90年代を中心に、昔のファッション誌のアーカイブを兼ねてご紹介する企画、ファッションアーカイブ。
これまでの記事はこちらから。
今回ご紹介するのは流行通信1992年10月号。レディスがメインの雑誌です。
神保町ディグで手に入れたのですが、僕が今号に惹かれたのはヘルムート・ラング特集だったから。ちなみに、表紙からもわかるように「ヘルムト・ラング」という表記になっていますが、この記事ではより「ヘルムート・ラング」で統一します。
ヘルムート・ラングと言えばペンキジーンズ
僕のように、90年代終盤のデザイナーズブームを体験した世代にとってヘルムート・ラングは非常に思い入れのあるデザイナーだと思います。
個人的には、当時のヘルムート・ラングの代名詞的アイテムであったペンキプリントのジーンズを真似して、手持ちのリーバイス501をペンキでカスタムしたという、若さが感じられる思い出もあります。
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ペンキジーンズは当時、かなりの人気のアイテムでした。
こちらの1999年の雑誌のストリートスナップで、カジュアルなスウェットにコンバースオールスターと合わせている人がいることからもわかるように、モード系のファン以外からも支持を集めていました。
僕の個人的としては、ヘルムート・ラングはミリタリーやワークをベースとした、ミニマルスタイルが得意な印象があります。
こちらは1998年のsmartに掲載された、セカンドラインのヘルムート・ラングジーンズの特集ですが、ラフな印象が強いアメカジをベースにしながらも、シンプルでクリーンな雰囲気に仕上がっている点が、当時は非常に新鮮でした。
ヘルムート・ラング本人がデザインを手掛けていた90年代から00年代初頭のコレクションを見ると、やはり目立つのがミリタリー。
ホワイトやベージュといった無垢で都会的な印象のカラーを同系色のグラデーションでまとめることで、無骨なミリタリーアウターをミニマルかつ新鮮に表現しています。
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また、ミニマルなデザインと組み合わせることで、ベルクロなどのミリタリーディティールの機能美をより際立たせた表現も、ヘルムート・ラングならではだと思います。
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同時代に活躍したイギリス人デザイナー、フセイン・チャラヤンも得意としていた、服のディティールを分解して遊んだようなデザインも、個人的には非常に好みのポイントです。
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フセイン・チャラヤンについてはまたいつか、力を入れてご紹介するつもりです。
高騰するヘルムート・ラングのアーカイブ
さて、そんなヘルムート・ラングですが、特に90年代のアイテムが「アーカイブ」として非常に人気が高まっています。
人気のミュージシャンなどが着用したことが大きな理由のようで、ヘルムート・ラングと同じようにラフ・シモンズなどのデザイナーズブランドの90年代のアイテムも「アーカイブ」として人気です。
人気が高くなると、市場価格も高くなります。例えば、こちらの上掲の画像の色違いと思われる、1998年のコレクションアイテムであるベルクロデザインのトップスには22万円の値が付いています。
HELMUT LANG 1998 S/S – Archive Store
ミリタリーを象徴するアイテムであるカーゴパンツを、ジップを加えることでリデザインしたパンツは13万円。
HELMUT LANG 1999 A/W – Archive Store
今回、20年以上の時を経て改めて見てみても、ヘルムート・ラングのデザインは新鮮さを全く失っていないことがわかります。
では、時代を超える魅力を持つ、ヘルムート・ラングのデザインはどのようにして生まれたのでしょうか。
初めて目にするヘルムート・ラング本人のインタビュー
考えてみると、ヘルムート・ラング本人のインタビューを僕は見た記憶がありません。
ヘルムート・ラングの人気が非常に高かった90年代終盤〜00年代前半のモード系ファッション誌にはたいてい目を通していたはずなんですが、ラング本人にフォーカスが当てられたことはほとんどなかったと思います。
インタビュー嫌いを公言している川久保玲のように、出来る限りそういった露出を控えていたのかもしれませんし、単純に僕が見落としていただけかもしれません。
まぁとにかく、今号が僕にとってはおそらく初めて目にするヘルムート・ラング本人のインタビューだったので、非常に新鮮でした。
これまでのファッションアーカイブは対象の雑誌のほぼ全ページをご紹介していましたが、今回はヘルムート・ラングに関するページのみをピックアップしてご紹介します。
まず誌面冒頭にはヘルムート・ラングの広告が。
そして始まるヘルムート・ラング特集。まず掲げられているキャッチコピーが秀逸です。
シンプルさの新しい定義を追求するウィーンの俊才
一見”シンプル”に見えるラングのデザインだが、それは盛り込まれた様々な要素が蒸留され、濃縮されて、そして過剰な要素が省かれた結果として”シンプル”に見えるだけなのだ
という一文には非常に共感。上掲の90年代のコレクションも、「過剰な要素が省かれた結果としてのシンプル」という表現がとてもしっくり来ますね。
そして、
彼のファッション・デザインは、しっかりとした文化的な背景によって支えられている
という一節は、今号の特集のコンセプトとも言えるでしょう。
アルプスの山で育った自然児
ヘルムート・ラング本人のロングインタビューはその生い立ちから始まります。ヘルムート・ラングの文化的な背景はどうやって育まれたのでしょうか。
生まれたのは、都会のウィーンでしたが、すぐにアルプス地方の田舎に行って育った
2000メートルの山々の中で育ちましたらから、自然児でした。テレビよりも、サッカーよりも、山や川で遊ぶのが好きな少年でした
「アルプス地方の田舎」言うと、僕が真っ先に思い浮かべるのがアルプスの少女ハイジですが、都会的なイメージのヘルムート・ラングがアルプスの少女ハイジで描かれているような牧歌的な環境で育ったと考えると、興味深いです。
ですが、高校生の頃にはウィーンに戻っていたようです。
情緒的教育を田舎で受け、それから都会で洗練された知的教育を受ける…バランスよく育てられてラッキーでした
と語っているように、田舎のアルプスと都会のウィーンという異なる環境の中で育ったことは、その後のヘルムート・ラングにとって大変価値があったようです。
知的なことに興味を抱くようになった理由
「知的なことに興味を抱き始めたのは」という問いに対して、ヘルムート・ラングはこう答えています。
そう18ぐらいかな、自分でも学ばねば、と意識したのは。それというのも、ウィーンという街に身を置いていると、自然にそうした気持になるからです。ごく日常的に周囲を古くからの文化に囲まれて、アーティストがアーティストとして暮らすことを見守る雰囲気にあふれていて…すると次第に誰に言われるでもなく、自然に自分から学ぼう、という気持になってゆくものです
環境が人をつくる、ということですね。この一節には3人の子供を持つ僕も、色々考えさせれます。
この街に住んで色々な人々と知り合い、様々に知的な会話を交わすうちに、本も読めば、展覧会に足を運んで、次第に自分自身を高めました
僕は以前パリに留学していたことがあったのですが、そのときに訪れたヨウジヤマモトの展覧会に地元の小学生が来ていたことに驚きました。
パリ留学中に行ったヨウジヤマモトの展覧会に地元の小学生が校外学習(多分)で来てるのにびっくりしました。
— 山田耕史 書籍「結局、男の服は普通がいい」発売中 (@yamada0221) 2021年12月8日
パリに住んでたらルーブルもオルセーもポンピドゥーもご近所だから、子供の頃からお散歩感覚で超一流に触れられるのはとても羨ましいなと思いました。 https://t.co/2K1wt3Smpb
ちなみに、このインタビュー当時にヘルムート・ラングのアトリエがあったのが、”証券取引所のすぐ脇というビジネス街の真ん中”だったそうですが、その証券取引所前の通りはこのような様子。この画像だけでも文化の薫りが感じられます。
ヘルムート・ラングのクリエーションの原点
アルプスの山で自然に囲まれ、情緒的な教育を受けたこと。
そして、青年期には古くからの文化に囲まれたウィーンで洗練された知的な教育を受けたこと。
この2つの、全く異なる環境で受けた教育が、タイムレスな魅力を持つヘルムート・ラングのクリエーションの原点になっているのでしょう。
この後のインタビューは、ウィーンで受けた影響の中でも特に大きかった、建築についての話題に移りますが、続きは次回で。