目次
- 「詐欺師」トミー・ヒルフィガー
- 星条旗を巡るラルフとトミーの戦い
- トミー・ヒルフィガーとヒップホップカルチャー
- トミーに追随するラルフ
- カルチャーに大きな影響を与えた「スタジアムコレクション」
- ラルフ・ローレンに身を包んだストリートギャンググループ「LO LIFE」
- イギリスの伝統文化から生まれたデザインがニューヨークのワルたちの琴線に触れた
- ラルフ・ローレンとヒップホップを結び付けた「LO LIFE」
- ラルフ・ローレンとスケートカルチャー
- 1997年「Boon」に見るラルフ・ローレン
- ラルフVSトミーの「ジーンズ戦争」
- 90年代の日本のストリートシーンでラルフ・ローレンはどう着られたか?
- ラルフ・ローレンがカルチャーシーンで愛され続ける理由
前々回の“ファッションアーカイブ”の記事では、ラルフ・ローレンが世界トップクラスの売上を誇るアパレルブランドであり、その道のマニアにも愛される理由を、クリエーション面から分析しました。
今回は、ストリートやカルチャーからの視点からラルフ・ローレンの分析をしてみます。
「詐欺師」トミー・ヒルフィガー
ラルフ・ローレンを象徴するモチーフのひとつが、アメリカの国旗である星条旗。
多くのラルフ・ローレンの広告で星条旗が印象的なモチーフとなっています。
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ラルフ・ローレン以外にも、アメリカ合衆国の国旗である星条旗をモチーフにするブランドがあります。トミー・ヒルフィガーです。
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トミー・ヒルフィガーがファッションの仕事を始めたのは、ラルフ・ローレンより2年後の1969年。
トラディショナルなアイテムであるネクタイが祖業だったラルフ・ローレンとは対象的に、ふたりの友人と共にニューヨーク州エルマイラでベルボトムジーンズの専門店を開きました。数年間は繁盛しますが、1977年に倒産。
その後マンハッタンに移り、フリーランスのデザイナーとして活動しているときに、インド生まれのアパレルメーカー経営者、モハン・ムルジャニに見出され、トミー・ヒルフィガーブランドをスタートさせます。
1985年にニューヨークのタイムズ・スクエアに出されたこのトミー・ヒルフィガーの広告が、物議を醸します。
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アメリカの偉大な4人のメンズデザイナー。
イニシャルだけの表記になっていますが、その4人は誰からも一目瞭然。
ラルフ・ローレン
ペリー・エリス
カルバン・クライン
そしてトミー・ヒルフィガー。
2000年に発売された、「ファッションデザイナー―食うか食われるか」という書籍では、この広告に対する当時のファッション業界の反応が記されています。
ファッション通はあっけにとられた。 こんな大言壮語は品がない、だいたい真っ赤な嘘ではないか。セヴンスアヴェニューでなんの経験も積んでいないヒルフィガーは、どう見ても詐欺師だった。「スタイルも縫製もすばらしい製品を出しているかもしれないが、クリエイティヴなデザイナーだと言わんばかりの宣伝には閉口する」とジャック・ハイドは鼻を鳴らす。長年 メンズのファッションライターとして、またニューヨークのファッション工科大学の教授として活躍している人物だ。
ですが、「詐欺」呼ばわりされたこの広告で、トミー・ヒルフィガーは知名度を飛躍的に高めました。
馬車を馬の前につける式のヒルフィガーの本末転倒な宣伝が、人目をひく独創的なアプローチだったことは否定できない。おまけに効果的でもあった。しばしば「ヒルフィンガ ー」と言いまちがえながらも、客はこの新しいデザイナーに興味を示しはじめた。彼のカジュアルウェアは見栄えがしたし、それほど高価くなかったからだ。ファッション業界の名文家、 ポール・キャヴァコは90年にこう書いている。「顧客にとってトミーはクラシックなのだ。…認めたくはないが、例の広告キャンペーンはやはりみごとだった」
ヒルフィガーはファッションのメジャーリーグに広告というポールを使って棒高跳びで飛び込んだ。この汚名を挽回することはできないだろうと思われた。あからさまなローレンのコピーとして、ファッション界最大の詐欺師という緋文字の烙印をおされたのだから。この初期の時代、セヴンスアヴェニューではヒルフィガーはモンキーズになぞらえられたものだ。60年代に人気の連続テレビ番組に出演していたが、明らかにビートルズをまねて寄せ集めでつくられたロックグループである。ヒルフィガーの人気が高まるにつれて、ファッション通はいよいよ冷たくあしらった。多くの売れないデザイナーがやる気を失ったとしてもむりはない。なにしろ、たくみな販売戦略と豊富な資金力があれば、どこの馬の骨でもファッション界の話題をさらえるということを、ヒルフィガーは身をもって証明したのだ。
星条旗を巡るラルフとトミーの戦い
上掲「ファッションデザイナー―食うか食われるか」では、それぞれのブランドのシンボルとも言える星条旗を巡るラルフ・ローレンとトミー・ヒルフィガーの壮絶な戦いが描かれています。
98年7月、ラルフ・ローレンは1300万ドルをぽんと払って、アメリカ国旗の所有権を 手に入れた。
185年前につくられた巨大な星条旗を修復するため、ポロ・ラルフ・ローレン社は巨額の寄付をしたのである。この旗は、フランシス・スコット・キーがアメリカ国歌を作詞したときに、着想の源になったまさしくその旗だというのに、スミソニアン国立博物館の壁にかけられたまま、ぼろぼろにすり切れるにまかされていたのだ。 ラルフ・ローレンはこれまで、星条旗柄のセーターと<ベッツィ>のコーヒーマグを売って儲けてきたが、ペンをさらさらと走らせて署名をしたその瞬間をさかいに、アメリカに貢献した偉人の仲間入りを果たしたというわけだ。
それと同時に、これでトミー・ヒルフィガーを一歩リードできたのだから、ローレンにとっては甘美さもひとしおだったにちがいない。90年代、ヒルフィガーはローレンの最大の競争相手であり、最もヒップなデザイナーだった。しかしローレンにとってどうしても許せないのは、彼のシンボルだったアメリカ国旗をヒルフィガーに盗まれたことだ。広告いっぱいに翻るアメリカ国旗が、トミーの赤白青のロゴの意味をあまりにもあからさまに主張している。国旗柄のセーターというラルフのアイデアを盗んだという点ではギャップも同罪だが、90年代にさんざんローレンのお株を奪ってきたのはヒルフィガーである。トミーから国旗を取り戻したいとラルフは熱烈に望んでいた。そして98年、一世一代のチャンスが訪れた。1月の一般教書において、ビル・クリントン大統領は国民に広く呼びかけて、アメリカの歴史的遺産を救うために寄付をつのったのである。この演説を耳にすると、ローレンはただちに行動に移った。
7月13日、公式に寄贈をおこなうための式典が開かれた。ローレンは、得意の<パープル ラベル>のピンストライプのスーツを着て、どこから見ても政治家然としていた。国立博物館の演壇に、クリントン大統領とヒラリー・ロダム・クリントンと並んで立ち、デザイナーは国旗-彼のものとなった国旗に忠誠を誓った。そして満面に笑みを浮かべて、クリントン大統領がこうスピーチするのを聞いていた。「ほとんどのアメリカ人と言えば言いすぎかもしれませんが、ヒラリーと私を含めて、少なくとも多くのアメリカ人が、アメリカ国旗の柄の入ったすばらしいポロのセーターを持っています」
「アメリカ国旗の柄の入ったすばらしいポロのセーター」。ラルフ・ローレンを象徴するアイテムのひとつです。
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トミー・ヒルフィガーとヒップホップカルチャー
この「ファッションデザイナー―食うか食われるか」が執筆された1999年当時、トミー・ヒルフィガーは右肩上がりの成長をしており、先行するラルフ・ローレンに追いつけ追い越せの状態でした。
67年に設立されたポロ・ ラルフ・ローレン社は、99年4月決算の会計年度に17億ドルの売上をあげている。小売価格になおせば50億ドルを超える。同社の製品には、紳士服、婦人服、子供服、シーツ、タオル、家具、化粧品、陶磁器、ガラス製品、果てはデザイナー用の絵具まであって、デニムやスエードの色相のほか、白の色調は32種類もそろっている。トミー・ヒルフィガーのほうは、99年3月決算の会計年度に、やはり17億ドルの売上を計上している。小売価格では49億ドル近い。遅かれ早かれ―と言うよりもうまもなく、ヒルフィガーはポロを追い越すにちがいない。紳士服と化粧品しかあつかっていなかったのが、婦人服、家具その他の分野への多角化に着手したばかりだからである。着実に前進するヒルフィガーは、ニューヨーク証券取引所にはローレンより5年も先に上場しており、その株価はほかのアパレル株より一貫して高値を 保っている。98年を通じてひと株70ドル、ポロの2倍以上である。 ローレンはウォール街に先に参入することはできなかったが、相場の好調期には間に合った。97年の上場によって、ラルフはポロの議決権株式の90パーセントを押さえることができ、そのいっぽうで4億4000万ドルの大金を手に入れて、大富豪の仲間入りをしている。
「後攻」だったトミー・ヒルフィガーが注目したのがエンターテインメント。中でも1990年代のトミー・ヒルフィガーブランドの成長に寄与したのがヒップホップでした。
ブランドのイメージを 若々しいインパクトの強いものに刷新しようと、ヒルフィガーはラップカルチャーをターゲットに定めた。MTV世代の支持を得て、ラップ・ブームは高まりつつあったからだ。ミュージックビデオに出演するラップミュージシャンは、<プーマ>、<アディダス>、<グッチ>のようなステータス・ロゴを好んで身につけていたが、ヒルフィガーはそれによく合うラグビーシャツやトップスに自分の名前をつけて売り出した。当時はそんなデザイナーはまだめずらしかった。
トミー・ヒルフィガーはヒップホップカルチャーにいち早く着目したファッションデザイナーでした。
ヒルフィガーはたしかにラップカルチャーのパワーを理解していた。これはファッション界の有力者たちが手を出せなかった(あるいは出そうとしなかった)ジャンルだが、ラップ特有のホームボーイ・ルックがランウェイに入り込んだのは90年代初め。シャネルのカール・ラガーフェルト(ママ)が、巨大なCCのロゴの入った服やだらんとしたパンツをランウェイのモデルに着せたのである。これは魅力的ではあったが、ストリートスタイルにちょっと手を出してみたという程度のものでしかなかった。しかし、ポロを含めてほとんどのファッションハウスは、 ヒップホップ層を恐れ、あるいはどう対処すべきかよくわからなかったため、ラップカルチャーと積極的にかかわろうとはしなかった。これは地図のない領域だった。黒人の消費者は白人の主流に追随するというのが確立した図式であり、逆に黒人の若者が白人の消費者をリードするという現象はファッション界の理解を超えていたからである。
トラヴィス・スコットやエイサップ・ロッキーなどの黒人ヒップホップミュージシャンがファッショントレンドを牽引している2023年現在からはなかなか想像ができませんが、1990年代は、黒人のファッションが白人をリードするなど、考えられない状況だったということです。
多くの企業が黒人のカルチャーが消費を牽引することを認めようとしない時代でもありました。
Wu-Tang Clanや2Pac、Nasなどの大物ミュージシャンが愛用し、今やヒップホップカルチャーを代表するシューズと言える、ティンバーランドのイエローブーツ。
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1990年代前半にヒップホップ人気の高まりを受け、ティンバーランドは大きく売上を伸ばしたが、当時のティンバーランド社はその人気には迎合しないと力説していました。
しかし、トミー・ヒルフィガーはちがう見かたをしていた。カラフルでロゴ入りのヒルフィガーの服をラッパーが買うようになったとき、アメリカの若年層にさらに食い込むチャンスと考えたのだ。黒人白人を問わず、若者はみなヒップホップミュージックが好きだし、ヒルフィガーにはそれは当然のことに思えた。彼はもとからポップミュージックのファンだった。
そのころ、弟のアンディ・ヒルフィガーはヒップホップの世界にどっぷりつかっていた。イーストハーレムのアパートに住み、 ロックバンドやミュージックビデオの照明係をしていたのだ。スタジオに行くときは、いつも兄のポロシャツを詰め込んだ袋と、<トミー・ ヒルフィガー > のロゴ入りのダッフルバッグを持ってゆき、コンサート・プロモーターやラップスターに配っていた。このころにはすでに、ヒルフィガーの赤白青のジャンプスーツを着てステージにあがる、L・L・クール・Jの姿が見られていた。このスーツは、もともとロータスのF1チ ーム用にデザインされたものだ。これという人物に服をばらまけば、将来きっと見返りがあるとアンディは見抜いていた。「トミーの服をステージで着てくれと頼んだりはしなかった。でも服を配っていれば、いつかかならずだれかが人目につくところで着てくれるものだからね」
トミーがラップカルチャーに受け入れられる瞬間がついに訪れたのは、94年のある土曜日の夜のことだった。その少し前、アンディはマクロウ・ホテルに立ち寄って、ラッパーのスヌープ・ドッグに何枚かシャツを渡していた。抜け目のない手だ。その夜スヌープは、正面に ”トミー”、背中に”ヒルフィガー”と書かれたストライプのラグビーシャツを着て、『サタデーナイトライヴ』に出演している。
翌週、ヒルフィガーのショールームでは電話が鳴りっぱなしだった。小売店やスタイリストや買物客が立て続けに電話をかけてきて、あのラグビーシャツが欲しいと騒ぎたてる。
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さらに、 『グランド・プーバ2000』と題するヒットCDでは、黒のランボルギーニに寄り掛かるグランド・プーバの写真がカバーに使われたが、写真のプーバはトミーの白いTシャツにトミーの濃緑のジャケットを合わせていた。ヒルフィガーがラッパーや都市の若者の支持を集めはじ めると、黒人の若者のように”しぶく"決めたいというわけで、郊外の白人の若者も追随する ようになった。
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ヒップホップのスター、クーリオは、ヒルフィガーのファッションショーでモデルを務め、 フィナーレにはトミーと並んでステージに立った。客席の多くのファッションエディターは首をふったが、エルマイラ出身の白人デザイナーは、名誉ホームボーイの称号を得て満面に笑みを浮かべていた。
ラップグループのモブ・ディープは称賛をこめてこう歌っている。「トミー・ヒルはおれのダチ/だれにもわかりっこない/おれとヒルフィガーはバリバリにやってきたんだ」。トミーは有頂天だった。「ぞくぞくしたよ。『おれのダチ』と呼んでくれたんだからね」とプレイボ ーイ誌に語っている。
ティンバーランドの重役たちとちがって、 トミー・ ヒルフィガー社の幹部はラップ層の抱き込みをためらわなかった。「こんなに広範で多様な層にアピールできるのは誇れることだ」とホロウィッツは言う。「いままでこんなことをなしとげた者はほかにいないんじゃないかな。 これはトミーに対する真の賛辞だし、彼が自分の立場を尊重し、それを生かしてきたおかげだと思う」。ヒルフィガーはただの“スラム街”ブランドだと馬鹿にする白人に関しては、ホロウィッツは平然としている。「ああいう連中に何と思われようと痛くもかゆくもないね」
尊大な白人の知らないうちに、ヒルフィガーは着々と塁を埋め、ついには満塁にしていた。 とくにニューヨークの白人層はヒルフィガーを理解できなかった。かれらにわかっていたのは、 黒人のバイク・メッセンジャーや地下鉄の乱暴者が、制服のようにそのロゴを着けていること ぐらいだった。しかし、ヒルフィガーをたんなるロゴと思ったらとんでもない話だ。97年、多くの百貨店でいちばん売れたデザイナードレスシャツはヒルフィガーだった。ディラーズ、 バーディンズ、パリジャン、メイシーズで最もよく売れたスーツは、トミーの400ドルのスーツである。
トミー・ヒルフィガーはこの後も、ヒップホップをはじめとしたミュージシャンを積極的に広告に起用。
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F1にもスポンサードするなど、エンターテインメントとのコラボレーションを積極的に行います。
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トミーに追随するラルフ
トミー・ヒルフィガーがヒップホップカルチャーと結び付いて快進撃を続ける状況を、ラルフ・ローレンが指を咥えて眺めていた訳ではありません。
95年以降、ヒルフィガーは立場逆転をおもしろがって眺めていた。ファッションのすぐれた表現者であるローレンが、かつて自分を模倣していた者を模倣しはじめたのだ。ポロはエリート主義的な態度をやわらげて、紳士・婦人服の新しいコレクションを手ごろな値段で ローレンの中心商品であるポロシャツの値段はたえず下がりつづけ、最初の55ドルから49ドルまでになっていた。ちなみにヒルフィガーのポロシャツは44ドルである。 <ポロスポーツ>はずっと低迷していたが、95年にローレンはヒップホップに関する絶対音感を披露してみせた。 エキゾチックなアフリカ系アメリカ人のモデル、タイソン・ベックフォードをポスターのモデルに起用したのだ。この専属契約に、ローレン社は年に100万ドル を払っていると言われている。
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この作戦は数々の記事で称賛されたが、トミーは鼻を鳴らしてこう指摘した-自分はラルフより何年も前にタイソンをランウェイに乗せている。 最初のうちはヒップホップ・プームを無視していて、広告にもほとんど黒人を使ってこなかったではないか。いずれにしても、<ポロ・スポーツ>の下着のパッケージから、裸のタイソンの黒い上半身が目に飛び込んでくるようになって、このブランドに対するストリートの評価は急上昇と匹敵するほどに高まった。
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ですが、ラルフ・ローレン自身はラルフ・ローレンブランドのこういった動きはトミー・ヒルフィガーとは関係がなく、「健康やフィットネスへの関心の高まり」の影響を受けたものだと説明しています。
ローレンの説明によれば、90年代後半に <ポロスポーツ>に急に力を入れだしたのは、ヒルフィガーともほかのだれとも関係がない。「衣服よりも、健康やフィットネスへの関心が高まっているのを感じたからだ。なにしろぼく自身がそうなんだ。 もう何年も前からジョギングやサイクリングをしてるしね。<ポロ・スポーツ>は、老若に関係なくそんな未来の消費者のためのコレクションなんだ」
つまり、ラルフ・ローレンはマーケットの状況やファッショントレンドとは関係なく、あくまでもラルフ・ローレン自身が発信するファッションを提案し続けてきた、ということです。
前回の記事でご紹介した「ELLE HOMME」1992年5月号のインタビューの最後は、ラルフ・ローレンの自信に満ちたこんな言葉で締めくくられています。
この25年、私は正直にルールを曲げず、信ずるとおりの道を歩いてきた。
カルチャーに大きな影響を与えた「スタジアムコレクション」
ここからは、1990年代にラルフ・ローレンがどのようにしてストリートカルチャーと結び付いていったのかを紐解いていきます。
最初の参考資料が、「ELLE HOMME」1992年5月号です。
前回の記事でご紹介したラルフ・ローレン特集の中の、1992年の最新作を紹介するページです。
コレクションごとに紹介されています。まず、スーツを主体とした「クロージングコレクション」。
カジュアルなリゾートウェアである「オールドハンプトンコレクション」。
バッグ類の「ラゲッジコレクション」。
ルームウェアやタオル、クッションなどの「ホームコレクション」。
そして、ページが前後しますが今回の記事の大きなトピックとしてピックアップするのがこちらの「スタジアムコレクション」です。
誌面の説明文には「ラルフ・ローレンのスポーツ・コレクションのテーマは、オリンピックから発想された“STADIUM”。クラシカルで格調高い気品と、アクティブ・スポーツウェアに求められる機能と着心地のよさを兼ね揃えている」とあります。
原色を使った大胆な切り替えと、ゼッケンのような「1992」のプリント、P-Wingと呼ばれるロゴなど、派手でキャッチーなデザインが特徴のコレクションです。
こちらは2017年に復刻版が発売された時の記事です。
「ポロ スタジアム コレクション」とは、バルセロナオリンピックが開催された1992年に、ラルフ ローレンが1920〜1930年代のアメリカのスポーツ選手が着用したユニフォームからインスピレーションを得て発表した伝説のコレクションだ。
このコレクションはファッション界だけに止まらず、ミュージシャンなどカルチャーシーンにも大きな影響を与え、いまではアメカジファン垂涎のアイテムとして古着市場において高値で取引されている。
こちらの記事でも、「ラルフローレンの歴史の中で、もっともカルチャーシーンに大きな影響を与えたコレクションの1つになる」と紹介されています。
ラルフ・ローレンに身を包んだストリートギャンググループ「LO LIFE」
ラルフ・ローレンとカルチャーの橋渡し役となったのが、1990年代にニューヨークで活躍?した非行集団「LO LIFE」でした。
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1988年、今とは違い世界有数の暗黒街だったニューヨーク・ブルックリンのストリートから、ラルフ ローレンに身を包んだストリートギャンググループ「LO LIFE」(ローライフ)が誕生した。彼らが着ていたラルフ ローレンはブートレグではなく本物だった。でもそれらは、正規で買ったものではなく、仲間で徒党を組んで命懸けで盗んだものだった。彼らは盗品のラルフ ローレンをヒップホップの文脈で着こなしたのだ。
服はオーバーサイズで、足元はアディダスやナイキのスニーカーかティンバーランドのブーツ。彼らはヒップホップの音楽の世界ともDNAレベルで深く交わっていたから、90年代初頭にはヒップホップなラルフ ローレンは、音楽の隆盛と相まって無視できない勢力に拡大していく。デザイナーの意図とは異なるところで、白人の上流社会のための服が黒人のストリート社会のための服になったのだ。
こちらは2017年にロンドンのカルチャーマガジン、「DAZED & CONFUSED」が公開した「LO LIFE」のショートムービーです。1990年代当時の「LO LIFE」の映像が盛り沢山の内容になっています。
「LO LIFE」のオリジナルメンバーであるラック・ローは、「LO LIFE」の成り立ちとその活動をインタビューでこう語っています。
LO LIFEがスタートしたのは1988年、NYのブルックリンでのことなんだ。ブラウンズヴィルを拠点にするマーカス・ガーヴェイと、クラウンハイツを拠点にするSJP、ふたつの異なるポロブランドを着こなすクルーが一緒になって、ひとつの力になった。そこから、ファッションと共にNYのHip Hopシーンでサバイブし始めた。それが、いまでは世界中に広がっているのさ。
ブルックリンで生まれ育って、当時は景気も良くなかったから勿論金なんて無かった。両親も大学に行っていないし、大した仕事をしている訳ではなかった。だから俺たちは、ファッションにも自分たちなりのやり方で近づいていくしかなかった。どうにかして手にいれるしかなかったんだ。「MACY’S」や「Bloomingdale」、「Saks Fifth Avenue」とか、全てのメジャーなデパートでポロは取り扱われていたから、そこで手に入れてブルックリンに持って帰っていたんだ。そういうアイテムをフレッシュに着こなして、たくさんのカラーを取り入れることで、皆が俺たちに注目するようになって来たんだ。その注目がどんどん大きくなっていまに至っている。だから、活動っていうよりかはサバイブして来たっていう感じだね。
イギリスの伝統文化から生まれたデザインがニューヨークのワルたちの琴線に触れた
ラルフ・ローレンの魅力について問われたラック・ローはこう答えています。
何故かって? 見た目だよ。その明るいカラーリングがストリートでとても際立っていたからね。ハッキリとした配色のカラーリングで全身を包んで、NY中を練り歩くことでそのスタイルを俺たちは確立させたんだ。いまじゃ子供からお祖父さんお祖母さんまで、みながこのブランドを全身着ているけど、LO LIFEが現れるまで、頭からつま先まで揃えたファッションの奴なんてどこにもいなかったんだよ。
www.houyhnhnm.jp上掲の「ELLE HOMME」にも記されている通り、「スタジアムコレクション」のキャッチーなデザインは、ラグビーやクリケットといったイギリスの伝統的なスポーツがソースとなっています。
クリケットもラグビーも、イギリスの上流階級が愛した由緒正しきスポーツ。
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イギリスの上流階級のオーセンティックなスタイルを好んだラルフ・ローレンらしいコレクションですが、イギリスの伝統文化から生まれたデザインが、ニューヨークブルックリンのワルたちの琴線に触れたのです。
ラルフ・ローレンとヒップホップを結び付けた「LO LIFE」
英語版のウィキペディアの「LO LIFE」のページには以下のように記されています。
現代のヒップホップファッションにおけるラルフ・ローレンの役割は、ローライフに起因している。1994年、ローライフカルチャーにインスパイアされたレイクウォンは、ウータン・クランの「Can It All Be So Simple」のビデオで、フロントに「SNOW BEACH」と書かれたラルフ・ローレンのウィンドブレーカーを着用した。このウィンドブレーカーはヒップホップ・カルチャーの象徴的な一部となり、特にクリス・ブラウンは2012年の『The Today Show』でトリビュート・バージョンを着用した。
批評家のジョン・カラマニカは『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿し、ヒップホップとファッションの関係をより強固なものにしたのはロー・ライフスだと評価した。そのどれもが、ロー・ライフの青写真なしには不可能だっただろう」。
記事で触れられているWu-Tang Clanの「Can It All Be So Simple」のビデオがこちら。
「SNOW BEACH」のナイロンブルゾンが非常に目立っています。
「スノーボーディング」と題され1993年に発表されたラルフ・ローレンのコレクションアイテムです。
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「スノービーチ」は2018年に復刻されています。
日本では抽選販売、アメリカでの発売時は長蛇の列ができました。
https://hypebeast.com/jp/2018/1/polo-ralph-lauren-snow-beach-nyc-launch-recap
そして、発足から四半世紀が経った今でも、「LO LIFE」の影響力は衰えていないようです。
2017年に米「WWD」が調査した結果、米国の若者の多くがローライフのスタイルから「ラルフ」に注目するようになったことが分かった。
「LO LIFE」の影響力は、ラルフ・ローレンブランド自体も動かすほど強大なものになります。
当初はサブカルチャーや古着の人気に目を向けていなかった「ラルフ」だが、次第にクラシックピースの再販や、古着コレクターに商品の発売を知らせるアプリを開発するなど力を入れるようになり、今回の「パレス」とのコラボへと発展したようだ。
ラルフ・ローレンとスケートカルチャー
東海岸のニューヨークから所変わって、西海岸のロサンゼルスでラルフ・ローレンはスケートカルチャーの文脈とも交わるようになります。
名門スケートカンパニーのWORLD INDUSTRIESから1995年にリリースされた名作ビデオ『20 Shot Sequence』では、ロサンゼルスのスケーター集団MENACEのパートが人気となり、登場するスケーターたちを真似てPoloやNAUTICAなどを着るスケーターが溢れかえった。
https://gs.abc-mart.net/story/10196/
こちらがその動画。
MENACEのビジュアルでは「POLO1992」のロゴTシャツが着用されているのがはっきりとわかります。
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1990年代に、スケーターにも愛されるブランドになったラルフ・ローレン。そんなラルフ・ローレンが、近年またスケーターに再注目されているという記事があったのですが、残念ながら配信元のサービス停止により、現在は記事が読めなくなってしまっています。
これは良い記事。
— 山田耕史 ファッションアーカイブ研究 (@yamada0221) 2021年7月20日
「ラルフがまた一周したんです」。古着のプロが今ラルフローレンに注目する理由とは? | FACY https://t.co/qBs1TUNwKQ
幸い、僕のブログの過去記事に記事の要点を引用しているので、そこから孫引きします。
アメリカの若いスケーターの連中がポニーマーク入りのベタなラルフを着ているのを最近インスタで見かけて、ちょっと衝撃を受けました。「あ、また一周したんだな」って。
そもそも、90年代中頃はヒップホップ的な流行があって、普通の〈ポロラルフローレン〉や〈ポロスポーツ〉を着ることが当時のメインストリームだったはずなんですよ。そんな中、世界的なファッションカルチャーの発信地であるニューヨークのスケーター連中は、あえてローカルショップオリジナルの〈シュプリーム〉を着ていたわけです。ラルフなんて着ねーよっていう奴ら(笑)。ところが、〈シュプリーム〉もグローバルな存在になってマスに広がった今、現地のファッション感度の高い若者がまたラルフのほうを選び出しているのがおもしろいなーと。
みんなが気にするようになって久しいあのボックスロゴ以上に、今はラルフのこのポニーマークがロゴとして気になるんですよ。
ラルフ・ローレンは現在、東京オリンピックのスケートボード金メダリスト、四十住さくらさんをスポンサードするなど、スケートもブランドカルチャーに取り入れるようになっています。
1997年「Boon」に見るラルフ・ローレン
こうやって、ヒップホップやスケートなど様々なカルチャーを取り入れるようになったラルフ・ローレン。
最後にご紹介するのが、「Boon」1997年1月号です。
この号の特集が、「ALL ABOUT ラルフローレン」。
ラルフ・ローレンが1990年代の日本のストリートファッションにおいて、どういった立ち位置だったのかが伺える資料です。
「Boon」の文章は結構煽りが効いているのが特徴。ということで、「アパレル界の王道を行くラルフがストリートの頂点に立った」なんて表現も、「当時はそうだったのか!」と、そのまま受け取るのではなく、ちょっと大袈裟かな、くらいにしておいたほうが良いと思います。
「4大ラルフが王政復古」。この「王政復古」も、インパクト重視の表現だと思います。だって、王政復古って意味がわからないですもんね笑。
まぁそれは置いておいて、「ポロ・ラルフローレン」「ポロスポーツ」「ダブルRL」「ポロジーンズ」が97年当時の人気ブランドだったということは事実でしょう。
前回の記事の主題が、ラルフ・ローレンはライフスタイルをデザインした初めてのデザイナーだった、ということ
この「Boon」の「ALL ABOUT ラルフローレン」特集でも、その半生の紹介の中で、「ラルフ・ローレンの世界は、ライフスタイルそのものをデザインした“魔法の王国”だった」という部分に大きくフォーカスが当てられています。
ブランドの紹介。トップバッターは「ラルフのテイストを象徴する代名詞」である、ポロ・ラルフローレン。
「ポロbyラルフのタグが変わる?」ということで、1997年当時はポロ・ラルフローレンのタグが変わるちょうど端境期だったようです。
右下には「幻のポロ・ハイテックを確認」「はたして他にもウエアがあったのか?」とあります。
ポロ・ハイテックも2018年に復刻版が発売されています。
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続いて、ポロスポーツ。
「HIP HOP系がこよなく愛するポロスポーツはアウター狙い」ということで、フリースジャケットやナイロンジャケットなどのアウター類がピックアップされています。
モデルの足元はプーマのディスクXTG。ハイテクスニーカーブームの一翼を担ったモデルです。
お次は「ヴィンテージ感を現代に再生するダブルRL」。
「RRL VS 古着」と題されています。当時は「本誌独自のLA取材でのポロ側の回答は「NO」だったが、一節にはジーンズ以外は縮小の可能性が高いらしい」という状況だった模様。
「古着で見つかれば値打ちモノ!?絶版『RL2000』」。「’93年頃にポロスポーツのラインの1つだったのがRL2000」「主にサイクリング系nアイテムがラインナップされ、いまでもヘアバンド等の小物は見つかるけどウエアになるとほとんど根絶」とのこと。このRL2000ラインはスノービーチやハイテックとは違い、復刻はされていないようです。
「ラルフトピックス」と題された、最新情報ページ。
この時代ならではのインターネット通販開始のニュース。
ポロスポーツで自転車のサイクルジャージが発売。
ラルフVSトミーの「ジーンズ戦争」
「今秋スタートしたポロジーンズ、ポロスケートを誌上大公開!」。
ポロスケートというラインがあったことは、ここで初めて知りました。
ポロジーンズのアイテムの数々。
上掲「ファッションデザイナー」に、ポロジーンズのブランドデビュー時のトミー・ヒルフィガーとの攻防について詳しく記されています。
96年秋、ラルフとトミーは派手な接戦をくりひろげることになった。どちらも新たなジーンズ・コレクションを発表して、その広告に2000万ドルもの大金を投入することにしていたからだ。<ポロ・ジーンズ>を打ち出したとき、ラルフの頭にあったのはトミーを出し抜くことばかりではなかった。 ジーンズではこれまで二度も失敗しているだけに、今度こそ世間をあっと言わせたかった。いまだにジーンズをものにできないとは、ローレンにとってはがまんならないことだ。文字どおり年がら年じゅうジーンズをはいているし、得意の南西部ふうカントリールックでは、ジーンズは昔からロマンティックなイメージに欠かすことのできない小道具だ。
ローレンが、初めてジーンズのライセンス事業に乗り出したのは78年のこと。ブランドは<ポロ・ウェスタンウェア>、ライセンシーはギャップだった。このころはリーバイスがよく売れていたため、ギャップの300の店舗では魅力あるデザイナー商品を求めていた。いっぽう ローレンのほうは、ラングラーやリーなどのジーンズに代わるデザイナー商品として、ウェスタンウェア市場に食い込みたいと望んでいた。しかし、ポロ・ウェスタンウェアはじゅうぶん な顧客をつかまえるのに失敗した。 理由は主としてサイズにあった。 ラルフのデザインするジ ーンズはぴったりしていて、細身のモデルが着るとじつにさまになったが、ふつうの男女にはきつすぎた。
ポロ・ウェスタンウェアの初年度売上はたった1200万ドルで、ギャップがこの事業から撤退すると、早々にお蔵入りになってしまった。
それから十年近くたって、ローレンは再度ジーンズ市場に飛び込み、所有する牧場名にちなんで<ダブルRL> と名づけたジーンズを売り出した。今回ローレンの描いた顧客像は、古ぼけたジーンズをはいて放浪する高級ボヘミアンである。そこで、<ダブルRL>のジーンズは トレーラー店舗で販売されることになった。100万ドルを投入したピータービルトの特注トレーラートラックには、疾走する馬群の絵が描かれていた。93年9月22日、ニューヨーク大学やウェスリアン大学などのキャンパスに、このデザイナートラックがやって来た。なかをのぞいた学生たちは、その常識はずれの値段に腰を抜かした。色あせたフランネルのシャツが150ドル、褪色仕上げのジーンズが70ドル。古着屋に行けば、似たような服を三分の一の値段で売っているのに。数ヵ月後、<ダブルRL>はトラック販売を中止した。
しかし、<ポロ・ジーンズ>はまさしく三度目の正直だった。48ドルというジーンズとし てはまずまずの値段で、ローレンのお気に入りのアメリカ国旗のシンボルが目立っていた。そ の星条旗には今回、トミーにはまねのできない個人的なひねりが加えてあった。ポロ・ジーンズの小さな国旗のしるしでは、星の代わりに白いRLのイニシャルが入っていたのだ。ポロ・ ジーンズを着けたタイソンの広告には、背景にベージュと赤のストライプの旗が使われていて、 ジャスパー・ジョーンズの描く有名な国旗の絵を思わせた。
数週間後、<トミー・ジーンズ>が発表された。ヒップホップのステージで好まれる数々の バギースタイルが特長で、大型車で売り歩くというどこかで聞いたような戦術が使われていた。 この<トミー・ジーンズ> ツアーバスは、巨大なヒルフィガーの広告塔となって12を超す都 市をまわり、インストアのファッションショーやパーティを開き、無料でジーンズやCDやギターをファンにばらまいていった。しかも、アンディ・ヒルフィガーのほか、有名人の子供たちをお供に従えていた。 クィンシー・ジョーンズの娘のキダダ、ゴールディ・ホーンの娘のケ イト・ハドスン、スティーヴン・セガールの息子の剣太郎・セガールである。「デンヴァーに着いたときは、すごい数の人が集まっていた」アンディは回想する。「アトランタやダラスに 行ったときの映像を、みんなCNNで見てたんだ」
このジーンズ戦争で、両デザイナーとも初年度売上が一億ドルを超すというみごとな成果をあげた。しかし、売行きと話題性では<トミー・ジーンズ>が<ポロ・ジーンズ>を上まわり、 ジーンズ戦争の第一ラウンドを制したというのが小売業者の一致した見解である。
90年代の日本のストリートシーンでラルフ・ローレンはどう着られたか?
特集最後のページは「東西カリスマSHOP6つの視点」。
「東京都大阪でストリートファッションをリードするセレクトショップ6店の個性的なアイテム選びに着目し、ストリートでの人気の秘密を解明するぞ」ということで、ラルフ・ローレンの各ブランドを買い付けているセレクトショップがプッシュしているアイテムを紹介しています。
セクスペリエンスというショップは見覚えがあるなーと思って検索してみると、当時の同店についての記事を発見しました。
当時のセレクトショップの雰囲気がよくわかる内容なので、記事にアップされている雑誌画像も併せて引用します。
セレクトショップていうと今皆さんが思い浮かべるのはB社とかU社とか
わたくしはS社に居たんで、まぁそのイメージが強いと思うんですが
90年代にはオリジナル商品なんてそっちのけでゴリゴリに買い付け並行輸入、日本未発売品で固めた店が多くあって
僕の勝手な想像だと各地方都市にもあったと思うんですよ。そういう店。2000年入ったぐらいから淘汰されて全然見なくなっちゃったんですよねー
でも僕の高校時代のファッションとかはそういう店から多くを学んだ訳で、、原宿、裏原宿、まだAPEとアンダーカバーが一緒にお店やってた頃ですね
「セクスペリエンス」って店があったんす。
そこにホント良く行ってまして、あの頃はまだまともにバナリパとかオールドネイビーとかは全然上陸してなくて
並行輸入品で埋め尽くされている店って多かったんです。入りずらい店は多かったけどw
初期のヘックとかもオリジナルはTシャツぐらいで、並行のナイキとかラルフだけで商品構成されてましたもん。
肉屋みたいなシルバーの什器に服がどさっと置いてあって、スニーカーとかずらっと並べただけみたいな。そういう店でお宝探し的に色々見て、中には完全に日本未上陸なブランドもあったりして
個人的に記憶に残っているのがセクスペリエンスで買ったX-girlのメンズサイズのロンT。
定番のあのロゴがピンクとシルバーのラメでプリントされてて、可愛いのにサイズがデカいというw
ラルフとかGAPとかに混ざってティファニーのアクセとかもさりげなく置いてたりしてね
ほんとイイ感じだったんす。ゴリゴリのグロープとかスティルディギンよりはセクスペリエンスとかネバーランドに行ってましたねー
↑の記事でも触れられている、スティルディギンも「東西カリスマSHOP」に挙げられています。
このページでは、「渋谷B-BOY系崇拝店」のスティルディギン、「買いつけは、ほとんどNYというHIP HOP系ショップ」のREDなど、ヒップホップにまつわる表現が数多くあり、当時の日本のストリートでは、ラルフ・ローレンはヒップホップ系が好んで着用するブランドだったことが伺えます。
つまり、1997年の時点でラルフ・ローレンとヒップホップカルチャーの結び付きは既に強固なものになっていたということです。
ラルフ・ローレンがカルチャーシーンで愛され続ける理由
今回見てきたように、ラルフ・ローレンはヒップホップやスケートといったカルチャーシーンで着用されてきたから、そのカルチャーを愛する人に支持され続けていることがわかりました。
では、何故ラルフ・ローレンは多種多様なカルチャーシーンで着用されるのでしょうか?
その理由は、第一章でご紹介した通り、ラルフ・ローレンがブランドの世界観をつくり、守るために圧倒的にこだわり続けているからでしょう。
1990年代、トミー・ヒルフィガーが支持された大きな理由のそのスポーティでポップなデザイン。特に大胆でポップな配色と目立つロゴは、ヒップホップシーンで強い支持を受けました。
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これは僕の推測ですが、「スタジアムコレクション」や「スノービーチコレクション」など、それまでのラルフ・ローレンのコレクションとは一線を画す1990年代のポップなデザインは、ヒップホップシーンで支持されていたトミー・ヒルフィガーのデザインに触発されたものだったのではないでしょうか。
そう考えると、現在ラルフ・ローレンがヒップホップなど様々なカルチャーシーンで支持されているのは、トミー・ヒルフィガーが現れ、驚異的なライバルになってくれたおかげと言えそうです。
ビジネスの競争が結果としてカルチャーとの結び付きを生んだという、ファッション史上でも珍しい出来事ではないでしょうか。