山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

ラルフ・ローレン“徹底解剖”第二章 カルチャー編。トミー・ヒルフィガーとの激闘の末に訪れたヒップホップとの邂逅。

目次

前々回の“ファッションアーカイブ”の記事では、ラルフ・ローレンが世界トップクラスの売上を誇るアパレルブランドであり、その道のマニアにも愛される理由を、クリエーション面から分析しました。

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今回は、ストリートやカルチャーからの視点からラルフ・ローレンの分析をしてみます。

 

「詐欺師」トミー・ヒルフィガー

ラルフ・ローレンを象徴するモチーフのひとつが、アメリカの国旗である星条旗

多くのラルフ・ローレンの広告で星条旗が印象的なモチーフとなっています。

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ラルフ・ローレン以外にも、アメリカ合衆国の国旗である星条旗をモチーフにするブランドがあります。トミー・ヒルフィガーです。

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トミー・ヒルフィガーがファッションの仕事を始めたのは、ラルフ・ローレンより2年後の1969年。

トラディショナルなアイテムであるネクタイが祖業だったラルフ・ローレンとは対象的に、ふたりの友人と共にニューヨーク州エルマイラでベルボトムジーンズの専門店を開きました。数年間は繁盛しますが、1977年に倒産。

その後マンハッタンに移り、フリーランスのデザイナーとして活動しているときに、インド生まれのアパレルメーカー経営者、モハン・ムルジャニに見出され、トミー・ヒルフィガーブランドをスタートさせます。

1985年にニューヨークのタイムズ・スクエアに出されたこのトミー・ヒルフィガーの広告が、物議を醸します。

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アメリカの偉大な4人のメンズデザイナー。

イニシャルだけの表記になっていますが、その4人は誰からも一目瞭然。

ラルフ・ローレン

ペリー・エリス

カルバン・クライン

そしてトミー・ヒルフィガー。

2000年に発売された、「ファッションデザイナー―食うか食われるか」という書籍では、この広告に対する当時のファッション業界の反応が記されています。

ファッション通はあっけにとられた。 こんな大言壮語は品がない、だいたい真っ赤な嘘ではないか。セヴンスアヴェニューでなんの経験も積んでいないヒルフィガーは、どう見ても詐欺師だった。「スタイルも縫製もすばらしい製品を出しているかもしれないが、クリエイティヴなデザイナーだと言わんばかりの宣伝には閉口する」とジャック・ハイドは鼻を鳴らす。長年 メンズのファッションライターとして、またニューヨークのファッション工科大学の教授として活躍している人物だ。

ですが、「詐欺」呼ばわりされたこの広告で、トミー・ヒルフィガーは知名度を飛躍的に高めました。

馬車を馬の前につける式のヒルフィガーの本末転倒な宣伝が、人目をひく独創的なアプローチだったことは否定できない。おまけに効果的でもあった。しばしば「ヒルフィンガ ー」と言いまちがえながらも、客はこの新しいデザイナーに興味を示しはじめた。彼のカジュアルウェアは見栄えがしたし、それほど高価くなかったからだ。ファッション業界の名文家、 ポール・キャヴァコは90年にこう書いている。「顧客にとってトミーはクラシックなのだ。…認めたくはないが、例の広告キャンペーンはやはりみごとだった

ヒルフィガーはファッションのメジャーリーグに広告というポールを使って棒高跳びで飛び込んだ。この汚名を挽回することはできないだろうと思われた。あからさまなローレンのコピーとして、ファッション界最大の詐欺師という緋文字の烙印をおされたのだから。この初期の時代、セヴンスアヴェニューではヒルフィガーはモンキーズになぞらえられたものだ。60年代に人気の連続テレビ番組に出演していたが、明らかにビートルズをまねて寄せ集めでつくられたロックグループである。ヒルフィガーの人気が高まるにつれて、ファッション通はいよいよ冷たくあしらった。多くの売れないデザイナーがやる気を失ったとしてもむりはない。なにしろ、たくみな販売戦略と豊富な資金力があれば、どこの馬の骨でもファッション界の話題をさらえるということを、ヒルフィガーは身をもって証明したのだ。

 

星条旗を巡るラルフとトミーの戦い

上掲「ファッションデザイナー―食うか食われるか」では、それぞれのブランドのシンボルとも言える星条旗を巡るラルフ・ローレンとトミー・ヒルフィガーの壮絶な戦いが描かれています。

98年7月、ラルフ・ローレンは1300万ドルをぽんと払って、アメリカ国旗の所有権を 手に入れた。

185年前につくられた巨大な星条旗を修復するため、ポロ・ラルフ・ローレン社は巨額の寄付をしたのである。この旗は、フランシス・スコット・キーがアメリカ国歌を作詞したときに、着想の源になったまさしくその旗だというのに、スミソニアン国立博物館の壁にかけられたまま、ぼろぼろにすり切れるにまかされていたのだ。 ラルフ・ローレンはこれまで、星条旗柄のセーターと<ベッツィ>のコーヒーマグを売って儲けてきたが、ペンをさらさらと走らせて署名をしたその瞬間をさかいに、アメリカに貢献した偉人の仲間入りを果たしたというわけだ。

それと同時に、これでトミー・ヒルフィガーを一歩リードできたのだから、ローレンにとっては甘美さもひとしおだったにちがいない。90年代、ヒルフィガーはローレンの最大の競争相手であり、最もヒップなデザイナーだった。しかしローレンにとってどうしても許せないのは、彼のシンボルだったアメリカ国旗をヒルフィガーに盗まれたことだ。広告いっぱいに翻るアメリカ国旗が、トミーの赤白青のロゴの意味をあまりにもあからさまに主張している。国旗柄のセーターというラルフのアイデアを盗んだという点ではギャップも同罪だが、90年代にさんざんローレンのお株を奪ってきたのはヒルフィガーである。トミーから国旗を取り戻したいとラルフは熱烈に望んでいた。そして98年、一世一代のチャンスが訪れた。1月の一般教書において、ビル・クリントン大統領は国民に広く呼びかけて、アメリカの歴史的遺産を救うために寄付をつのったのである。この演説を耳にすると、ローレンはただちに行動に移った。

7月13日、公式に寄贈をおこなうための式典が開かれた。ローレンは、得意の<パープル ラベル>のピンストライプのスーツを着て、どこから見ても政治家然としていた。国立博物館の演壇に、クリントン大統領とヒラリー・ロダム・クリントンと並んで立ち、デザイナーは国旗-彼のものとなった国旗に忠誠を誓った。そして満面に笑みを浮かべて、クリントン大統領がこうスピーチするのを聞いていた。「ほとんどのアメリカ人と言えば言いすぎかもしれませんが、ヒラリーと私を含めて、少なくとも多くのアメリカ人が、アメリカ国旗の柄の入ったすばらしいポロのセーターを持っています

「アメリカ国旗の柄の入ったすばらしいポロのセーター」。ラルフ・ローレンを象徴するアイテムのひとつです。

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トミー・ヒルフィガーとヒップホップカルチャー

この「ファッションデザイナー―食うか食われるか」が執筆された1999年当時、トミー・ヒルフィガーは右肩上がりの成長をしており、先行するラルフ・ローレンに追いつけ追い越せの状態でした。

67年に設立されたポロ・ ラルフ・ローレン社は、99年4月決算の会計年度に17億ドルの売上をあげている。小売価格になおせば50億ドルを超える。同社の製品には、紳士服、婦人服、子供服、シーツ、タオル、家具、化粧品、陶磁器、ガラス製品、果てはデザイナー用の絵具まであって、デニムやスエードの色相のほか、白の色調は32種類もそろっている。トミー・ヒルフィガーのほうは、99年3月決算の会計年度に、やはり17億ドルの売上を計上している。小売価格では49億ドル近い。遅かれ早かれ―と言うよりもうまもなく、ヒルフィガーはポロを追い越すにちがいない。紳士服と化粧品しかあつかっていなかったのが、婦人服、家具その他の分野への多角化に着手したばかりだからである。着実に前進するヒルフィガーは、ニューヨーク証券取引所にはローレンより5年も先に上場しており、その株価はほかのアパレル株より一貫して高値を 保っている。98年を通じてひと株70ドル、ポロの2倍以上である。 ローレンはウォール街に先に参入することはできなかったが、相場の好調期には間に合った。97年の上場によって、ラルフはポロの議決権株式の90パーセントを押さえることができ、そのいっぽうで4億4000万ドルの大金を手に入れて、大富豪の仲間入りをしている。 

「後攻」だったトミー・ヒルフィガーが注目したのがエンターテインメント。中でも1990年代のトミー・ヒルフィガーブランドの成長に寄与したのがヒップホップでした。

ブランドのイメージを 若々しいインパクトの強いものに刷新しようと、ヒルフィガーはラップカルチャーをターゲットに定めた。MTV世代の支持を得て、ラップ・ブームは高まりつつあったからだ。ミュージックビデオに出演するラップミュージシャンは、<プーマ>、<アディダス>、<グッチ>のようなステータス・ロゴを好んで身につけていたが、ヒルフィガーはそれによく合うラグビーシャツやトップスに自分の名前をつけて売り出した。当時はそんなデザイナーはまだめずらしかった。

トミー・ヒルフィガーはヒップホップカルチャーにいち早く着目したファッションデザイナーでした。

ヒルフィガーはたしかにラップカルチャーのパワーを理解していた。これはファッション界の有力者たちが手を出せなかった(あるいは出そうとしなかった)ジャンルだが、ラップ特有のホームボーイ・ルックがランウェイに入り込んだのは90年代初め。シャネルのカール・ラガーフェルト(ママ)が、巨大なCCのロゴの入った服やだらんとしたパンツをランウェイのモデルに着せたのである。これは魅力的ではあったが、ストリートスタイルにちょっと手を出してみたという程度のものでしかなかった。しかし、ポロを含めてほとんどのファッションハウスは、 ヒップホップ層を恐れ、あるいはどう対処すべきかよくわからなかったため、ラップカルチャーと積極的にかかわろうとはしなかった。これは地図のない領域だった。黒人の消費者は白人の主流に追随するというのが確立した図式であり、逆に黒人の若者が白人の消費者をリードするという現象はファッション界の理解を超えていたからである。

トラヴィス・スコットやエイサップ・ロッキーなどの黒人ヒップホップミュージシャンがファッショントレンドを牽引している2023年現在からはなかなか想像ができませんが、1990年代は、黒人のファッションが白人をリードするなど、考えられない状況だったということです。

多くの企業が黒人のカルチャーが消費を牽引することを認めようとしない時代でもありました。

Wu-Tang Clanや2Pac、Nasなどの大物ミュージシャンが愛用し、今やヒップホップカルチャーを代表するシューズと言える、ティンバーランドのイエローブーツ

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1990年代前半にヒップホップ人気の高まりを受け、ティンバーランドは大きく売上を伸ばしたが、当時のティンバーランド社はその人気には迎合しないと力説していました。

しかし、トミー・ヒルフィガーはちがう見かたをしていた。カラフルでロゴ入りのヒルフィガーの服をラッパーが買うようになったとき、アメリカの若年層にさらに食い込むチャンスと考えたのだ。黒人白人を問わず、若者はみなヒップホップミュージックが好きだし、ヒルフィガーにはそれは当然のことに思えた。彼はもとからポップミュージックのファンだった。

そのころ、弟のアンディ・ヒルフィガーはヒップホップの世界にどっぷりつかっていた。イーストハーレムのアパートに住み、 ロックバンドやミュージックビデオの照明係をしていたのだ。スタジオに行くときは、いつも兄のポロシャツを詰め込んだ袋と、<トミー・ ヒルフィガー > のロゴ入りのダッフルバッグを持ってゆき、コンサート・プロモーターやラップスターに配っていた。このころにはすでに、ヒルフィガーの赤白青のジャンプスーツを着てステージにあがる、L・L・クール・Jの姿が見られていた。このスーツは、もともとロータスのF1チ ーム用にデザインされたものだ。これという人物に服をばらまけば、将来きっと見返りがあるとアンディは見抜いていた。「トミーの服をステージで着てくれと頼んだりはしなかった。でも服を配っていれば、いつかかならずだれかが人目につくところで着てくれるものだからね」

トミーがラップカルチャーに受け入れられる瞬間がついに訪れたのは、94年のある土曜日の夜のことだった。その少し前、アンディはマクロウ・ホテルに立ち寄って、ラッパーのスヌープ・ドッグに何枚かシャツを渡していた。抜け目のない手だ。その夜スヌープは、正面に ”トミー”、背中に”ヒルフィガー”と書かれたストライプのラグビーシャツを着て、『サタデーナイトライヴ』に出演している。

翌週、ヒルフィガーのショールームでは電話が鳴りっぱなしだった。小売店やスタイリストや買物客が立て続けに電話をかけてきて、あのラグビーシャツが欲しいと騒ぎたてる。

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さらに、 『グランド・プーバ2000』と題するヒットCDでは、黒のランボルギーニに寄り掛かるグランド・プーバの写真がカバーに使われたが、写真のプーバはトミーの白いTシャツにトミーの濃緑のジャケットを合わせていた。ヒルフィガーがラッパーや都市の若者の支持を集めはじ めると、黒人の若者のように”しぶく"決めたいというわけで、郊外の白人の若者も追随する ようになった

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ヒップホップのスター、クーリオは、ヒルフィガーのファッションショーでモデルを務め、 フィナーレにはトミーと並んでステージに立った。客席の多くのファッションエディターは首をふったが、エルマイラ出身の白人デザイナーは、名誉ホームボーイの称号を得て満面に笑みを浮かべていた。

ラップグループのモブ・ディープは称賛をこめてこう歌っている。「トミー・ヒルはおれのダチ/だれにもわかりっこない/おれとヒルフィガーはバリバリにやってきたんだ」。トミーは有頂天だった。「ぞくぞくしたよ。『おれのダチ』と呼んでくれたんだからね」とプレイボ ーイ誌に語っている。

ティンバーランドの重役たちとちがって、 トミー・ ヒルフィガー社の幹部はラップ層の抱き込みをためらわなかった。「こんなに広範で多様な層にアピールできるのは誇れることだ」とホロウィッツは言う。「いままでこんなことをなしとげた者はほかにいないんじゃないかな。 これはトミーに対する真の賛辞だし、彼が自分の立場を尊重し、それを生かしてきたおかげだと思う」。ヒルフィガーはただの“スラム街”ブランドだと馬鹿にする白人に関しては、ホロウィッツは平然としている。「ああいう連中に何と思われようと痛くもかゆくもないね」

尊大な白人の知らないうちに、ヒルフィガーは着々と塁を埋め、ついには満塁にしていた。 とくにニューヨークの白人層はヒルフィガーを理解できなかった。かれらにわかっていたのは、 黒人のバイク・メッセンジャーや地下鉄の乱暴者が、制服のようにそのロゴを着けていること ぐらいだった。しかし、ヒルフィガーをたんなるロゴと思ったらとんでもない話だ。97年、多くの百貨店でいちばん売れたデザイナードレスシャツはヒルフィガーだった。ディラーズ、 バーディンズ、パリジャン、メイシーズで最もよく売れたスーツは、トミーの400ドルのスーツである。

トミー・ヒルフィガーはこの後も、ヒップホップをはじめとしたミュージシャンを積極的に広告に起用。

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F1にもスポンサードするなど、エンターテインメントとのコラボレーションを積極的に行います。

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トミーに追随するラルフ

トミー・ヒルフィガーがヒップホップカルチャーと結び付いて快進撃を続ける状況を、ラルフ・ローレンが指を咥えて眺めていた訳ではありません。

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