山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

1989年の「世界の一流品」と、1999年の「ボクたち的ステイタス」。バブル崩壊で変わったファッションの価値観。

目次

 

1989年から1999年の間でファッションはどう変化したのか?

今回の“ファッションアーカイブ”は、ちょうど「POPEYE」1989年6月7日号と、「POPEYE」1999年4月25日号をご紹介します。

1989年から1999年

ぴったり10年の間に、ファッションはどう変化したのでしょう?

そして、ファッションの変化には必ず経済の変化も影響しているはずです。

 

日本経済のピークだった1989年

まずは、「POPEYE」1989年6月7日号が発売された頃の日本の経済状況について、ご紹介していきます。

1980年代終盤の日本に到来したバブル景気。

中でも1989年は日本経済のピークと言える年でした。

1989年9月27日には、ソニーがアメリカの映画会社コロンビア・ピクチャーズ・エンタテイメントを買収

http://www.asahi.com/special/sengo/visual/images/vol3/pdf/sony.pdf

10月31日にはニューヨークの象徴とも言えるロックフェラーセンターを保有する、ロックフェラーグループの株式51%を三菱地所が買収

https://www.pinterest.jp/pin/34762228366790861/

三菱地所は米国ニューヨークのロックフェラーセンターはじめ市内に14のビルを保有しているロックフェラーグループ社の株式51%を約1200億円で買収、資本提携したと発表

https://www.asahi.com/special/sengo/visual/images/vol3/pdf/mitsubishi.pdf

www.asahi.com

アメリカからは「アメリカの魂を買い漁っている」という強い反発を受けました。

バブル景気の日本の経済力の強さを象徴する出来事です。

 

1989年のバブル景気ピークに至る道

前回の記事↓でも触れましたが、ここで1980年代の日本がバブル景気に到達するまでのあらましをざっとご紹介しておきましょう。

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1985年9月にニューヨークのプラザホテルで開催された、先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議では、ドル高是正の協調政策をとることが合意されました。これをプラザ合意と呼びます。

プラザ合意のポイントは3つでした。

・行き過ぎたドル高

・その是正のため各国が外国為替市場に協調介入するなど積極的に協調行動を取る

・市場開放や内需拡大策の推進

プラザ合意前のドル円相場は概ね1ドル=240円前後で推移していましたが、その直後は229円まで円高が進行。その後更に進み、1986年1月2日のニューヨーク株式市場での円相場は200円を切りました。つまり、9月22日にプラザ合意から3ヶ月で1ドル=240円から199円になったのです。

円が高くなるということは、ドルが安くなるということ。

プラザ合意ののちに、円高の動きが急速に始まります。

その後、1985年末には200円近くまで上昇し、1988年には120円代前半に達します。

1985年初頭には1ドル250円はドル円相場はだったので、1985年から88年の3年間で円の価値が2倍になったのです。

こういった状況を受け、日本の資産価値は急上昇しました。

特に、1987年以降景気が急回復する中で企業収益が大幅増益を続けたことが要因となり、株価が上昇

また、東京都心部におけるオフィスビル需要が増加したことにより、地価が上昇しました。

1982年10月を底に上昇し始めた日経平均株価は1984年に1万円台、1987年に2万円台を付け、1989年末の大納会での終値は3万8,915円となります。

多少のアップダウンはあったものの、第二次世界大戦後からずっと日本経済は右肩上がりの発展を続けていました

また、1980年代後半になると日本の不動産の価値は未来永劫上がり続けるという「土地神話」が広がっていました。

当時、景気の良さが「バブル」であることにはほとんどの人が気付かず、日本経済は今後も発展を続けるだろうと誰もが考えていました。

その証拠に、1990年始めの日本経済新聞に掲載された主要企業20社の経営者による「株価アンケート調査」を見ると、当時の予想が非常に楽観的であったことがわかります。(強調引用者以下同)

株価(日経平均、以下同じ)のピークは, 1989年12月29日の38,915円 87 銭であった。このピークはまさに歴史的なピークであり、 その後2010年初めに 至るまで、20年を経過してもなおこのピークを超えることはなかった。

そして, 1990年1月4日の大発会以後, 株価の大幅下落が始まったのだが、 当時このような株価の下落を予想した人はほとんどいなかった。 1990年1月3 日の日本経済新聞 「株価アンケート調査」 は、 主要企業20社の経営者に年間の株価の安値と高値を聞いているが, 高値では最も高かったのが48,000円,安値で最も安かったのが36,000円となっている. 当時の株価に対する認識がいかに楽観的であったかが分かる。年初の時点では「いつ4万円に乗るか」 が期待されていたのである。

https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/prj/sbubble/history/history_01/analysis_01_03_02.pdf

 

「一流」がキーワード

日本の未来はバラ色であり続けることを誰もが信じていた時代だった、という認識を踏まえた上で、「POPEYE」1989年6月7日号を見ていきましょう。

右ページはコンバース広告。“洗濯の余地は、ない”という、ウォッシュデニム生地をもちいたスニーカー。

そして、今号の特集が“世界の一流品図鑑 ほんものの一流品を探す”

短い特集名の中に「一流品」という言葉が登場しています。

そして、こちらが特集の扉ページ。

冒頭にも“ちかごろ一流、本物、スグレ物などの言葉が氾濫している”とあり、「一流」がこの頃相当重要なキーワードだったのでしょう。

とはいえ、世間一般的な「一流品」を紹介するのではなく、「POPEYE」ならではの「僕たちにやさしい」「ほんとうにいい物」をピックアップしているとのこと。

ということで、“自身を持ってお薦めする一流品図鑑”の始まりです。

まず、紹介されているのが“試して選んだベスト20”

トップバッターはファイロファクスのシステム手帳。ファイロファクスは1921年にNorman&Hill社としてロンドンに創業した老舗文具メーカー、ファイロファクスのシステム手帳です。

“コイツの良さにいち早く気づいた女のコたちの情報によると、ブランド崇拝ギャルですら、今やエルメスの手帳よりもこの<スモールオーガナイザー>に熱い視線を送っているとか。彼女へのプレゼントに最適だネ”というコメント。

エルメスを引き合いに出して評価するのは結局ど直球のブランド信仰なのでは?と思わなくもありません。

ピーター・ハドレーというブランドのシャンブレーシャツ。

取扱店はアメ横の老舗ショップ、玉美

fashiontechnews.zozo.com

ameyoko-tamami.com

「ピーター・ハドレー」で検索してみると、玉美のブログがヒットしました。

イタリアのラルフローレン」って言われてましたね、あの当時。
何しろあの頃はエンポリオアルマーニとかポールスミスとかヘンリーコットンとか欧州勢が元気が良くてね。だってこの辺りのブランドを着てないと、六本木のディスコへも行けないしね。

ameyokotamami.blog90.fc2.com

次ページ。

やはり目を引くのが、ジョン・ロブ。そしてここでも“エルメスがはじめて、“ジョン・ロブ”という、エルメス以外のブランド名をもつ店の商品を販売した”と、エルメスのブランドネームを使っての紹介となっています。

次ページ。中央のトマトジュースが目を引きます。

が、やっぱりここでもプラダの傘をピックアップ。

 

日本人の日本に対する自信の高さ

そして、この時代ならではだと感じるのが、全てのページで日本ブランドのアイテムがピックアップされていること。

最初のページのソニーの8ミリビデオをはじめとして、このページではローランド、ヒロタ。

次ページでは資生堂、プラス、無印良品、サンヨーと、全てが日本ブランド

ここにはやはり、当時の日本人の日本に対する自信の高さが現れているのではないでしょうか。

ベスト20のうち、半分以上の11が日本ブランドという占有率の高さは、やはり日本という国そのものに勢いがあった、バブル期だからこそでしょう。

 

電子手帳にミニ四駆…世界をリードする日本ブランド

この後も、「世界の一流」の紹介は続きますが、やはり目立つのが日本ブランド。パナソニックのヘッドホンステレオや、京セラのセラミックナイフ。

三菱のビデオデッキ、トンボ鉛筆の筆ペン。

表紙にも登場していたレードル(お玉)は、マルタマというブランドのもの。

調べてみると、今も販売されていました。

個人的に見てめちゃくちゃテンションが上がったのが、こちらのシャープの電子手帳。当時全く同じのを持ってました。スマートフォンの先駆け的存在ではないでしょうか。

シャープの冷蔵庫、カルピスのバター、東レのコンタクトレンズ。

タミヤのミニ四駆。当時ドハマリしていました。

このアバンテも作りましたねぇ。

“本物志向の者たちが再び注目し始めたルイ・ヴィトン。栗皮色の真価を財布に問う”

“ファッション性と実用性がこんなに高く、そして、もはや語る必要がないほどのハイブランドイメージ”を兼ね揃えたアイテムとして、紹介されています。ルイ・ヴィトンについてはこの後ご紹介する1999年の「POPEYE」でも登場します。

そしてこちらが「世界の一流品」紹介最後のページ。ソニーのクリップラジオも、当時家にあったような気がします。

 

日本人のお金持ちに趣味のいい人が少ない

モノクロページでは、“外国人にもブランド信仰はあるのか”という在日外国人の座談会が掲載されています。

“ブランド好きはミエっぱりの証明だと思うわ”

“高い洋服を着ても、まるでユニフォームのように見えるのはなぜ?”

“フランスでは20歳を過ぎるとブランドにたよらずみんな自分のスタイルをつくるのよ”

“もう少しパーソナリティを大事にした方がいいと思う”などなど、まぁ案の定ですが日本人の「一流」ブランド好きに否定的なコメントが並んでいます。

まぁ、こういう企画ってバブル期だろうがそうでなかろうが、結局「日本人は個性がない」的な内容になりがちです。

続いてのページでは古着が話題に。

“最近は、日本人が、サンフランシスコやロンドン、パリなんかで古着をごっそり買い込んでいるでしょう?今、古着のストックは日本が世界一だって聞きますよ。その買い方も、札束積んで、ごっそり買い込んでいくっていう…”

“日本人のお金持ちに、趣味のいい人が少ないってことが問題”と、散々な言われようです。

やはりこの頃は特に日本人がお金を持っていた時代。“若い男のコがガールフレンドにティファニーをプレゼントするなんて信じられない”など、「お金を持っている日本人」が批判の対象にされているという、2023年の今からは考えられない時代だったのです。

 

家計の変化の節目だった1998年

さて、ここからは「POPEYE」1999年4月25日号のご紹介になります。

が、その前にやはり1999年当時の日本の経済状況についてご紹介しておきましょう。

ベースとするのは、「大和総研調査季報 2013 年 春季号 Vol.10」の「1998年を節目とした日本経済の変貌」。

https://www.dir.co.jp/report/research/economics/japan/20130603_007218.pdf

ここでは、1998年がバブル崩壊後に家計が変化のした節目の年だったとしています。

実際のデータも交え、引用します。

バブル崩壊後の 1991 年を節目として「失われた 20 年」と言われることがあるが、家計部門の変化の節目は 1998 年であったと考えられる。

正規雇用者の減少とその賃金の低下、一方で賃金水準は上昇しても格段に水準の低いままの非正規雇用者の増加、結果としてのトータルの雇用者報酬(SNAベース)の減少が生じた。さらに可処分所得の減少につながり、家計最終消費支出が頭打ちになるとともに、民間住宅投資もレベルダウンした。家計部門の現金・預金残高は頭打ちとなり増えなくなった。こうした中で、人々の収入に対する不安が高まった。一方、企業は貯蓄超過に陥るとともに、期待成長率は2%を切ることとなった。そして、GDPギャップが拡大し、GDPデフレーターやCPIが低下を始めた。こうした経済情勢の悪化は、再び雇用者報酬の低下につながる。このような変化が 1998 年頃に生じていた。

我が国全体としてのマクロの雇用者報酬は 1998 年度から低下を開始した。その要因としてチェックすべきは、まず、①雇用者数と、②賃金である。この2つを掛け合わせたものが雇用者報酬である。さらに、近年の我が国固有の構造的要因として、③フルタイムからパートタイム、あるいは正規から非正規への転換もみる必要がある。

まず、図表6のように、雇用者数は 1998 年に低下を開始した。

フルタイム労働者とパートタイム労働者の現金給与総額が、日本全体での合計ではどのように推移したかを大まかに推計したのが図表9である。

全体では、1998 年から減少を開始している。

1995 年以降、生産年齢人口が減少し、1998 年以降は労働市場への参加率も低下・停滞し、労働市場への労働供給は低下基調にあったにもかかわらず、完全失業率は 1998 年頃から急上昇した(図表 10)。

1998 年における急激な雇用情勢の悪化については、いわゆる「リストラ」の増加が指摘されることも多い。そこで、例えば、非自発的な離職による失業・求職者(定年も非自発的離職に含まれるため 54 歳未満に限った)の数も図表 10では示してある。1998 年から、特に男性は顕著に増加している。

 

バブル崩壊による本質的な不景気が1998年に訪れた

人々の意識も 1998 年頃から変化を見せている。

基本的に毎年実施されている内閣府「国民生活に関する世論調査」を見ると、所得・収入の満足度は、1996 年頃までは満足とする人と不満とする人の数が拮抗していたが、1997 年以降は不満が満足を上回り、以降、不満は基本的に増加を続けた

収入については、1998 年頃から不安を感ずる人が増加した。将来の収入に不安があるのであれば、消費支出は控えるであろうし、住宅ローンを組んで家を建てることも困難となる一方、価格の安いものをひたすら求めることにもなろう

要するに、一般的にバブルは1991年から1993年に崩壊したと言われていますが、その影響が家計に及び、将来に不安を感じる人が増えてきたのが1998年頃だった、ということです。

つまり、バブル崩壊による本質的な不景気が1998年に訪れた、とも言えるでしょう。

 

単なる「一流」だけでなくセンスも重視の1999年

さて、以上の経済的な状況を踏まえた上で、「POPEYE」1999年4月25日号をご紹介していきましょう。

特集は「絶対欲しい一流ブランド満載!ステイタス大事典」。「一流」という言葉は1989年にも多数登場していました。

そして、やはり1989年にも登場していた「一流」ブランド、ルイ・ヴィトンが強くアピールされています。

ですが、1989年と異なるのは、“おっと、裏地がLVマークだ!”と、ルイ・ヴィトンの象徴であるモノグラム柄が、普通にしていたら見えない裏地にプリントされているという点。

そして、クレジットを見るとこのルイ・ヴィトンのコートとコーディネートされているアイテムが、アメリカの肉体労働者の足元を支えたレッドウィングのブーツ、そして日本が生んだストリートカルチャーである裏原系のブランド、アンダーカバーの服であることがわかります。

「POPEYE」1989年6月7日号の表紙はイラストで描かれたアイテムのみ

つまり、1989年に価値があったのは「一流品」のモノ単体だったと言えるでしょう。

ですが、1999年になると、単純に「一流品」であるだけではそれほど価値はなく、ブランドの象徴が裏地にプリントされているという「ハズし」や、ワークアイテム、ストリートブランドとミックスしてコーディネートするというセンスが重要になっているように思えます。

 

90年代ならではの感覚“ボクたち的ステイタス”

目次。特集のタイトルが“絶対欲しい一流ブランド満載!ボクたち的ステイタス大事典”

この“ボクたち的”という表現に、「身内の評価」を重視する、極めて90年代終盤らしい感覚が現れているように感じます。悪く言えば、「内向的」なのかもしれませんが、こういった「同じセンスを共有する仲間内のノリ」から、裏原系をはじめとした日本独自のファッションカルチャーが生まれたように思います。

 

マルタン・マルジェラデザインのエルメスが“ボクたち的ステイタス”の象徴

特集“ボクたち的ステイタス大事典”の扉ページ。

一番目立つ場所にあるのは、ロレックスのデイトナのカルティエとのダブルネーム。こちら、クレジットはスタイリスト私物となっていますが、スタイリストの野口強さんのものでしょう。

そして、エルメスのレザーネックレス、クロシェット

マルタン・マルジェラがデザイン<エルメス>なのに手が届くプライス。で今、大ブレイク中のアイテムがコレ。胸に下げて街行くオシャレさん多し。正に“ボクたち的ステイタス”の象徴です”とのこと。

ベルギーのアントワープ王立美術アカデミー出身のデザイナー、マルタン・マルジェラはファッション業界の既成概念をぶち壊す前衛的なクリエイションの、1990年代を代表するファッションデザイナーでした。

当時ティーンズだった僕もそうでしたが、1990年代のマルタン・マルジェラのアヴァンギャルドな服作りに強い影響を受けた若者は非常に多かったと思います。

特に当時の僕は、以前当ブログでもご紹介した1998年の「STUDIO VOICE」に掲載されたこの作品に、とてもとても強い衝撃を受けました。

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そんなアヴァンギャルドなマルタン・マルジェラを、伝統と格式を誇るパリの老舗メゾンであるエルメスがデザイナーとして迎えたことは、当時大きな話題になりました。

まるでロックスターのように、若者たちの気持ちを代弁するようなデザイナーだった、マルタン・マルジェラが、あのエルメスのデザイナーに就任したのは胸をすくような出来事でした。

そして、エルメスの象徴であるレザーグッズをマルタン・マルジェラがデザインし、しかも若者でも手の届く価格で販売したクロシェットはやはり、“ボクたち的ステイタス”の象徴に相応しいアイテムと言えるでしょう。

 

グランジを世に広めたマーク・ジェイコブスが手掛けるルイ・ヴィトン

次ページからは、ルイ・ヴィトンの特集。ルイ・ヴィトンのコートが表紙で着用されたのはただ単に、ルイ・ヴィトンが「一流」ブランドだからというわけではありません。

“オシャレな人たちも騒ぎ出した、服も小物もルイ・ヴィトンがいいんじゃない?”という特集タイトルにその理由が表されています。

“マーク・ジェイコブスの洗練が、シンプルな形の中に詰まっている”

気鋭の若手アメリカ人デザイナー、マーク・ジェイコブスがルイ・ヴィトンのメンズプレタポルテのアーティスティックディレクターに就任したのが1997年。

以前のグランジの記事でもご紹介しましたが、ニルヴァーナが音楽界で注目を浴び始め、カート・コバーンのごくごく一般的な若者と変わらない、というかむしろだらしなささえ感じられるような普段着がクールだと人気を集めるようになった1990年代初頭。

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アメリカのファッションブランド、ペリー・エリスが1993年春夏コレクションでグランジをフューチャーし、その後世界的なムーブメントとなりますが、このときにペリー・エリスのデザイナーを務めていたのがマーク・ジェイコブスだったのです。つまり、グランジというストリートファッションを世に広めた超重要人物が、マーク・ジェイコブスだったのです。

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ファレル・ウィリアムスが語るマーク・ジェイコブスの革新性

エルメスのマルタン・マルジェラ同様、当時ルイ・ヴィトンがマーク・ジェイコブスを起用したことも大きな話題となりました。

マーク・ジェイコブス参加以前のルイ・ヴィトンというブランドには「一流」や「高級」というイメージはあったものの、老舗であるがゆえの古臭さがあったことも確かでした。

ですが、マーク・ジェイコブスの自由な感性がルイ・ヴィトンに取り入れられたことで、ブランドのイメージが一新されたのです。

2024年春夏コレクションからルイ・ヴィトンのメンズクリエイティブディレクターを務めることになったファレル・ウィリアムスが、マーク・ジェイコブスの革新性を語っています

20年前、ニューヨーク57丁目にルイ・ヴィトンが店舗をオープンしたときのことだ。彼はそこで、当時メゾンのクリエイティブ・ディレクターだったマーク・ジェイコブスに声をかけられた。「君のサングラス、いいね」。そう言って、ジェイコブスは彼に尋ねた。「うちで作ってみないか?」。ファレルがそのサングラスは親友でビジネスパートナーでもあるNIGOが作ったものだと説明すると、ジェイコブスはサングラスコレクションのデザイナーとして2人を招くことにした。

彼らが創り出した12ほどのデザインのひとつが「ミリオネア」だった。2004年に発売された「ミリオネア」は、ファッションの歴史にその名を刻んだアイテムだ。ヴァージル・アブローがルイ・ヴィトンのメンズ・ディレクターを務めていたときにも、このサングラスは再発された。「ミリオネア」は、ファレルやアブロー、カニエ・ウェストなどアメリカの黒人アーティストのファッションへの参入という、壁を打ち破るような画期的な出来事を象徴するアイテムとなった。火曜夜のショーでも、レブロン・ジェームズが最前列でこれを着用していた。

jp.louisvuitton.com

これまでも、ファレルは頻繁にこの話に触れてきた。その度に彼はジェイコブスについて、自身のキャリアを軌道に乗せてくれただけでなく、“壁を打ち破る”のを手助けしてくれた存在だと強調してきた。「マークはただ途方もなく寛容でした」。ファレルは言う。「彼はパラダイムシフトを起こしたのです。当時、ミュージシャンなんてキャンペーンのそこここで使われるだけでした。特に黒人はね。私たちは服をセレクトしてミックスすることはできたかもしれませんが、自分たちのような見た目の人間が、カーテンの反対側でデザインをしたり物を作るなんて考えられなかったことです。そういうわけで、マークが最初でした。彼が始めたことが、今ではあちこちで普通のことになっています」

www.gqjapan.jp

次ページからはバッグなどのグッズの紹介。“マーク・ジェイコブスだけじゃない、150年の歴史もダテじゃない”と、由緒の正しさをアピール。

“効きのいいセレクト67最新版ブランド小物図鑑”

トップバッターは老舗ブランドのグッチ

マーク・ジェイコブスという若い血を入れたルイ・ヴィトン同様、アメリカ人若手デザイナーであるトム・フォードを1994年にクリエイティブディレクターに起用し、若返りに成功していました。

このページに見逃せないキーワードが記されています。

“一流ブランドのストリートへの接近が進む今”という一節です。

ストリートファッションの勢いが年々増していた1990年代。

それまでストリートファッションとは正反対の立場だったルイ・ヴィトンやグッチなどの老舗ブランドが、ファッションシーンに残り続ける為に選択したのが「ストリートファッションを取り込む」という方法でした。

このページでセレクトされているのも、“スポーツラグジュアリーのグッチ的解釈”というグッズ類。

ストリートファッションの最重要アイテムであるスニーカーとは切っても切れないディテールであるベルクロを取り入れたレザーシューズ。

ミリタリーアイテムがインスピレーションソースだと思われるガチャベルト。

体に沿うスポーティなシルエットのバッグなど、ストリートファッションの要素を取り入れたグッズを展開しています。

続いて、エルメスとプラダ。

エルメスは先述の通り、“カリスマデザイナー、マルタン・マルジェラが就任し、ますます目が離せない”ブランドに。

このページでもマルタン・マルジェラがデザインしたクロシェットが登場しています。

“昨年の秋冬から展開されたプラダスポーツがプラダのメインラインにも大きく影響を与えているのは言うまでもない。とにかく、今年はスポーツミックスで決まりだ”と、当時もトレンドを牽引していたプラダ。

次ページからはデザイナーズブランドを中心にピックアップ。2023年現在のイメージとはかなり違うかもしれませんが、当時のドルチェ&ガッバーナは人気デザイナーズブランドの代表格でした。

マルタン・マルジェラと同じアントワープ王立美術アカデミー出身のドリス・ヴァン・ノッテンや、当時クロムハーツなどとともにシルバーアクセサリー人気を牽引していたビル・ウォール・レザーがピックアップされているのも、この時代ならでは。

 

アンダーカバーが実現したストリートとモードのミクスチャー

そして、こちらの右ページが特に、1999年のファッション観を象徴していると思います。

今も語り継がれるアンダーカバーの1999年春夏コレクション“レリーフ”のアイテムです。ポケットやボタンなどの服のディティールのほとんどをデニム生地の色落ちで表現しています。

https://www.pinterest.jp/pin/16466354872110639/

この頃のアンダーカバーは東京でコレクションを発表していました。この後、アンダーカバーは更にモード色を強め、パリにコレクションの場を移します。

https://www.pinterest.jp/pin/341218109281856295/

“ストリートでもモードでもない、計算されたミクスチャー感覚”

ジーンズはストリートファッションを象徴するアイテムです。そのストリートファッションの象徴であるジーンズの色落ちを、モードの世界に取り込んだことに、アンダーカバーのデザイナー高橋盾さんの革新性があったと思います。

このミクスチャー感覚は、日本人デザイナーならではでしょう。

 

高橋盾は20世紀の日本ファッションの到達点

第二次世界大戦後の日本で急速に庶民に浸透した洋装文化。

アメリカの影響を強く受けながら発展を続け、1970年代には音楽やスポーツなどのカルチャーの影響を受けたファッションが拡大。

www.yamadakoji.com

1980年代に入ると日本人ならではの価値観を持ったデザイナーが、世界的に活躍するようになります。

www.yamadakoji.com

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高橋盾さんのクリエイションからは、パンクミュージックやクラブなどのストリートカルチャーと、川久保玲さんをはじめとしたファッションデザイナーの影響を強く受けていることがわかります。

ストリートとモードの申し子である高橋盾さんこそが、20世紀の日本ファッションの到達点ではないかと思っています。

 

もはやひとくくりにできない“ステイタス”

次ページからは“有名人100人のエバリ大公開 あなたのステイタス、見せて下さい”という企画。“その人のキャラクターが現れた様々なアイテムがまさに百人百様”と、価値観の多様化によりもはや“ステイタス”がひとくくりにはできない概念になっていることがわかります。

インタビュー対象がファッション業界人ばかりではないところも興味深いです。当時の裏原系の重要人物だったヒカルさんの下には、アイドル的人気だった奥菜恵さん。

サッカー選手の城彰二さんなど、バラエティ豊か。

挙げているアイテムも様々です。

 

ステイタスは“ボクたち”が決めるもの

次の企画は“ショップスタッフの人気投票で決めた ステイタス・ランキング”

こういった企画からも、ステイタスは既にあるもの、押し付けられるものではなく“ボクたち”が決めるものである、という気概が感じられます。

 

1999年の“カリスマブランド”

そして、この頃の「POPEYE」が定義する“カリスマブランド”がわかるのが、こちらの“鈴木あみ、カリスマブランドを着る”

鈴木あみさん本人がプリントされているTシャツは、裏原系の中心人物である藤原ヒロシさんが手掛けていたブランド、フィネスのもの。

フィネスのTシャツに合わせているのは、リーバイスのヴィンテージジーンズ。

左ページは表紙と同じく、ルイ・ヴィトンのコートにアンダーカバーのワンピース、レッドウィングのワークブーツ。

こちらのページもフィネスアンダーカバー

右ページはアンダーカバーに、ドイツ人デザイナーのブランド、コスタス・ムルクディス、日本人デザイナーのブランド、コズミック・ワンダー

 

カリスマ≠一流

そもそも、カリスマブランドという言葉自体も90年代ならではでしょう。

カリスマとは人を引き付ける強い魅力、というような意味です。

カリスマは必ずしも「一流」である必要はありません。

ある人にとっては特別な意味を持っていても、他の人は全く興味をそそられない、そんな存在がカリスマです。

つまり、カリスマは人によってまるで価値が違うということを意味します。

1989年は皆「一流」を目指していました。

ですが、バブルが崩壊して「お金」という強い価値観が失われたことにより、価値観は多様化せざるをえなくなりました。

カルチャーミックスが様々な分野で繰り返された結果、もう「一流」であることはほとんど意味を持たなくなっていました。

そして世紀末の1999年に人々が求めてるようになっていたのは、“ボク”のカリスマでした。

 

 

ミックスカルチャーが日本のファッションカルチャーの強み

今回の“ファッションアーカイブ”執筆により、やはりミックスカルチャーが日本のファッションカルチャーの強みだということを再認識しました。

ですので、次回の“ファッションアーカイブ”は、日本のファッションにおけるミックスカルチャーについて、深掘りできたらと思っています。

お楽しみに。