山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

1989年の「世界の一流品」と、1999年の「ボクたち的ステイタス」。バブル崩壊で変わったファッションの価値観。

目次

 

1989年から1999年の間でファッションはどう変化したのか?

今回の“ファッションアーカイブ”は、ちょうど「POPEYE」1989年6月7日号と、「POPEYE」1999年4月25日号をご紹介します。

1989年から1999年

ぴったり10年の間に、ファッションはどう変化したのでしょう?

そして、ファッションの変化には必ず経済の変化も影響しているはずです。

 

日本経済のピークだった1989年

まずは、「POPEYE」1989年6月7日号が発売された頃の日本の経済状況について、ご紹介していきます。

1980年代終盤の日本に到来したバブル景気。

中でも1989年は日本経済のピークと言える年でした。

1989年9月27日には、ソニーがアメリカの映画会社コロンビア・ピクチャーズ・エンタテイメントを買収

http://www.asahi.com/special/sengo/visual/images/vol3/pdf/sony.pdf

10月31日にはニューヨークの象徴とも言えるロックフェラーセンターを保有する、ロックフェラーグループの株式51%を三菱地所が買収

https://www.pinterest.jp/pin/34762228366790861/

三菱地所は米国ニューヨークのロックフェラーセンターはじめ市内に14のビルを保有しているロックフェラーグループ社の株式51%を約1200億円で買収、資本提携したと発表

https://www.asahi.com/special/sengo/visual/images/vol3/pdf/mitsubishi.pdf

www.asahi.com

アメリカからは「アメリカの魂を買い漁っている」という強い反発を受けました。

バブル景気の日本の経済力の強さを象徴する出来事です。

 

1989年のバブル景気ピークに至る道

前回の記事↓でも触れましたが、ここで1980年代の日本がバブル景気に到達するまでのあらましをざっとご紹介しておきましょう。

www.yamadakoji.com

1985年9月にニューヨークのプラザホテルで開催された、先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議では、ドル高是正の協調政策をとることが合意されました。これをプラザ合意と呼びます。

プラザ合意のポイントは3つでした。

・行き過ぎたドル高

・その是正のため各国が外国為替市場に協調介入するなど積極的に協調行動を取る

・市場開放や内需拡大策の推進

プラザ合意前のドル円相場は概ね1ドル=240円前後で推移していましたが、その直後は229円まで円高が進行。その後更に進み、1986年1月2日のニューヨーク株式市場での円相場は200円を切りました。つまり、9月22日にプラザ合意から3ヶ月で1ドル=240円から199円になったのです。

円が高くなるということは、ドルが安くなるということ。

プラザ合意ののちに、円高の動きが急速に始まります。

その後、1985年末には200円近くまで上昇し、1988年には120円代前半に達します。

1985年初頭には1ドル250円はドル円相場はだったので、1985年から88年の3年間で円の価値が2倍になったのです。

こういった状況を受け、日本の資産価値は急上昇しました。

特に、1987年以降景気が急回復する中で企業収益が大幅増益を続けたことが要因となり、株価が上昇

また、東京都心部におけるオフィスビル需要が増加したことにより、地価が上昇しました。

1982年10月を底に上昇し始めた日経平均株価は1984年に1万円台、1987年に2万円台を付け、1989年末の大納会での終値は3万8,915円となります。

多少のアップダウンはあったものの、第二次世界大戦後からずっと日本経済は右肩上がりの発展を続けていました

また、1980年代後半になると日本の不動産の価値は未来永劫上がり続けるという「土地神話」が広がっていました。

当時、景気の良さが「バブル」であることにはほとんどの人が気付かず、日本経済は今後も発展を続けるだろうと誰もが考えていました。

その証拠に、1990年始めの日本経済新聞に掲載された主要企業20社の経営者による「株価アンケート調査」を見ると、当時の予想が非常に楽観的であったことがわかります。(強調引用者以下同)

株価(日経平均、以下同じ)のピークは, 1989年12月29日の38,915円 87 銭であった。このピークはまさに歴史的なピークであり、 その後2010年初めに 至るまで、20年を経過してもなおこのピークを超えることはなかった。

そして, 1990年1月4日の大発会以後, 株価の大幅下落が始まったのだが、 当時このような株価の下落を予想した人はほとんどいなかった。 1990年1月3 日の日本経済新聞 「株価アンケート調査」 は、 主要企業20社の経営者に年間の株価の安値と高値を聞いているが, 高値では最も高かったのが48,000円,安値で最も安かったのが36,000円となっている. 当時の株価に対する認識がいかに楽観的であったかが分かる。年初の時点では「いつ4万円に乗るか」 が期待されていたのである。

https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/prj/sbubble/history/history_01/analysis_01_03_02.pdf

 

「一流」がキーワード

日本の未来はバラ色であり続けることを誰もが信じていた時代だった、という認識を踏まえた上で、「POPEYE」1989年6月7日号を見ていきましょう。

右ページはコンバース広告。“洗濯の余地は、ない”という、ウォッシュデニム生地をもちいたスニーカー。

そして、今号の特集が“世界の一流品図鑑 ほんものの一流品を探す”

短い特集名の中に「一流品」という言葉が登場しています。

そして、こちらが特集の扉ページ。

冒頭にも“ちかごろ一流、本物、スグレ物などの言葉が氾濫している”とあり、「一流」がこの頃相当重要なキーワードだったのでしょう。

とはいえ、世間一般的な「一流品」を紹介するのではなく、「POPEYE」ならではの「僕たちにやさしい」「ほんとうにいい物」をピックアップしているとのこと。

ということで、“自身を持ってお薦めする一流品図鑑”の始まりです。

まず、紹介されているのが“試して選んだベスト20”

トップバッターはファイロファクスのシステム手帳。ファイロファクスは1921年にNorman&Hill社としてロンドンに創業した老舗文具メーカー、ファイロファクスのシステム手帳です。

“コイツの良さにいち早く気づいた女のコたちの情報によると、ブランド崇拝ギャルですら、今やエルメスの手帳よりもこの<スモールオーガナイザー>に熱い視線を送っているとか。彼女へのプレゼントに最適だネ”というコメント。

エルメスを引き合いに出して評価するのは結局ど直球のブランド信仰なのでは?と思わなくもありません。

ピーター・ハドレーというブランドのシャンブレーシャツ。

取扱店はアメ横の老舗ショップ、玉美

fashiontechnews.zozo.com

ameyoko-tamami.com

「ピーター・ハドレー」で検索してみると、玉美のブログがヒットしました。

イタリアのラルフローレン」って言われてましたね、あの当時。
何しろあの頃はエンポリオアルマーニとかポールスミスとかヘンリーコットンとか欧州勢が元気が良くてね。だってこの辺りのブランドを着てないと、六本木のディスコへも行けないしね。

ameyokotamami.blog90.fc2.com

次ページ。

やはり目を引くのが、ジョン・ロブ。そしてここでも“エルメスがはじめて、“ジョン・ロブ”という、エルメス以外のブランド名をもつ店の商品を販売した”と、エルメスのブランドネームを使っての紹介となっています。

次ページ。中央のトマトジュースが目を引きます。

が、やっぱりここでもプラダの傘をピックアップ。

 

日本人の日本に対する自信の高さ

そして、この時代ならではだと感じるのが、全てのページで日本ブランドのアイテムがピックアップされていること。

最初のページのソニーの8ミリビデオをはじめとして、このページではローランド、ヒロタ。

次ページでは資生堂、プラス、無印良品、サンヨーと、全てが日本ブランド

ここにはやはり、当時の日本人の日本に対する自信の高さが現れているのではないでしょうか。

ベスト20のうち、半分以上の11が日本ブランドという占有率の高さは、やはり日本という国そのものに勢いがあった、バブル期だからこそでしょう。

 

電子手帳にミニ四駆…世界をリードする日本ブランド

この後も、「世界の一流」の紹介は続きますが、やはり目立つのが日本ブランド。パナソニックのヘッドホンステレオや、京セラのセラミックナイフ。

三菱のビデオデッキ、トンボ鉛筆の筆ペン。

表紙にも登場していたレードル(お玉)は、マルタマというブランドのもの。

調べてみると、今も販売されていました。

個人的に見てめちゃくちゃテンションが上がったのが、こちらのシャープの電子手帳。当時全く同じのを持ってました。スマートフォンの先駆け的存在ではないでしょうか。

シャープの冷蔵庫、カルピスのバター、東レのコンタクトレンズ。

タミヤのミニ四駆。当時ドハマリしていました。

このアバンテも作りましたねぇ。

“本物志向の者たちが再び注目し始めたルイ・ヴィトン。栗皮色の真価を財布に問う”

“ファッション性と実用性がこんなに高く、そして、もはや語る必要がないほどのハイブランドイメージ”を兼ね揃えたアイテムとして、紹介されています。ルイ・ヴィトンについてはこの後ご紹介する1999年の「POPEYE」でも登場します。

そしてこちらが「世界の一流品」紹介最後のページ。ソニーのクリップラジオも、当時家にあったような気がします。

 

日本人のお金持ちに趣味のいい人が少ない

モノクロページでは、“外国人にもブランド信仰はあるのか”という在日外国人の座談会が掲載されています。

“ブランド好きはミエっぱりの証明だと思うわ”

“高い洋服を着ても、まるでユニフォームのように見えるのはなぜ?”

“フランスでは20歳を過ぎるとブランドにたよらずみんな自分のスタイルをつくるのよ”

“もう少しパーソナリティを大事にした方がいいと思う”などなど、まぁ案の定ですが日本人の「一流」ブランド好きに否定的なコメントが並んでいます。

まぁ、こういう企画ってバブル期だろうがそうでなかろうが、結局「日本人は個性がない」的な内容になりがちです。

続いてのページでは古着が話題に。

“最近は、日本人が、サンフランシスコやロンドン、パリなんかで古着をごっそり買い込んでいるでしょう?今、古着のストックは日本が世界一だって聞きますよ。その買い方も、札束積んで、ごっそり買い込んでいくっていう…”

“日本人のお金持ちに、趣味のいい人が少ないってことが問題”と、散々な言われようです。

やはりこの頃は特に日本人がお金を持っていた時代。“若い男のコがガールフレンドにティファニーをプレゼントするなんて信じられない”など、「お金を持っている日本人」が批判の対象にされているという、2023年の今からは考えられない時代だったのです。

 

家計の変化の節目だった1998年

さて、ここからは「POPEYE」1999年4月25日号のご紹介になります。

が、その前にやはり1999年当時の日本の経済状況についてご紹介しておきましょう。

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