流行通信1992年10月号のヘルムート・ラング特集のご紹介です。レディスがメインの雑誌です。
ヘルムート・ラングへのロングインタビューの続きです。
アドルフ・ロースから学ぶべきスピリット
第2回目の記事でもピックアップしたオーストリアの建築家、アドルフ・ロースについて再び触れられています。
アドルフ・ロースやオットー・ワーグナーといった世紀末の建築やデザインの巨匠の作品に日常的に接することのできる場所に暮らしていることは、大きな強みですね
この問いかけに対し、ヘルムート・ラングはこう答えます。(強調引用者)
彼らから私が学ぶ事柄といえば、その確信に満ちた姿勢かもしれません。例えば、有名なロースハウスは、建てられた当時は”マユのない目”と不評を買ったのです、新しい美意識をもって建てたのに、向かいの王宮に住む王は不快感を露にして、ロースとしてはがっかり。しかし、彼は自分自身の デザイン建築のスタイルを続け、今日ではモダンタイムズの巨匠として、高い評価を承知の通り受けています。彼のスピリットは真似るべきです。私はファッション、ロースは建築、とジャンルも時代も違うけれど
大いなる権威から批判されても自分のスタイルを変えないスピリットが必要だと、ヘルムート・ラングは語ります。
建築家オットー・ワーグナー
このインタビューでアドルフ・ロースと並んで挙げられているオットー・ワーグナーについてご紹介しておきましょう。
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オットー・ワーグナーはロースと同じくオーストリアの建築家です。ワーグナーは1841年生まれで、1870年生まれのロースよりもひとつ世代が上の建築家と言えるでしょう。
ワーグナーの建築は、19世紀の歴史主義と20世紀のモダニズムという、激しく対立する2つの要素を取り入れた上で絶妙なバランスで成立させたという点で評価をされています。
ワーグナー初期の名作が、保険会社アンカーが施主となって1893年に施工され、ウィーンの繁華街グラーベンに建った集合住宅軒店舗、アンカーハウスです。
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アンカーハウスのファサード(建物を正面から見たときの外観)は3層構成になっています。
主階である3階〜6階はクラシックな装飾が施されており、歴史主義そのもののデザインとなっています。
ですが、店舗が入る1、2階と屋上のペントハウスはガラス張りになっています。これは当時、非常にモダンかつ斬新なデザインでした。
ヘルムート・ラングが尊敬するオットー・ワーグナーの姿勢
オットー・ワーグナーの建築でヘルムート・ラングが深い感銘を受けたというのが、アム・シュタインホーフ教会です。アム・シュタインホーフの精神病院の附属施設であるこの教会は、ワーグナーの全体配置計画に基づいて精神病院施設と共に建設されました。
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ヘルムート・ラングはこの建築について、こう語っています。
ワーグナーは世の中から弾き出されたマイノリティの人々のために、この教会を建てました。金銭的に大きな負担になろうともかまわず、自分自身の才能のすべてを注ぎ込んで、心を病んでいる人々こそ神の助けを必要としているだろうと、立派な教会を建てたのです。それはとても素晴らしい姿勢だと思います。そんな心からワーグナーを尊敬してやみません。
アム・シュタインホーフ教会には精神病患者に配慮された機能が備えられています。例えば、4人だけが座れるゆったりとしたベンチは、万一の場合患者が看護人によって助け出されることが容易であるようにと配慮されたデザインだと考えられます。
ウィーンを近代的に変貌させたワーグナー
その後、ワーグナーは1895年ごろからヨーロッパの主要都市に急速に広がった新様式、アール・ヌーヴォーに接近します。
植物の有機的な曲線などからインスピレーションを受けた自由な装飾性や、鉄やガラスなどの新素材を用いたアール・ヌーヴォーは建築だけでなく、グラフィックデザインや工芸など様々な分野に影響を与えます。
アール・ヌーヴォーの影響を受けた作品の中でも名高いのが、現在もパリの街に遺っている、エクトール・ギマールによるメトロの出入り口です。
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アール・ヌーヴォーを通し、感覚的で自由な造形や、素材の扱いを身につけ、ワーグナーの建築はより都市的で洗練され、軽やかで透明感の満ちたものになっていきました。
その時代のワーグナーの代表作が、ウィーン市電です。
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ワーグナーは、環状線、ウィーン川・ドナウ川運河線、郊外線、ウィーン2区線の総計36の駅舎、それに鉄道橋、高架橋、切り通し、トンネル、擁壁などの鉄道施設を計画し、建設しました。この市電建設はウィーン川治水工事やドナウ運河改修工事と一体的に構想され、ウィーンを近代的なメトロポリスへと変貌させます。
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照明や手すり、案内板の文字などの細かい部分まで注意が払われています。
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今も市内に数多く残る市電の施設は、ヘルムート・ラングが愛するウィーンの街のイメージに大きな影響を与えていると言えるでしょう。
ヘルムート・ラングが語る、ウィーンがパリやニューヨークよりも優れているところ
そんなウィーンで創作活動を続けるヘルムート・ラングは、ウィーンの街の魅力について尋ねられ、こう答えています。
大都市の息吹を持ちながら、同時にごくプライヴェートなな雰囲気も持っている街で、世界でもここだけではないでしょうか。もちろん、東京やニューヨークのような文字通りの大都市ではありませんが、都会でありながら、プライヴェートに落ち着いて生活することができる街であることが、最大の魅力でしょう。確かに、都会の刺激という面ではそれほど強いものを、この街は持っていません。ファッション・デザイナーという私の仕事面を考えると、パリにいたほうがよいのかもしれません。ただ、それにしたところでも、この街にいると、物事を落ち着いてしっかりと考えることができるから、やはりここがよい。
世代を超えて受け継がれる創造
オットー・ワーグナーをはじめとした建築家たちが、19世紀末から20世紀初めに美しいウィーンの街を形作りました。
そして、そこから100年。
20世紀の終わりに登場したファッションデザイナー、ヘルムート・ラングはそのウィーンの街から強くインスパイアを受け、ウィーンを拠点に世界中に新しいファッションを発信します。
その影響はヘルムート・ラングがファッションデザインの第一線から退いてから約20年経つ今も、衰えが見られません。
そして、ヘルムート・ラングの影響を受けた新しい世代が、また新しい創造をしていくのでしょう。
アドルフ・ロースやオットー・ワーグナーが生み出した新しい創造は、このように世代を超えて受け継がれているのです。
参考文献:
次回に続きます。