目次:
- 90sデザイナーズブランドブームを牽引したヘルムート・ラング
- 初めて目にするヘルムート・ラング本人のインタビュー
- アルプスの山で育った自然児
- アドルフ・ロースから学んだ文化
- 生活という視点からの秩序
- 服装で個性を主張する必要がなくなった
- ヘルムート・ラングにとって歴史的文化とは
- ファッションデザイナーになるつもりは全くなかった
- 「世紀末」という不安
- ヘルムート・ラングが尊敬するオットー・ワーグナーの姿勢
- ウィーンを近代的に変貌させたワーグナー
- 世代を超えて受け継がれる創造
- ヘルムート・ラングが語るミニマリズム
- 80年代のうるさいデザイン
- 従来の価値観を信じない新しい世代のデザイナー
- 近代建築の新様式を確立したウィーン郵便貯金局
- ”ラング前”と”ラング後”のファッション
- 過剰な要素が省かれた結果の”シンプル”
- 仕事仲間が語るヘルムート・ラングのデザイン
- ヘルムート・ラングが案内するウィーン
- アドルフ・ロースハウス
- 分離派教会
- シュタインホーフ教会
- 応用美術博物館
- 市立公園
- シュタール宮廊舎
- シェークスピア書店
- 「ザルザムト」レストラン
- カフェ「プリュクル」
- ワンナイト・クラブの「ソウル・セダクション」
- 自分の着る服の色にはもっと気を配るべき
今回ご紹介するのは流行通信1992年10月号。
表紙からもわかるように「ヘルムト・ラング」という表記になっていますが、この記事では「ヘルムート・ラング」で統一します。
90sデザイナーズブランドブームを牽引したヘルムート・ラング
僕のように、90年代終盤のデザイナーズブームを体験した世代にとってヘルムート・ラングは非常に思い入れのあるデザイナーだと思います。
ヘルムート・ラングのカジュアルラインであるヘルムート・ラング・ジーンズのペンキジーンズは当時かなりの人気のアイテムでした。
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1999年のストリートスナップで、カジュアルなスウェットにコンバースオールスターと合わせている人がいることからもわかるように、モード系以外からも支持を集めていました。
ヘルムート・ラング本人がデザインを手掛けていた90年代から00年代初頭のコレクションを見ると、目立つのがミリタリー。
ホワイトやベージュといった無垢で都会的な印象のカラーを同系色のグラデーションでまとめることで、無骨なミリタリーアウターをミニマルかつ新鮮に表現しています。
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また、ミニマルなデザインと組み合わせることで、ベルクロなどのミリタリーディティールの機能美をより際立たせた表現も、ヘルムート・ラングならではだと思います。
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初めて目にするヘルムート・ラング本人のインタビュー
誌面のご紹介に入ります。
冒頭にはヘルムート・ラングの広告。
そして始まるヘルムート・ラング特集。まず掲げられているキャッチコピーが秀逸です。(強調引用者以下同)
シンプルさの新しい定義を追求するウィーンの俊才
一見“シンプル”に見えるラングのデザインだが、それは盛り込まれた様々な要素が蒸留され、濃縮されて、そして過剰な要素が省かれた結果として“シンプル”に見えるだけなのだ
ヘルムート・ラングの魅力が端的に表現されています。
そして、
彼のファッション・デザインは、しっかりとした文化的な背景によって支えられている
という一節は、今号の特集のコンセプトと言えるでしょう。
アルプスの山で育った自然児
その“文化的な背景”はどうやって育まれたのでしょうか。
ヘルムート・ラング本人へのロングインタビューはその生い立ちから始まります。
生まれたのは、都会のウィーンでしたが、すぐにアルプス地方の田舎に行って育った
2000メートルの山々の中で育ちましたらから、自然児でした。テレビよりも、サッカーよりも、山や川で遊ぶのが好きな少年でした
情緒的教育を田舎で受け、それから都会で洗練された知的教育を受ける…バランスよく育てられてラッキーでした
「知的なことに興味を抱き始めたのは」という問いに対して、ヘルムート・ラングはこう答えています。
そう18ぐらいかな、自分でも学ばねば、と意識したのは。それというのも、ウィーンという街に身を置いていると、自然にそうした気持になるからです。ごく日常的に周囲を古くからの文化に囲まれて、アーティストがアーティストとして暮らすことを見守る雰囲気にあふれていて…すると次第に誰に言われるでもなく、自然に自分から学ぼう、という気持になってゆくものです
環境が人をつくる、ということですね。
この街に住んで色々な人々と知り合い、様々に知的な会話を交わすうちに、本も読めば、展覧会に足を運んで、次第に自分自身を高めました
このインタビュー当時、ヘルムート・ラングのアトリエがあったのが、”証券取引所のすぐ脇というビジネス街の真ん中”だったそうですが、その証券取引所前の通りはこのような様子。この画像だけでも文化の薫りが感じられます。
アドルフ・ロースから学んだ文化
様々なカルチャーが活動が集約されているこの1区で、私は学びながら働きもしました。ロースのような著名な建築家のことは、自然と学ぶことになり、そしてそうしたクラシックな文化のベースから、自分自身にとって何がどう大切かということを学びました
ロースとは、建築家のアドルフ・ロースのこと。
今号の特集でその名前や作品が何度も登場していることから伺えるように、ヘルムート・ラングにとってアドルフ・ロースは特別な存在だったようです。
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Wikipediaから引用します。
アドルフ・ロース(Adolf Loos, 1870年12月10日 - 1933年8月23日)は20世紀オーストリアの建築家。モダニズムの先駆的な作品を世に送り、「装飾は罪悪である」という主張は建築界に波紋を呼んだ。
彫刻家、石工であった父を持つロースは1870年、現在のチェコに生まれました。
ドレスデンの工科大学で3年間建築を学んだ後、23歳でアメリカに渡ります。レンガ積み職人や製図工、寄せ木職人などとして働きながら、アメリカの様々な都市で生活しました。
ウィキペディアをはじめとした多くのアドルフ・ロースに関する文章では、この在米中に見たアメリカの建築に大きな影響を受けた、とされています。
ですが、アドルフ・ロースの愛弟子であるハインリヒ・クルカが編著者を務めた書籍『アドルフ・ロース』にはこう記されています。
アメリカではまたシカゴの大博覧会を見学している。ロースは26歳の時ヨーロッポアに戻り、ヴィーンに腰を落ち着けた。装飾に反対する戦いが始まるが、これはしばしば誤って記述されているように、アメリカの建築から刺激を受けてのことではない。ロース自身が語るところによれば、こうした考えは新型のトランクをながめ、今日の衣服と現代の工芸や建築の在りかたと比べたときに浮かんできたもので、それがずっとのちになって出来上がった論文『装飾と犯罪』の中で熟した形となったのである。
アドルフ・ロースの代表作として挙げられることが多いのが、通称ロースハウス(1911年竣工)。
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今の価値観からは考えにくいことですが、このファサードのデザインが質素過ぎるということで問題になり、建築工事が何度も中断しました。妥協案として、いくつかの窓に花壇を設けることで、ロースハウスは完成に至りました。
「装飾は罪悪である」という言葉からは、全ての装飾を否定する徹底的なミニマリスト、というようなイメージが生まれがちですが、アドルフ・ロースによる建築物を見ると、そうではないことがわかります。
生活という視点からの秩序
例えば、こちらは代表作のひとつである、ミュラーハウス。竣工は1930年です。白一色の壁、整然と並んだ小さな窓など、外観のデザインは「装飾は罪悪である」を主張した人物らしく、非常にシンプルな印象。
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ですが、中に足を踏み入れると、その印象は一変します。曲線による装飾性のある家具。大理石の壁や、グラフィックが描かれた壁紙など、シンプルと呼ぶには程遠いほど装飾的です。
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参考
上掲の書籍では、アドルフ・ロースの作風についてこう記されています。
ロースは住まいから生活にとってマイナスとなるものはすべて排除し、必要不可欠なものをそれにふさわしい場所に置いた。ロースは装飾によってつけられたひっかき傷から物を癒やしてやったのである。
生活がもつ権利を認めてやることが、アドルフ・ロースにとってもっとも大切なことだった。ロースはあらゆるものを優しい心で吟味し、どんな小さなものでも無視したりしなかったが、それらすべてのものが、生活という視点からの秩序にしたがうことだけは要求した。家具が部屋全体の中での関係を考慮せずに置かれてはならなかった。ロースは家具をしかるべき場所に置き、あるいは作り付け、人間が自由に動けるようにした。装飾と戦うことによってロースは労働時間と素材を節約し、これまで想像だにされていなかった新しい空間の使いかたによって、現代人にふさわしい生活空間を創造してゆくのである。
アドルフ・ロースはただ単にシンプルなデザインを目指して装飾を排除していたのではなく、「生活という視点からの秩序」を重視し、いかに生活をより良くしていくかということに、情熱を燃やしていたのです。
服装で個性を主張する必要がなくなった
アドルフ・ロースは建築だけにとどまらず、新聞や雑誌に批評を寄稿するなど、記述家としても活躍しました。
書籍『にもかかわらず』はそんなロースによる、建築のみならずファッションや料理など、様々な分野に言及された寄稿などをまとめた書籍です。
ここで、ロースはファッションを例に、装飾について以下のように語っています。
装飾を剥ぎとることで、多くの芸術がそれまで想像もしえなかった高みに上りつめることになった。ベートーヴェンが作曲したような交響曲の数々は絹やビロード、レースの飾りのついた服を着て歩くような人間にはとうてい作曲しえなかっただろう。いまどきビロードの上着を着てうろついているような輩は、芸術家ではなく道化役者かペンキ塗りくらいのものだ。われわれはより洗練され、繊細になった。かつての愚民たちは色とりどりの服装のち外で自分の個性を出すしか方法を知らなかったが、現代人は体を包むものとしての服装を必要とするだけである。個人個人がしっかりした個を確立し、人間の個性が非常に強くなったため、もはや服装で個性を主張する必要がなくなったのだ。無装飾とは精神の力の証である
こういったアドルフ・ロースの作品や精神を踏まえた上で、彼をリスペクトするヘルムート・ラングの服を改めて見てみると、感じ方が違ってくるのではないでしょうか?
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特集の冒頭ページを再掲します。
一見”シンプル”に見えるラングのデザインだが、それは盛り込まれた様々な要素が蒸留され、濃縮されて、そして過剰な要素が省かれた結果として”シンプル”に見えるだけなのだ。彼のファッション・デザインは、しっかりとした文化的な背景によって點せられている。また、服創りのこころざしとなっているコンセプトにしても、充分に熟考され、意味を吟味されたものだ。それに”シンプル”な服そのものにしても、よく見れば微妙な色使いや素材選び、繊細な仕上げといったワザが見いだされる。
ヘルムート・ラングもアドルフ・ロース同様、ただ単純にデザインがシンプルなだけではありません。
ヘルムート・ラングのコレクションで発表されていたのは、デザイナーズブランドでありがちな、デザインのためのデザイン、というような服ではありません。
特にメンズは、ジーンズやシャツ、テーラードジャケットといった「生活のための服」をベースになっており、あくまでも「生活のための服」という目的を逸脱していません。
それが僕にはアドルフ・ロースの「生活という視点からの秩序」に重なるようの思えます。
前掲書「アドルフ・ロース」では本人のこんな言葉が紹介されています。
なにか新しいことを為してもよいのは、より良いものができるときだけである。(電灯や木質セメント屋根などの)新しい発明だけが、これまでの伝統に穴をあけるものなのだ。
近代精神は物が実用的であることをとりわけ要求する。近代精神にとって美とは最高度の完全さであり、また非実用的なものはけっして完全ではないのでから、それは同時に美しくないということになる。
ヘルムート・ラングの服は充分に実用的だと言えるでしょう。
加えて、まるで伝統に穴をあけるような新しさも兼ね揃えていました。
そんなヘルムート・ラングの服を毒舌家だったアドルフ・ロースが見たらどうコメントしたでしょうか。
ヘルムート・ラングにとって歴史的文化とは
歴史が自身の仕事の障害にならなかったか、という質問に対し、ヘルムート・ラングはこう答えます。
いいえ、ウィーンの歴史的文化は、私自身のカルチャー・ベースとなり、多大なものを与えてくれた財産という感じです。今の時代をとらえるため、そして未来を形成するためにも必要なこと、と思っていました。乗り越えなければならない障害とみなしたことはありませんね。
ヘルムート・ラングにとって、歴史的文化は「自分の基礎」であり、「今の時代をとらえるアンテナ」であり、「未来をつくるもと」であるということ。
つまり、クリエーションの原点であると言えると思います。
ヘルムート・ラングの作風は歴史的という印象はありません。
とてもモダンで、発表されてから20年以上経つコレクションでも、どちらかと言うと未来を感じる人が多いのではないでしょうか。
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そんなヘルムート・ラングのクリエーションの源が「歴史的文化」であると名言していたことは、意外でもありましたが、歴史を学ぶことの重要性を再認識することにもなりました。
ファッションデザイナーになるつもりは全くなかった
続いてのファッションデザインの道にいつ入ったのか?という問いに対するヘルムート・ラングの答えです。
ファッション・デザインの勉強をしていたわけでもないし、正直なところデザイナーになるつもりは、まるでなかったんです。何かしらクリエイティブな仕事には就いてみたい、とは思っていましたが。だから、いつの間にか素材やカットなど知識を得て、次第にこの道に入った、ということなのです。絶対にデザイナーになる!といったことではありませんでした。
ファッションデザイナーになるつもりは全くなかったという、こちらも意外な回答。
しかしながら、1979年にスタートさせたファッションデザイナーの仕事は、こう語っているように順調だったようです。
当時創ったのは、とても単純なデザインの服で、今のようにボディのラインを考慮に入れたデザインではありませんでしたから。何より、それを創りたくても第一どう作ってよいのか、知識も経験もありませんでした(笑)。
もちろん、今見たらとても滑稽でしょうが、当時は満足していました、最初の服としては素晴らしいものでしたね、ちゃんと売れましたし
続いての、発表された服を手元に残すことはないのかという問いに対するヘルムート・ラングの返答がこちら。
服をとって置いたことはありません。私にとっては、それって無意味だから。興味がないのです、ミュージアムのように保存する感覚になれません。それも、他人が評価してくれて、その服がどうのこうのということはあるでしょうが、自分からはちょっと。私の服が重要かどうかは、誰かが判断してくれるでしょう
現在、ヘルムート・ラングのつくった服は「アーカイブ」として非常に高く評価されています。
「世紀末」という不安
このインタビューが掲載さているのは流行通信の1992年10月号。
前年の1991年の1月にはイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争が勃発。12月にはソビエト連邦が崩壊します。
世界中を巻き込んだ、文字通りの世界大戦であった第二次世界大戦が終結したのが1945年。
その戦勝国であるアメリカとソ連は、それぞれが資本主義と社会主義の盟主となり、それぞれを支援する機構や同盟が生まれ、戦争が終わったのにも関わらず、世界を二分しての対立が続いていました。
そんな冷戦が終わったのが、1991年のソ連崩壊。つまり、40年以上続いた体制が崩れ去ったのです。
現在も感染症の流行や、戦争など、世界規模での変化は起き続けていますが、1990年代初頭の激動は、おそらく今よりも多くの人の価値観を強く揺さぶったのではないでしょうか。
また、当時は「世紀末」という不安も、人々が頭の片隅でなんとなく感じていたことでした。
インタビューでもそういった当時の状況を踏まえたと思われる質問が、ヘルムート・ラングに投げかけられています。
文化的薫りにあふれている街の中でも、ウィーンはかつて世紀末の文化現象の中心地となった街なわけで、その点で今再び世紀末を迎えつつあることからも、新たに何かしらの意味を持つ街であるのでは?
ヘルムート・ラングはこう答えます。
今、様々な面で新しい動きが起こりつつあり、同時に人々が不安と戸惑いを持っている点では、まったくこの前の19世紀末と同じですね。装飾的要素が少なく美しくて新しいと同時に機能性にもあふれているという、世紀末の建築や家具、工芸品の数々に接することがこの街では容易ですから、今現在の状況があの世紀末に似ていることは、実感できます。今の世の中は、例えばイスひとつにせよ、デザイン的に充分美しく、それと同時に腰掛けても気持よくリラックスできる、長持ちするイスを人々が求めている、と思うのです。時代が再びあの世紀末と同じような段階になってきたことは、大変に興味深いことです。新しい美意識が台頭し始め、新しい人間的価値観が生まれつつあることに、私は興味があります。
そもそも、世紀末という言葉が初めて多くの人々に意識されたのが、19世紀の世紀末だったそうです。
そんな19世紀の世紀末に活躍したのが、アドルフ・ロースです。
ヘルムート・ラングは直接言及はしていませんが「装飾的要素が少なく美しくて新しいと同時に機能性にもあふれている」「世紀末の建築」には、当然アドルフ・ロースの作品も含まれているでしょう。
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そして、このインタビュー当時の20世紀末も19世紀末と同じように、人々は不安と戸惑いを感じており、そういった人々が求めるのはデザイン的に美しく、機能性があり、長持ちするモノである、とヘルムート・ラングは語ります。
この言葉通り、このインタビューから数年が経って更に世紀末が近づいた頃のヘルムート・ラングは「装飾的要素が少なく美しくて新しいと同時に機能性にもあふれている」コレクションを世に送り出します。
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↑のヘルムート・ラングのコレクションは1998年のものですが、それと同じ年に、同じようなシンプルを極めたコレクションを世に送り出したのが、ミウッチャ・プラダが出掛けていたプラダで。
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そして、ヘルムート・ラングの拠点であるオーストリアの隣に位置するドイツに生まれ、プラダと同じくミラノで活躍していたデザイナー、ジル・サンダーも洗練されたミニマルなデザインで当時のファッションシーンを牽引していました。
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ヘルムート・ラング、ミウッチャ・プラダ、ジル・サンダー。
ミニマルなデザインを得意とするこの3人のデザイナーが世界的な人気を集めた理由は単なるファッショントレンドだけでなく、世紀末という特別な時代を生きる人々がそういったデザインを求めていたからなのかもしれません。
アドルフ・ロースやオットー・ワーグナーといった世紀末の建築やデザインの巨匠の作品に日常的に接することのできる場所に暮らしていることは、大きな強みですね
この問いかけに対し、ヘルムート・ラングはこう答えます。
彼らから私が学ぶ事柄といえば、その確信に満ちた姿勢かもしれません。例えば、有名なロースハウスは、建てられた当時は”マユのない目”と不評を買ったのです、新しい美意識をもって建てたのに、向かいの王宮に住む王は不快感を露にして、ロースとしてはがっかり。しかし、彼は自分自身の デザイン建築のスタイルを続け、今日ではモダンタイムズの巨匠として、高い評価を承知の通り受けています。彼のスピリットは真似るべきです。私はファッション、ロースは建築、とジャンルも時代も違うけれど
大いなる権威から批判されても自分のスタイルを変えないスピリットが必要だと、ヘルムート・ラングは語ります。
ヘルムート・ラングが尊敬するオットー・ワーグナーの姿勢
このインタビューでアドルフ・ロースと並んで挙げられているオットー・ワーグナーについてご紹介しておきましょう。
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オットー・ワーグナーはロースと同じくオーストリアの建築家です。ワーグナーは1841年生まれで、1870年生まれのロースよりもひとつ世代が上の建築家と言えるでしょう。
ワーグナーの建築は、19世紀の歴史主義と20世紀のモダニズムという、激しく対立する2つの要素を取り入れた上で絶妙なバランスで成立させたという点で評価をされています。
ワーグナー初期の名作が、保険会社アンカーが施主となって1893年に施工され、ウィーンの繁華街グラーベンに建った集合住宅軒店舗、アンカーハウスです。
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アンカーハウスのファサード(建物を正面から見たときの外観)は3層構成になっています。
主階である3階〜6階はクラシックな装飾が施されており、歴史主義そのもののデザインとなっています。
ですが、店舗が入る1、2階と屋上のペントハウスはガラス張りになっています。これは当時、非常にモダンかつ斬新なデザインでした。
オットー・ワーグナーの建築でヘルムート・ラングが深い感銘を受けたというのが、アム・シュタインホーフ教会です。アム・シュタインホーフの精神病院の附属施設であるこの教会は、ワーグナーの全体配置計画に基づいて精神病院施設と共に建設されました。
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ヘルムート・ラングはこの建築について、こう語っています。
ワーグナーは世の中から弾き出されたマイノリティの人々のために、この教会を建てました。金銭的に大きな負担になろうともかまわず、自分自身の才能のすべてを注ぎ込んで、心を病んでいる人々こそ神の助けを必要としているだろうと、立派な教会を建てたのです。それはとても素晴らしい姿勢だと思います。そんな心からワーグナーを尊敬してやみません。
アム・シュタインホーフ教会には精神病患者に配慮された機能が備えられています。例えば、4人だけが座れるゆったりとしたベンチは、万一の場合患者が看護人によって助け出されることが容易であるようにと配慮されたデザインだと考えられます。
ウィーンを近代的に変貌させたワーグナー
その後、ワーグナーは1895年ごろからヨーロッパの主要都市に急速に広がった新様式、アール・ヌーヴォーに接近します。
植物の有機的な曲線などからインスピレーションを受けた自由な装飾性や、鉄やガラスなどの新素材を用いたアール・ヌーヴォーは建築だけでなく、グラフィックデザインや工芸など様々な分野に影響を与えます。
アール・ヌーヴォーの影響を受けた作品の中でも名高いのが、現在もパリの街に遺っている、エクトール・ギマールによるメトロの出入り口です。
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アール・ヌーヴォーを通し、感覚的で自由な造形や、素材の扱いを身につけ、ワーグナーの建築はより都市的で洗練され、軽やかで透明感の満ちたものになっていきました。
その時代のワーグナーの代表作が、ウィーン市電です。
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ワーグナーは、環状線、ウィーン川・ドナウ川運河線、郊外線、ウィーン2区線の総計36の駅舎、それに鉄道橋、高架橋、切り通し、トンネル、擁壁などの鉄道施設を計画し、建設しました。この市電建設はウィーン川治水工事やドナウ運河改修工事と一体的に構想され、ウィーンを近代的なメトロポリスへと変貌させます。
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照明や手すり、案内板の文字などの細かい部分まで注意が払われています。
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今も市内に数多く残る市電の施設は、ヘルムート・ラングが愛するウィーンの街のイメージに大きな影響を与えていると言えるでしょう。
そんなウィーンで創作活動を続けるヘルムート・ラングは、ウィーンの街の魅力について尋ねられ、こう答えています。
大都市の息吹を持ちながら、同時にごくプライヴェートなな雰囲気も持っている街で、世界でもここだけではないでしょうか。もちろん、東京やニューヨークのような文字通りの大都市ではありませんが、都会でありながら、プライヴェートに落ち着いて生活することができる街であることが、最大の魅力でしょう。確かに、都会の刺激という面ではそれほど強いものを、この街は持っていません。ファッション・デザイナーという私の仕事面を考えると、パリにいたほうがよいのかもしれません。ただ、それにしたところでも、この街にいると、物事を落ち着いてしっかりと考えることができるから、やはりここがよい。
世代を超えて受け継がれる創造
オットー・ワーグナーをはじめとした建築家たちが、19世紀末から20世紀初めに美しいウィーンの街を形作りました。
そして、そこから100年。
20世紀の終わりに登場したファッションデザイナー、ヘルムート・ラングはそのウィーンの街から強くインスパイアを受け、ウィーンを拠点に世界中に新しいファッションを発信します。
その影響はヘルムート・ラングがファッションデザインの第一線から退いてから約20年経つ今も、衰えが見られません。
そして、ヘルムート・ラングの影響を受けた新しい世代が、また新しい創造をしていくのでしょう。
アドルフ・ロースやオットー・ワーグナーが生み出した新しい創造は、このように世代を超えて受け継がれているのです。
ヘルムート・ラングが語るミニマリズム
自身のデザインが”ミニマリズムのファッション”と呼ばれることに関してどう思うのか?という質問に対して、ヘルムート・ラングはこう答えます。
”ミニマリズム”という言葉をどう解釈するかで異なるでしょう。ただ単に”シンプルなデザイン”という意味で呼ぶのであれば、違います、それは。難しいことですが、こう説明させて下さい。私がデザインするとき、私は自分を表現すると同時に、そのファッションを着る人が、どう自分を表現するかも考慮します。私も表現者としてアーティスティックなことをしたい気持があるし、だからといって表現したものには責任を負うべきでもある。そこで、私はデザイン要素を凝縮するようにしているのです。美しいファッションで、様々な人々によって着られ、その様々な人々の各々異なったパーソナリティを表現するような服……それを実現しようと考えたなら、明確で力強く分かりやすいデザインにしなければならない、ということなのです。だから、その服に着る誰もが自分を表現できる余地をゆったりと与えられたデザイン、という意味でならば、”ミニマリズム”と呼ばれても結構。それに、私自身のデザインの流れで、’80年代と比較すると今シンプルによりなっているという意味でならば、それも結構。ただ、私は装飾性の高いファッションもデザインしていますよ(笑)。
80年代のファッションはヘルムート・ラングにとっては忌むべき存在だったのでしょうか?ヘルムート・ラングはこうも語っています。
私としては、表面的で見た目のセンセーションを狙ったうるさいデザインが主流だったあの’80年代がようやく終わり、私がずっと追い続けている、内的なエモーショナルの表現を助けるような、充分にソフィスティケートされたデザインが求められ始めた、と思っています。もちろん、私と同様に内的な美を大切にしたいと主張する新しい世代のデザイナーが登場するに及んで、私としてもますます自身を深めました。
僕としては、ここで触れられている「内的なエモーショナルの表現を助けるような、充分にソフィスティケートされたデザイン」が、ミニマリズムのファッションの定義として相応しいのではないでしょうか。
80年代のうるさいデザイン
では、”表面的で見た目のセンセーションを狙ったうるさいデザインが主流だったあの’80年代”のファッションとはどういうものだったのでしょうか。
70年代にファッションの発信源がオートクチュールからプレタポルテに移行し、80年代はまさにプレタポルテの絶頂期。
そして、そんなを代表するファッションデザイナー
「80年代」を代表するファッションデザイナーがのひとりがクロード・モンタナです。
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80年代はこのクロード・モンタナのような、強調された肩、絞られたウエスト、ボリュームのあるシルエット、多彩な色使いのデザインが主流。
これをヘルムート・ラングが”うるさいデザイン”と評するのは、頷けます。
今回ご紹介している流行通信は1992年発行。
なので当然80年代は終わっているのですが、他のページに掲載されているファッションには、まだまだ80年代の影響が強いことが感じられます。
これに対し、同じくこの号に掲載されているヘルムート・ラングの最新コレクションがこちら。
こうやって比較すると、ヘルムート・ラングのデザインが当時いかに斬新だったのかがよくわかるのではないでしょうか。
従来の価値観を信じない新しい世代のデザイナー
さて、上掲のインタビューでヘルムート・ラングが挙げている「私と同様に内的な美を大切にしたいと主張する新しい世代のデザイナー」は、おそらく同時期に頭角を現し始めたジル・サンダーやミウッチャ・プラダのことではないかと思います。
第1回目の記事でもご紹介したように、90年代初頭はソビエト連邦崩壊や湾岸戦争など、社会全体が大きな変革を迎えていた時代でした。
そんな時代について、ヘルムート・ラングはこう語っています。
社会を構成している人々がファッションを着るわけですから、ファッションも当然んあがら、社会と同調して変化すべきでしょう。社会全体が激変していることは、政治経済社会の動きを見れば明らかでしょう。エコロジー、エイズ、ソビエトの解体などに代表される多くの問題によって、単なる表面的な変化ではなく、社会のシステムそのものに、根本的な変化が起こっています。
生きて行く上での価値観が決定的に変化したのです。従来の古い価値観をもう信じない、新しい世代が台頭し始めたのです。
1943年生まれのドイツ人デザイナー、ジル・サンダーは1973年にパリコレクションデビューを飾りますが、1980年には撤退。1980年代後半にミラノに拠点を移してから注目を集めるようになり、1990年代初頭にはトップデザイナーとして、ファッションシーンを牽引していました。
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ミウッチャ・プラダがデザインを手掛けるプラダがデビューを飾ったのは1988年。当初の評価は芳しくなく、ミウッチャ・プラダ自身も後に、「根本的に間違った方向に向かっていた」と述懐するくらいのコレクションでした。ですが、1990年代に入るとデザイナーとしてのアイデンティティが確立され始め、徐々に注目度を高めていました。
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ヘルムート・ラングと同じく、ジル・サンダーもミウッチャ・プラダも80年代に人気だったファッションデザイナーとは全く違った価値観を持っていることが充分に想像できます。
近代建築の新様式を確立したウィーン郵便貯金局
このように、当時のヘルムート・ラングは新しい価値観のもとで、新しいファッションデザインを提案していました。
ここで再びご紹介するのが、ヘルムート・ラングが尊敬する建築家、オットー・ワーグナーです。
オットー・ワーグナーのキャリアの中でも後期の作品であるウィーン郵便貯金局。
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ファサードには花崗岩や白大理石が張られていますが、これらの被覆材をボルトで留め、更にそのボルトの頭をアルミニウムで仕上げることで、装飾を排しながらも装飾に代わる視覚的、装飾的効果を打ち出しています。
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他にも、内装にはガラスやアルミニウムがふんだんに用いられており、静謐で、明るく透明感のある空間を生み出しています。
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このウィーン郵便貯金局のデザインはヘルムート・ラングの作品に通ずるものがあるのではないでしょうか。
ウィーン郵便貯金局は、ワーグナーが建築から歴史主義様式を駆逐し、近代建築の新様式を確立した作品だと評価されています。
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それと同じように、ヘルムート・ラングもファッションの新様式を確立したデザイナーのひとりだと言えそうです。
ヘルムート・ラング自身の言葉を借りれば、そのファッションの新様式とは着る人のパーソナリティを表現する服。
外的な美だけでなく、内的な美も大切にする服。
長く続いたインタビューは、ヘルムート・ラングのこの言葉で締め括られています。
肝心なのは、女性が着て美しいこと。自分自身が新鮮に感じられるような服でなくては
続いては、”これが私のファッション・イメージ デザイナー本人によるデザイナー本人のデザインのための4頁”。
”あと4ページ分の誌面を欲しいというリクエスト”による、”デザイナーが自ら、自身のイメージを具体的に提案してくれる”企画。
つまり、ヘルムート・ラング本人によるヴィジュアルページということでしょう。
”ラング前”と”ラング後”のファッション
そして、次の企画は”ラングの世界を支える素晴らしき友人たち”。ヘルムート・ラングの仕事仲間の紹介ですね。
1人目はプレスのミッシェール・モンターニュはこう語ります。
ここしばらくファッション界に新しい世代が登場していなかった感じがします。ヘルムトは久しぶりの新しい才能です。私はいつも”ラング前”と”ラング後”という言い方をするんですよ。ラング前のファッションは、女性の外見を見せるためのファッションだった。そして、ラング後のファッションは、女性の内面を映し出すためのファッションになった、と。すなわち、ヘルムトが”内面美を表出する女性”を理想の女性像として提案したことによって、ファッションが変わり始めたと思うのです。
この内容は、上掲のヘルムート・ラング本人のインタビューでも触れられています。ヘルムート・ラングは自身の服について、”美しいファッションで、様々な人々によって着られ、その様々な人々の各々異なったパーソナリティを表現するような服”と語っています。
ミッシェール・モンターニュはこう続けます。
’90年代に入って、そうした新しい考え方のファッションが台頭して来たと思うのですが、その口火を切りファッションの主流にまでした勇敢なデザイナーがヘルムト・ラングだった、と私は見なしています。もちろんのこと、彼以前にヨージやカワクボたちが、シンプルに見えても背景には文化がしっかりとある、ということを既に常識として広めてくれていたことを絶対に忘れてはならないでしょう。
ここで山本耀司と川久保玲の名前が出てくるとは思いませんでした。
こちら↓の記事でも詳しくご紹介していますが、1980年代の山本耀司と川久保玲による「黒の衝撃」は、当時のファッション界に文字通り大きな衝撃を与えました。
ただ、僕にとって意外だったのは、山本耀司と川久保玲が”シンプルに見えても背景には文化がしっかりとある、ということを既に常識として広めてくれていた”と評されている点。
80年代はカラフルな色使いや極端に強調された肩や絞られたウエスト、そしてきらびやかなアクセサリーといった、装飾的なファッションが主流でした。
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それに比べると、コムデギャルソンやヨウジヤマモトのほぼ黒一色のデザインは非常にシンプルだと言えるでしょう。
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そして、 ミッシェール・モンターニュはこのような山本耀司、川久保玲の”シンプルな”デザインの背景には文化がしっかりとある、と指摘しています。
過剰な要素が省かれた結果の”シンプル”
この流行通信1992年10月号のヘルムート・ラング特集の冒頭に掲載されている文章から、当時”シンプル”が表層的なブームになっていたことが伺えます。
気がついてみれば、”シンプル”という言葉が、ファッション界に氾濫していた。いつの間のことだろう?
とりあえず、”シンプル”の文字をテーマにつけてさえおけば、ファッションは”今”の輝きを持つようになった。
つまり、当時の”シンプル”は軽薄なトレンドワードになっていた、ということでしょう。
そして、おそらくですが当時は”シンプル”を謳いながらも、「何もしていないだけ」の”似非シンプル”が跳梁跋扈していたと思われます。
ですが、ヘルムート・ラングの”シンプル”はそんな”似非シンプル”とは一線を画していました。
ラングの”シンプル”が単なる”シンプル”でないことは、周知の事実。一見”シンプル”に見えるラングのデザインだが、それは盛り込まれた様々な要素が蒸留され、濃縮されて、そして過剰な要素が省かれた結果として”シンプル”に見えるだけなのだ。彼のファッション・デザインは、しっかりとした文化的な背景によって支えられている。
それに”シンプル”な服そのものにしても、よく見れば微妙な色使いや素材選び、繊細な仕上げといったワザが見いだされる。
つまり、”シンプル”なデザインをプロダクトで成立させるには、卓越したものづくりの知識と技術が必要だということでしょう。
仕事仲間が語るヘルムート・ラングのデザイン
脱線が長くなってしまいましたが、誌面の”ラングの世界を支える素晴らしき友人たち”に戻って、ヘルムート・ラングの仕事仲間の言葉から、ヘルムート・ラングのデザインの特徴について更に深堀りしてみましょう。
まずは、ヘルムート・ラングのファッションイメージの撮影している写真家、エルフィ・セモタン。
デビュー当時は、ヘルムトのアイデアがどこから来たのかが、とても分かりやすかったと思います。オーストリアという地方の持つ伝統的な世界の色が強く出た、シンプルで美しいデザインをベースにしていることが直ぐに感じ取れました。しかし、今のヘルムトのデザインはより抽象的になってそのルーツが一目では分からなくなりました。よりソフィスティケートされた、といってもよいでしょう。もちろんのこと、年々自分自身のファッションスタイルに自信をつけていることはよく分かりますし、より個性的なデザインになっていることも、はっきりと見てとれます。
続いては、ヘルムート・ラングのアシスタントを務めるクリスチャン・ニーセン。
僕が素晴らしいと感じるのは、ヘルムトの控え気味な表現の仕方です。何かの主張があっても、それが必ずしも見える形として提示されることはない、どこかしら控えた感じ、それはヘルムト独自の世界です。あと、ヘルムトほど、彼自身のパーソナリティに近いところからファッションを創り出しているデザイナーはいません。
アーティストのクルト・コーヘルシェットはこう語ります。
彼のデザインするファッションには、何かしら引っ掛かるところがあります。デザインのどこをとっても素晴らしいというのではなく、どこかしらに何かしらの違和感がある。だから、退屈なデザインとは一線を画するものになっています。それは私がアートで試みていることとまるで同じなのです。色彩とフォルムを可能な限りそぎ落とす作業をしているのです。彼も私も。
この流行通信が発売された1992年の11月に亡くなってしまったクルト・コーヘルシェット。現在、彼のインスタグラムアカウントに作品がアップロードされています。やはり、どことなくヘルムート・ラングのコレクションに通ずる雰囲気が感じられるのではないでしょうか。
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ヘルムート・ラングが案内するウィーン
ヘルムート・ラング特集、最後は”ウィーンの街をラングが案内する”という、面白い企画。
ヘルムト・ラングにとってウィーンの街に暮らしの基盤を置き、デザイン活動をしているということの意味は大きい。彼はこの街に大いに魅かれ、街との関わりの中から自分自身のファッション・スタイルから生き方のスタイルまでを創り出してきたからだ。ウィーンを愛してやまぬそんなラングに、コメントをもらいながらゆっくりと案内してもらおう
そう、ヘルムート・ラングのコメント付きのウィーン観光ガイドということです。
そして、この企画で紹介されている場所は全てこちらのグーグルマップのマイマップに保存しているので、もしウィーンに行く機会があれば是非ご活用いただきたいですし、ストリートビューで気分だけでも味わうのも一興かと思います。
さて、最初に挙げられているのが"BLACK MARKET SHOP"というレコードショップ…ですが、現在はもう営業していないようです。
ラングはCDを買わない。必ずレコードを買い求めるという。別に音質にマニアックに凝るタイプではないのだが、レコードに針を落として聴く、という今ではもうはっきりいってクラシカルになってしまった温かみのある行為が好きなのだ、という。
アドルフ・ロースハウス
次は、アドルフ・ロースハウス。
ヘルムート・ラングが強く影響を受けた建築家、アドルフ・ロースについてはこちらの記事で詳しくご紹介しています。
分離派教会
3つ目のスポットは分離派教会。
こちらはセセッション館とも呼ばれる展示会館。
インスタグラムアカウントもあり、現在も様々なアート作品が展示されたり、イベントが開催されているようです。
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分離派教会は、19世紀末に結成された若手芸術家集団、ウィーン分離派が建設した施設です。
世紀末の建築家、ヨーゼフ・マリア・オルブリヒが設計し、1989年に建てられた有名な分離派会館の屋根の上に乗っている通称”金色のキャベツ”の写真。金色の透かしは月桂樹をモチーフにしていて、この下にある青銅の扉はグスタフ・クリムトが作っている。
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なぜ、分離派と呼ばれるかといえば、世紀末に皇帝や貴族の助けをかりることなく、新しいアート・ムーブメントである<ユーゲントシュティール>、すなわち”アールヌーボー”を興こそうと志したクリムトやエゴン・シーレ、モーザ、ホフマンといった芸術家たちが、古い組織から離れて集ったところから、その名がついた。ラングは、分離派たちの新しい芸術の流れを作ろうと独立した力強い姿勢に共感を受けるといい、その動きのシンボルとしての会館に魅力を感じるという。
シュタインホーフ教会
シュタインホーフ教会を数年前に初めて訪れたとき、ラングはとても深い感銘を受けたという。オットー・ワーグナーが設計し、1989年から1899年にかけて建築されたこの教会は、ウィーン市郊外の精神病院の敷地内の見晴らしのよい丘の上に建っている。どちらかというと地味な外見に比べ、内部は斬新できらびやかなステンドグラスや壁画に囲まれているのだが、ラングが感激したのはそうしたデザイン面での素晴らしさだけではなく、ワーグナーが教会に精神病院を建てた姿勢そのものに対してだった。
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ラングは言う”ワーグナーは世の中から弾き出されたマイノリティの人々のために、この教会を建てました。金銭的に大きな負担になろうともかまわず、自分自身の才能のすべてを注ぎ込んで、心を病んでいる人々こそ神の助けを必要としているだろうと、立派な教会を建てたのです。それはとても素晴らしい姿勢だと思います。そんな心からワーグナーを尊敬してやみません”
応用美術博物館
オーストリア応用美術博物館には、グラスや陶器、家具などの中世からのコレクションと同時に、ヨーゼフ・ホフマンの家具やユーゲントシュティールの食器などデザイン的に興味深い工芸品が集められている。
ウィーンの生み出したデザインの枠が展示されているというので、ラングな好きな博物館のひとつだ。
応用美術博物館のYouTubeチャンネルがあり、展示の解説やセミナーなどの動画が公開されています。
市立公園
市立公園は1862年に開園したウィーンで最初に作られた市の公園で、人々の憩いの場所となっている。
まだデザイナーとして出発する前の青年ラングは、この公園を横切って友人たちの集まるカフェに通ったという。そして、ときには公園の中をぶらぶらしていろいろと思索に耽ったそうだ。歩くことが好きなラングは、今回の取材でもクルマを待たせたまま我々を案内し、公園を2度縦断した。
シュタール宮廊舎
旧王宮や国立オペラ座あたりは、特に観光客が多く集まるところだが、ラングは比較的静かな通りを知っている。国立オペラ座に抜ける道は有名なスペイン乗馬学校や、アウグスティーナ教会、映画「第三の男」のシーンで知られるラヴィチーニ宮、モーツァルトが親しい友人たちとのコンサートを楽しんだというバルフィ宮などの名所が並ぶものの、なぜか静かな通りだ。ラングは誰もが注目する観光建築物よりも、忘れ去られたように建つ改装中のシュタール宮の廊舎に古いウィーンの街を感じるという。同じようにミヒャエル門のように人々の注目を真正面から受け止めているものよりも、その横に質素に置かれた石像にいかにもウィーンらしい落ち着きに溢れた街の雰囲気を感じる、という
シェークスピア書店
「シェークスピア&カンパニー」はラングがよく食事に行くレストランの道すがらにある書店だ。セント・ルパーツ教会の広場前には数軒のレストランが集まり、テラスのテーブルで夕食を楽しむ人々で賑わうのだが、そんな賑わいのざわめきもこの書店の中に入るとまるで嘘のように聞こえず、まるで図書館のように静かそのもの。ラングは洋書を中心にアート・ブックから話題のハード・カヴァー、雑誌まで揃えた書棚を熱心に眺める。彼のアトリエの書棚に収められた様々ななアールヌーボーやポップアートなどのアート・ブックからファッション写真集などの多くは「シェークスピア&カンパニー」で買い求めたもの。この日、ラングは近所のキオスクで彼の服が掲載されているファッション雑誌を数冊買ってしまっていたので、店主に”何か面白い本はある?”と尋ね、ないと分かるとフォトグラファーのセモタンの幼い次男坊に子供の本を買ってプレゼントしてあげたのだった。優しいのだ、ラングは。
「ザルザムト」レストラン
「レストラン・ザルザムト」は、昔ドナウ運河を行き来した船のための倉庫だったスペースを改造したレストラン。ラングのアトリエからはブラブラ歩きで10分ほどのところにある。
彼いわく”ウィーンで一番美味しい料理を食べさせてくれるレストラン”とのこと。おすすめのメニューは?とラングに尋ねると、”メニューに書いてあるものどれも美味しいですよ。だから、この一品とは決められません。私のように昨日がこれだったから、今日はこれで、明日はこれにしよう、といろいろ試しに何年も通っても、まだどれが一番か分からない”と笑う
カフェ「プリュクル」
ウィーンといえば、カフェ発祥の地。ウィーンっ子ならば誰しも行きつけのカフェの2〜3軒は持っているのが当然と言われる。「カフェ・プリュクル」はラングがまだファッション・デザイナーとしてデビューする前に、学生時代よく通ったカフェだ。応用美術博物館の向かいにある古いカフェで、ラングはそこで多くのアーティストや作家たちと友達になったという。
ワンナイト・クラブの「ソウル・セダクション」
「ソウルセダクション」は、毎週月曜日の晩にだけ催されるウィーンの街で、一番刺激的なワンナイトクラブだ。
昼間は何の変哲もないただのカフェだけれど、月曜日の晩10時をすぎる頃からガラッと雰囲気が代わる。DJがジャジーなダンス・ミュージックをかけ始め、ペントハウスの屋根を開けてオープンハウスにし、奥のガーデンのバー・カウンターにオーダーが殺到すると、あっという間に「ソウル・セダクション」は佳境に入る。ラングもクラブ・クィーンのマリアンヌに挨拶したり、モデルのヤズミンに声を掛けたり、久しぶりにLAから戻って来たヘアメイクのアーティストと最下位の握手をしたりで忙しい。
”毎月曜の晩の「ソウル・セダクション」にはどんなに忙しくても、どんなに疲れていても必ず遊びに来ます。仲間に会って話をして、ウィーンで一番のDJがかける音を聴いていると、何もかも忘れられて楽しいから”とラングは言う。この晩もラングはここで3時まで遊んだ。
自分の着る服の色にはもっと気を配るべき
次のページは、この頃の流行通信の連載記事だったと思われる”辞書遊び”。
ウィーン取材の最終日、レストランのテーブルでデザートを口にしながら、ラングは次々と単語を指差し語ってくれた。
ということで色々な言葉に対するラングのイメージが語られていますが、僕が気になったのはこちら。
COLOR 色:色彩
随分とファッションに深く関わる言葉ですね。色はとても大切です。人の目に一番最初に飛び込んでくるのは、何といっても色ですからね。色の刺激が一番最初に大脳へ伝えられて、反応が引き起こされる。色で最も大切なのは、調和ということでしょう。自分の着る服の色にはもっと気を配るべきです。というのも、色はただ単に服の持つ色だけでなく、それぞれの人が持つ髪の色なり、目の色、肌の色、そして生き方に合った色など、自分自身の色を持っているはずだからです。中には、無色を好むという人もいます(笑)。でも、色のない色というものは、存在しません。そこには必ず様々な色が混在しているものです。純粋な黒や純粋な白、といって色もありません。どの色も無数の色彩の微妙な濃淡で形作られているはず。私は色がとても好きだし、強いインスピレーションを受けます。ただし、素材の雰囲気にマッチすることまず考えます。
そして、最後のページは日本でのショップリスト。もちろん当時のものです。