前回、前々回に引き続き、流行通信1992年10月号のヘルムート・ラング特集のご紹介です。レディスがメインの雑誌です。
ヘルムート・ラングへのロングインタビューの続きです。
ヘルムート・ラングにとって歴史的文化とはなにか
ヘルムート・ラングのロングインタビューでは、これまでご紹介してきたように、彼の生い立ち、田舎のアルプスと都会のウィーンで育ったことについて語られています。
多大な影響を受けた建築家、アドルフ・ロースについて語った後、ヘルムート・ラングはこう質問されます。
古い歴史的文化が乗り越えなければならない障害として眼前に存在する、という印象はもたれませんでしたか
歴史が自身の仕事の障害にならなかったか、ということですね。これに対し、ヘルムート・ラングはこう答えます。(強調引用者)
いいえ、ウィーンの歴史的文化は、私自身のカルチャー・ベースとなり、多大なものを与えてくれた財産という感じです。今の時代をとらえるため、そして未来を形成するためにも必要なこと、と思っていました。乗り越えなければならない障害とみなしたことはありませんね。
ヘルムート・ラングにとって、歴史的文化は「自分の基礎」であり、「今の時代をとらえるアンテナ」であり、「未来をつくるもと」であるということ。
つまり、クリエーションの原点であると言えると思います。
初回の記事でもご紹介しましたが、ヘルムート・ラングの作風は歴史的という印象はありません。
とてもモダンで、発表されてから20年以上経つコレクションでも、どちらかと言うと未来を感じる人が多いのではないでしょうか。
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そんなヘルムート・ラングのクリエーションの源が「歴史的文化」であると名言していたことは、意外でもありましたが、歴史を学ぶことの重要性を再認識することにもなりました。
ファッションデザイナーになるつもりは全くなかった
続いてのファッションデザインの道にいつ入ったのか?という問いに対するヘルムート・ラングの答えです。
ファッション・デザインの勉強をしていたわけでもないし、正直なところデザイナーになるつもりは、まるでなかったんです。何かしらクリエイティブな仕事には就いてみたい、とは思っていましたが。だから、いつの間にか素材やカットなど知識を得て、次第にこの道に入った、ということなのです。絶対にデザイナーになる!といったことではありませんでした。
ファッションデザイナーになるつもりは全くなかったという、こちらも意外な回答。
しかしながら、1979年にスタートさせたファッションデザイナーの仕事は、こう語っているように順調だったようです。
当時創ったのは、とても単純なデザインの服で、今のようにボディのラインを考慮に入れたデザインではありませんでしたから。何より、それを創りたくても第一どう作ってよいのか、知識も経験もありませんでした(笑)。
もちろん、今見たらとても滑稽でしょうが、当時は満足していました、最初の服としては素晴らしいものでしたね、ちゃんと売れましたし
続いての、発表された服を手元に残すことはないのかという問いに対するヘルムート・ラングの返答がこちら。
服をとって置いたことはありません。私にとっては、それって無意味だから。興味がないのです、ミュージアムのように保存する感覚になれません。それも、他人が評価してくれて、その服がどうのこうのということはあるでしょうが、自分からはちょっと。私の服が重要かどうかは、誰かが判断してくれるでしょう
初回の記事でもご紹介したように、90年代のアイテムを中心に、ヘルムート・ラングの作品は「アーカイブ」として現在非常に高い評価を得ています。この状況を、今のヘルムート・ラングは知っているのでしょうか。知っているとしたら、どう感じているのか、気になるところです。
「世紀末」という不安
冒頭でもご紹介しましたが、このインタビューが掲載さているのは流行通信の1992年10月号。
前年の1991年の1月にはイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争が勃発。
12月にはソビエト連邦が崩壊します。
世界中を巻き込んだ、文字通りの世界大戦であった第二次世界大戦が終結したのが1945年。
その戦勝国であるアメリカとソ連は、それぞれが資本主義と社会主義の盟主となり、それぞれを支援する機構や同盟が生まれ、戦争が終わったのにも関わらず、世界を二分しての対立が続いていました。
そんな冷戦が終わったのが、1991年のソ連崩壊。つまり、40年以上続いた体制が崩れ去ったのです。
現在も感染症の流行や、戦争など、世界規模での変化は起き続けていますが、1990年代初頭の激動は、おそらく今よりも多くの人の価値観を強く揺さぶったのではないでしょうか。
また、当時は「世紀末」という不安も、人々が頭の片隅でなんとなく感じていたことでした。
インタビューでもそういった当時の状況を踏まえたと思われる質問が、ヘルムート・ラングに投げかけられています。
文化的薫りにあふれている街の中でも、ウィーンはかつて世紀末の文化現象の中心地となった街なわけで、その点で今再び世紀末を迎えつつあることからも、新たに何かしらの意味を持つ街であるのでは?
ヘルムート・ラングはこう答えます。
今、様々な面で新しい動きが起こりつつあり、同時に人々が不安と戸惑いを持っている点では、まったくこの前の19世紀末と同じですね。装飾的要素が少なく美しくて新しいと同時に機能性にもあふれているという、世紀末の建築や家具、工芸品の数々に接することがこの街では容易ですから、今現在の状況があの世紀末に似ていることは、実感できます。今の世の中は、例えばイスひとつにせよ、デザイン的に充分美しく、それと同時に腰掛けても気持よくリラックスできる、長持ちするイスを人々が求めている、と思うのです。時代が再びあの世紀末と同じような段階になってきたことは、大変に興味深いことです。新しい美意識が台頭し始め、新しい人間的価値観が生まれつつあることに、私は興味があります。
そもそも、世紀末という言葉が初めて多くの人々に意識されたのが、19世紀の世紀末だったそうです。
そんな19世紀の世紀末に活躍したのが、前回の記事でご紹介した、このインタビューで何度もその名が登場する建築家、アドルフ・ロースです。
ヘルムート・ラングは直接言及はしていませんが「装飾的要素が少なく美しくて新しいと同時に機能性にもあふれている」「世紀末の建築」には、当然アドルフ・ロースの作品も含まれているでしょう。
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そして、このインタビュー当時の20世紀末も19世紀末と同じように、人々は不安と戸惑いを感じており、そういった人々が求めるのはデザイン的に美しく、機能性があり、長持ちするモノである、とヘルムート・ラングは語ります。
この言葉通り、このインタビューから数年が経って更に世紀末が近づいた頃のヘルムート・ラングは「装飾的要素が少なく美しくて新しいと同時に機能性にもあふれている」コレクションを世に送り出します。
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↑のヘルムート・ラングのコレクションは1998年のものですが、それと同じ年に、同じようなシンプルを極めたコレクションを世に送り出したのが、ミウッチャ・プラダが出掛けていたプラダで。
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そして、ヘルムート・ラングの拠点であるオーストリアの隣に位置するドイツに生まれ、プラダと同じくミラノで活躍していたデザイナー、ジル・サンダーも洗練されたミニマルなデザインで当時のファッションシーンを牽引していました。
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ヘルムート・ラング、ミウッチャ・プラダ、ジル・サンダー。
ミニマルなデザインを得意とするこの3人のデザイナーが世界的な人気を集めた理由は単なるファッショントレンドだけでなく、世紀末という特別な時代を生きる人々がそういったデザインを求めていたからなのかもしれません。
次回に続きます。