは無かった。そしてどちら も、「個性」に欠けていた。そういった意味で、デザイナーズ・ブランドの服は、全く新しいジャンルを開拓したと言える。
そして、デザイナーズブランドを名乗るには、2つの要素が必要としています。
当時、デザイナーズブランドを名乗るには二つの要素が必要だった。 一つは、デザイナーの名前をつけたファッションショーを開くこと。
ファッションショーを行うことは、大きな賭けである。なにしろ金がかかる。当時でさえ、最低1,500万円はかかると言われたものだ。仮に莫大な費用をかけてショーを行っても、評判が悪ければ元も子もない。それでも彼らは自分の才能を信じ、チャレンジしていった。ある者は親戚から借金をし、 ある者は多大な努力の末、スポンサーを得てファッションショーを開いていったのである。そして、コレクションが三シーズン続けて支持されれば「本物」と言われた。
デザイナーズブランドのもうひとつの特徴は、「直営ブティック」である。直営ブティックを設けた理由は、次の二点である。第一には、好きな服を好きな環境で売りたいという、デザイナーの欲求に応えるため。第二には、デザイナーズ・ブランドがまだ新興勢力で、専門店や百貨店が取引に応じてくれなかったためである。
そこで、当時、比較的地代が安くイメージの良い青山、原宿などの地区に、ブティックを構えることになったのである。
その後、大手流通業が新たな業態開発を進め、昭和四十年代後半になると事情が変化した。ターミナル立地の開発が進み、駅ビルや地下街が整備されるようになる。パルコに代表されるファッションビルも増え、ブティックの多店舗化の受け皿が出来てくる。クレジットの丸井も「新宿ヤング館」に デザイナーズ・ブランドを導入するようになる。また、西武、阪急などの百貨店も新しいファッションとして、デザイナーズ・ブランドを導入していくのである。
著者はこの「直営ブティック」というシステムを、DCブランドが行った仕事の中でで最も評価されるべき功績としています。
DCが行った仕事の中で最も評価されるべき功績は、「直営ブティック・システム」の確立である。 これは、チェーンストアの誕生、生協の産直販売などに匹敵する流通革命と言っても良いだろう。繊維製品の流通は、他業界と比較して数段複雑だ。
原料メーカーから素材メーカー、一次問屋、二次問屋等を経て、縫製メーカー(と付随する多くの下請けメーカー)、その後に一次二次の製品問屋、そこからやっと小売店に行き着く。更に、これらの間に商社が網の目のように入り込む。原料から製品になるまで、なんと十数回から二十回程度の売買が行われるのである。もちろん、その度にマージンが上乗せされる。
こうした業界の旧弊を打破し、メーカーと消費者を直結させるという構想は以前から存在していた。 しかし、それは「商道徳」という名の「業界の掟」に反するものであった。掟を破ることは、業界での生存権を奪われることを意味するのだ。
ところが、DCアパレルは、その掟を全く知らない層から発生した。繊維製品の中心勢力だった日本橋界隈の問屋筋とも無縁であり、大手流通とも無関係だった。そのため、彼らは、製品の作り方、売り方の双方において本音で行動した。
欲しい素材が生地問屋になかったら、産元の問屋に行った。それでも見つからない時は機屋へ行って職人に直談判した。
これは明らかに掟破りだ。アパレルが生地を買う場合、生地問屋を通すのが常識なのである。普通だったら、素材の供給ルートを絶たれただろう。
売り方についても同様だった。大手の百貨店や専門店が自分の商品を扱ってくれないとなると、自分で店を作ることを考え、それを実践していった。
こうしたことは、川上、川中、川下という「流通の常識」を否定することであった。メーカーが小売店を出せば、一斉に小売店の反発を買い、ボイコットされた時代だったのである。
「ポストDC時代のファッション産業」
今で言うところの、DtoC(Direct to Consumer)に非常に近しいビジネスモデルですが、ここで重要になっているのはデザイナー自身の創造性の高さがビジネスの原点となっているところ。
2022年に亡くなった三宅一生、そして今も現役でパリコレクションで作品を発表し続けている山本耀司、川久保玲の「御三家」をはじめとした天才デザイナーたちの才能があり、そしてその才能を世に知らしめるために挑戦的な行動を取ったからこそ、実現したのだと思います。
実は重要な役割を果たしていたハウスマヌカン
そしてその「直営ブティックシステム」では、ハウスマヌカンが重要な役割を果たしていたそうです。
直営ブティックのシステムは、高効率であるばかりでなく「生活者との情報ステーション」の機能も果たした。
これは旧来、メーカーが「アンテナショップ」に求めていた機能である。「アンテナ」は、受信を意味するもの。とは言っても、何も発信していないアンテナだけの店に、生活者が集まるはずはない。 結果的に、初期のアンテナショップは充分に機能しないまま終わっている。
生活者が求めているものは、情報を発信する店だ。そして発信すると同時に、顧客の反応を速やかに受信すれば良いのである。
そう考えると、本当の情報ステーションとは、受発信できる双方向メディアでなければならない。 一言で言うと、「プレゼンテーション&POSショップ」となる。生活者にプレゼンテーション(発信)しながら、ショップ全体が情報センサー機能を持つのである。ここで言う「POS」とは、POSレジのことだけではない。「ポイント・オブ・ セールス」と「パーソン・オブ・セールス」という二重の意味を持つ。なぜなら、ファッションを感知するセンサーとは「人間の五感」に頼らざるをえないからである。
この二重の役割を果たしたのが、「ハウスマヌカン(既に死語になりつつあるが)」である。彼女達は自ら自社ブランドの服を着ることにより顧客に「プレゼンテーション」し、同時に接客しながら顧客のニーズ&ウォンツを感じ取っていった。つまり、「ハウスマヌカン」自身が、受発信の双方向メディアだったのである。
この受発信のバランスが取れていれば、店の陳腐化が起こることはない。しかし、どちらかの機能が低下すると、たちまち陳腐化が始まる。
これまでDCアパレルが、画一的なプロトタイプ・ショップで全国展開できたのは、ある意味で ハウスマヌカンのお陰だったのかもしれない。優直秀なハウスマヌカンは、ごく自然にその地域特性を理解し、対応していたのである。
「ポストDC時代のファッション産業」
「ホットドッグプレス」に掲載されていたハウスマヌカン座談会を読んだ後なので、ハウスマヌカンが「自ら自社ブランドの服を着ることにより顧客に「プレゼンテーション」し、同時に接客しながら顧客のニーズ&ウォンツを感じ取っていった」、「受発信の双方向メディアだった」だったとは想像もつかないのですが笑。
まぁ、ああいった雑誌の企画はネタ的な要素が強いのでしょう。「夜霧のハウスマヌカン」でネタにされる前は、ハウスマヌカンは時代の最先端を行く憧れの職業だったようですから、「双方向メディア」の役割を果たしたハウスマヌカンも、当時は多数存在していたのでしょう。
デザイナーズブランドは「高効率高利益型システム」
そして、直営ブティックシステムを軸としたデザイナーズブランドのビジネスモデルは「高効率高利益型システム」だったと著者は指摘しています。
DCアパレルが本音で行動した結果、あるいは、やむをえず作り上げたシステムが、実は「高効率高利益型システム」だったのである。
生産から販売まで全て自分達で運営する。確かにリスキーではあるが、売れた時の利益も桁外れに大きい。製品原価は小売価格の約30から35%、単純に計算して粗利益率が65から70%になる。 粗利益率が50%を超えるとは、直営店で半額セールを行ってもまだ利益が出るということである。
自分達の気に入ったもの、他では売っていないものをこだわって作る。 その結果売れ残ったとしても、半額で売れれば損はしない。「いくら何でも半額なら売れるだろう」という安心感もある。 それがまた、思い切りの良い企画を生むことになる。また、利益率が高いので、雑誌広告やタイアップ広告にも投資することが可能だ。 それに対し、通常のアパレル問屋は、小売価格60から65%位で小売店に卸している。どう頑張っても粗利益率は、35から40%止まり。 半額セールを行えば利益は飛んでしまう。そこで20%オフ、30%オフと順次バーゲンを行うことになる。
売れ残っては大変だから、売れ筋商品を集中して作る。それが結果的に、他メーカーとの同質化競争を招き、価格競争の泥沼にはまっていくこと になるのである。
それに加え、利益率が少ないので広告など出せない。ブランドの知名度も上がらないから、有利な取引条件も結べない。まさに悪循環である。
「ポストDC時代のファッション産業」
自分たちが作りたいものを、こだわりにこだわって作ると、高い利益を生む。
この理想のようなビジネスモデルを実現させたのが、この時代のデザイナーズブランドでした。
キャラクターブランドのアイデンティティーは「ビジネスのシステム」
そして、デザイナーズブランドが作り上げた理想的なビジネスモデルを参考にアパレルメーカーが展開したのがキャラクターブランドです。
「コムサ・デ・モード」「アトリエ・サブ」をはじめとするキャラクター・ブランドは、一貫したイメージ(キャラクター)を持つブランドのことであり、その多くは直営ブティック・システムを基本としている。というよりも、利益率の高い直営ブティック・システムを展開するために、キャラクターを作り上げたと言う方が正しいだろう。
ここに、デザイナーズブランドとキャラクター・ブランドの大きな違いがある。デザイナーズ・ ブランドが「デザイナーの感性」をアイデンティティーにしているのに対し、キャラクター・ブランドは「ビジネスのシステム」をアイデンティティーにしているのである。
キャラクター・ブランドが生まれた背景には、ラフォーレ原宿をはじめとするファッションビルの増加がある。ファッションビル側にとって、ビル全体のイメージが向上し、しかも安定した売り上げが確保できるデザイナーズ・ブランドの直営ブティックは理想的なテナントだった。しかし、デザイナーズ・ブランドだけで、全フロアを埋めることは出来ない。そこで、原宿を中心とした有力なマンションメーカーに直営店を出させ、デザイナーズ・ブランドの第二勢力に育てようと考えたのである。 一方、それは弱小アパレルにとって願ってもない話だった。彼らにとって、デザイナーズ・ブランドの「直営ブティック」は名実共に成功のシンボルであり、それ以上に、直営店の高い利益率は大きな魅力だったのである。
キャラクター・ブランドの多くは、専門店向けの単品メーカーから出発している。しかし、直営ブティックを構えるためには、トータルアイテム展開に切り替え、バラ売りしていた専門店から撤退しなければならない。これは極めて重大かつ勇気のいる賭けだった。一歩間違えれば、これまでの単品メーカーとしての販売先を失うことになる。この時に、トータルアイテム展開に踏み切ったアパレルだけが、後にDCアパレルの一員として大成功することになるのである。
「ポストDC時代のファッション産業」
今も生き残るDCブランド
「デザイナーの感性」をアイデンティティーにしたデザイナーズブランドと、「ビジネスのシステム」をアイデンティティーにしたキャラクターブランドが、日本のファッションシーンを席巻してから、30年弱が経ちました。
創業者の川久保玲が今も第一線で活躍しながらも、ブランドの価値観と自身の創造性を発揮している渡辺淳弥や二宮啓などの後継者が育っているコムデギャルソン。
ビョークさん、ケイニノミヤお気に入りですね。
— 山田耕史 ファッション×歴史のnoteはじめました (@yamada0221) April 18, 2023
Björk Channels Extraterrestrial Glamour for Coachella 2023 Performance – WWD https://t.co/7g6b2LVOkv
多数のデザイナーを輩出しているイッセイミヤケ、一時は経営面で行き詰まったものの、現在は若者にも支持層を広げているヨウジヤマモトなど、DCブランドブーム時に人気を集めたデザイナーズブランドは、今も世界のファッションシーンに影響を与え続けています。
それに比べ、キャラクターブランドは2000年代に「マルイ系」として人気を博したものの、今は元気があるとは言い難い状況です。
2023年、マルイ系の現在。
— 山田耕史 ファッション×歴史のnoteはじめました (@yamada0221) April 22, 2023
僕が知る限り、最もマルイ系ブランドが集まる商業施設が、新宿のマルイメン。
ですが全8フロアのうち、マルイ系が入っているのは実質3フロアのみ。
目玉であろうテナントは8階のアニメイトで、平日昼間で、にも関わらずレジに待ち列。
マルイ系には客はほぼゼロでした。 https://t.co/94WqpX03Xx pic.twitter.com/7qtJKuukpo
この差が生まれた原因は、何だったんでしょうか。
DCブランドブームについては、今後も更に研究を深めていくつもりなので、その答えは今は出さないでおこうと思います。
実は格好良いDCブランドファッション
さて、今回初めて「山田耕史のファッションノート」でDCブランドブームについて書きましたが、僕の手元にある当時のファッション誌を見ていると、ただ新鮮なだけではなく、単純に格好良いと思えるファッションも少なくないことに気が付きました。
例えば、こういうの。
このような、語り継がれていない、素敵なファッションを見つけてご紹介するのが当ブログの大きな目標なので、今後もご期待いただければと思います。