山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

大統領も熱狂した1970年代のジョギングブームを駆け抜けたブルックス。

目次

これまで4回にわたってご紹介してきた、1970年代後半の「POPEYE」に掲載されたスニーカーの記事や広告

www.yamadakoji.com

www.yamadakoji.com

www.yamadakoji.com

www.yamadakoji.com

 

スポルディング創業者はプロ野球選手兼監督兼起業家

前回から引き続き、「POPEYE」1978年11月10日号をご紹介。特集は「男前になるための秘密」。

右ページ「This is SPALDING」。

これまで幾度となく登場してきた「ポパイ諸君、走ってるかね…」のウェアではなく、シューズの広告です。

「スポルディングがアキレスからはばたく」。日本のシューズメーカー、アキレスによるライセンス商品です。

スタイリッシュなデザインです。

スポルディングの創業者はアルバート・グッドウィル・スポルディング。

https://www.pinterest.jp/pin/114349278015570918/

プロ野球選手、監督として活躍しながらもスポルディング社を創業しました。

つまり、プロ野球選手と監督、そして起業家の三足のわらじだったという、マルチな才能っぷり。

15歳で野球をはじめ、21歳の時に当時最強と言われたボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス、1871-1875)にピッチャーとして入団。その後、シカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス、1875-1878)で監督兼選手としてプレイ。7年間で252勝65敗、打率3割を超える実績を残した。

1876年 A.G.Spalding&Bros社をシカゴで創業。

また、米国初の野球リーグ"ナショナル・リーグ"の創設と発展に貢献。ルール作りから携わり、野球の公式ルールガイドを作成しスポルディング社製の野球ボールを公式球とした。1878年、肩を故障し28歳で現役を引退。1930年、発展貢献者としてアメリカ野球殿堂(Baseball Hall of fame)入りを果たした。

www.spalding.co.jp

その後、スポルディング社は野球のボールからバスケットボールのボール、そしてスポーツシューズやウェアなどを幅広く展開していくようになります。

お次は「感じるスニーカー」というキャッチコピーの、アキレスの広告。

やっぱりデザインはスポルディングのライセンス商品のほうが洗練されていますね。

デザインには全く触れられておらず、機能性を打ち出した内容です。

「アキレスはスポーツや、体力づくり、健康づくりを足元からバックアップいたします」という、堅実な結び。

お次はビッグベンのスニーカー広告。

製造販売しているのは「ニッポンラバー」。後のアサヒです。

特に右側のベルクロモデルはかなりスタイリッシュ。

現在のアサヒではビッグベンの名を冠したローファーが展開されています。

モノクロページ。

前回の記事でもご紹介した、吉祥寺のスニーカーショップ、テクテック。

 

ブルックスの歴史

右ページ、ブルックス広告。

「ブルックスに出会ってみませんか」という販売店の紹介がメインの広告で、筆頭は吉祥寺のテクテック

その他、金沢、和歌山、福岡のショップが紹介されています。

広告の一番下で、ブルックスのハイエンドランニングシューズ、ヴァンテージ440シュプリームをアピール。

前回の記事でもご紹介した、「ランナーズワールド」で五つ星を獲得して人気となったモデルです。

この記事でも、「米国「ランナーズ・ワールド」誌え、トレーニング・シューズNo.1に選ばれた」と、誇らしげに記載されています。

https://www.pinterest.jp/pin/745768019564946381/

ブルックスは日本ではあまり馴染みのないブランドです。

公式ブランドサイトを中心に、その歴史をご紹介します。

brooksrunning.co.jp

www.houyhnhnm.jp

創業は1914年

当時の製造していたのは、水泳や海水浴用のシューズ、つまりウォーターシューズや、バレエシューズでした。(強調引用者以下同)

BROOKSはバスシューズ(水泳や海水浴用の靴)やバレエシューズを製造するフィラデルフィアの小さな工場から始まりました。これらのシューズ業界で革命を起こしても注目される事は少なかったものの、私たちは特化したアクティビティーへの特別なギアを作る事に専念しました。

その優れた品質により高い評価を得ていたが、当時のブランドのスペルは「BRUXSHU」であった。

1921年には、野球用のスパイク製造を開始します。

野球スパイクの開発と共にアメリカ最大のメジャースポーツへ参入

これ以降、ブルックスのベースボールシューズは数多くの選手、チームに愛用され、そのなかには1950年代から60年代にかけて4度の本塁打王に輝いたニューヨーク・ヤンキースの強打者、ミッキー・マントルも含まれた。

1930年には、アメリカンフットボールのスパイクの製造を開始。

本格的なアスリートのためにBROOKSが発明したのがナチュラルベンド・アーチサポートでした。それは瞬く間にプレイヤー達にとって欠かせない技術となりました。そしてプレー中にスパイクが脱げる事を防ぎ、怪我の防止へと繋がったROCK TIGHTも特許を取得しました。

https://www.pinterest.jp/pin/514184482425764636/

 

フランク・ショーターが起こしたジョギング革命

ブルックスの公式サイトには、「 ミュンヘンオリンピックにおける革命」と題した以下の記述があります。

イェール大学出身のマラソンランナーであるフランク・ショーターがオリンピックで金メダルを獲得した1972年こそ、BROOKSがランニングシューズへの注力がスタートした年と言えます。その後、突如としてランニングは世界中を魅了しました。コンバットブーツから運動用シューズまでの幅広いマーケットへ向けての方法から、限定的なマーケットへと舵を切りました。

こちらのがその箇所のスクリーンショット。

フランク・ショーターのミュンヘンオリンピックでの金メダル獲得について、「スニーカーの文化史」から引用します。

1972年のミュンヘンオリンピックは、陰惨なイメージと切り離すことができない。バレ スチナ人テロリストによる人質事件が発生し、イスラエルの選手とコーチ一1名、ドイツ人の警官1名が死亡した。しかし、しばらく追悼の時間を置いたあとに大会が再開されると、アメリカ国民の目は長距離走チームに向けられた。5000メートル走に出場したプレが、レースの大半先頭を快走していたにもかかわらず、期待外れの4位に終わり、残る希望は、チームメイトふ たりに託された。細身のからだと口ひげが印象的な24歳のフランク・ショーターと、バウワーマン(引用者注:フィル・ナイトと共にナイキを創業した、ビル・バウワーマン)の指導のもとオレゴンで練習を積んだケニー・ムーアだ。結局、ショーターはアメリカのマラソン選手として64年ぶりの金メダルに輝き、ムーアは4位だった。 雑誌『ライフ』はショーターの写真を表紙に載せ、「悪夢のオリンピック」における「幸福な例外」だったと報じた。

こちらがフランク・ショーターが表紙を飾った1972年の「LIFE」誌です。

https://www.pinterest.jp/pin/310044755611343855/

フランク・ショーターの足元には、イエローボディにブラックの三本線。そう、フランク・ショーターはアディダスのシューズで、金メダルを獲得したのでした。

https://www.pinterest.jp/pin/317151998741924900/

では何故、ブルックスの公式サイトに、1972年のフランク・ショーターの金メダル獲得のことが掲載されているのでしょうか。

フランク・ショーターは、アメリカ人のスポーツに対する考え方を劇的に変えたのです。

ショーターの勝利は、国のメダル獲得に貢献したという以上の意味を持っていた。当のショーターは後年こう語っている。「アメリカの人々は、自国民がマラソンに勝てることを目撃したわけです。ある意味で、種がまかれたんだと思います。以後、人々のマラソンについての考えかたが変わり始めました。わたしの姿を見て、けっして縁遠いスポーツではないと思うようになったわけです。だってわたしは、堂々たる体格というわけではないし、特殊なアスリートにも見えなかったでしょう。育ちにしたって、アメリカのふつうの中流階級です」。これこそが、 アメリカのジョギングブームを次なる段階へ押しあげるはずみになった。本気で取り組んでみよう、と思い立つ人が続出したのだ。もとより「誰でもできる」スポーツではあったが、平均的なランナーたちまでも、自分の実力を試したい、と思い始めた。『ランナーズ・ワールド』誌の発行部数は1975年の3万5000冊から1978年には20万冊以上に急増し、関連分野の書籍も数多く出版された。1967年、 ビル・バウワーマンが心臓専門医と組んで書いた『ジョギング Jogging 』 という本は、100万部 以上売れた。翌年、空軍大佐で医師のケネス・クーパーが『エアロビクス Aerobics』 を出し、心臓血管の健康のためにジョギングなどの運動を奨励した。

フランク・ショーターの金メダル獲得により、ジョギングブームが更に加熱しました。

1977年7月4日付の『ピープル People』誌の表紙には、ファラ・フォーセットと、夫であり『600万ドルの男』主演のリー・メジャースが、ふたりでジョギングする姿が載り、「みんなやっている」との見出しが付いていた。

こちらがその表紙。

「Everybody's Doing It. Stars join The Jogging Craze」、つまり「みんなやってるジョギング、スターもそのブームに参加」とあります。

ジョギングはアメリカの国民的スポーツになったのです。

https://www.pinterest.jp/pin/595038169526299456/

www.yamadakoji.com

 

大統領も熱狂したジョギングブーム

ジョギングブームはときの大統領にまで巻き込みます。

ジミー・カーター大統領までがブームに乗って、1978年10月に「全米ジョギングの日」を制定し、自身初の「ジョギングする大統領」と位置づけた。(が、10キロのロードレース中に倒れたこともあった)

ディズニーランドをジョギングするカーター大統領。

https://www.pinterest.jp/pin/615585842797224745/

「ランナーズワールド」の50周年記念号の表紙にも登場しています。

https://www.pinterest.jp/pin/337558934563818526/

日本には、ジミー・カーターの名を冠した「カーター記念 黒部名水マラソン」という大会があります。

www.kurobe-taikyo.jp

1984年5月22日、 YKK株式会社の創立50周年記念式典に出席の第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーター閣下の来市を記念し、第1回ジョギング大会を宮野運動公園陸上競技場をスタート・ゴールに開催。
ジョギング愛好家のカーター閣下は、当初スターターだけの予定であったがスポーツシャツ・ショートパンツ姿でスタートの号砲を終えると突然参加者1,500名と一緒にジョギング。このハプニングに参加者は大変喜び、 沿道の市民や参加者から大きな拍手が沸き上がった。
走り終えたカーター閣下の爽やかな汗と笑顔、胸に輝く記念メダルが、一緒に快走した参加者並びに関係者には、忘れられない第1回大会となった。

参加者の幅広い要望と第10回大会を記念し、 日本陸連公認黒部名水マラソンコースにコースを変更し、 大会名を 「カーター記念黒部名水ロードレース」 に改める。

毎年カーター閣下からメッセージが届いています。大会当日発表しています。

そんなジミー・カーター大統領が愛したのが、1977年に登場したブルックスのVANTAGEでした。

『ランナーズワールド』誌のランニングシューズランキングでBROOKS初の1位を獲得したシューズ。反発性の低いラバー素材に代る業界初のEVA素材を採用した事に加え、ヴァンテージにはランナーの足形に形成される脱着式ライナーとヴェラスウェッジを採用しました。ジミー・カーター大統領もこの製品を履いていました

https://www.pinterest.jp/pin/340514421815897898/

 

「自分自身を見いだす方法」になったランニング

続いて、「POPEYE」1978年11月25日号です。特集は「スキーボーイ」。ですが、表紙のイラストはアメフト。

モノクロページ、「片岡義男のアメリカノロジー」という、アメリカカルチャーを紹介するエッセイです。

アメリカでのランニングブームについて、こう言及されています。

いまアメリカではランニングが流行している。単なる一時的な流行をこえて、生活のなかにランニングがしっかり定着した感じも強いのだが、あらゆる色のランニング・ショーツをそろえることがファッショナブルだったりして、ファッション的な部分もかなりあるようだ。

そしてここでもフランク・ショーターの影響の強さが指摘されています。

アメリカの人たちがランニングに目覚めたのは、1972年、ミュンヘンのオリンピックマラソンでフランク・ショーターが優勝するのをテレビで見てからだ。このときのショーターの走りっぷりは 素晴らしかったという。 5分で走りきる1マイルを次々にかさねていったのもみごとだったが、流れるように軽やかに、しなやかに走るありさまは、ランニングというものをまったく新しいイメージでアメリカ人たちに見せてくれたのだ。

そして、文中で超ベストセラーとして紹介されている「コンプリート・ブック・オブ・ランニング」の影響力について、上掲「スニーカーの文化史」ではこのように記されています。

1976年にはこんな出来事もあった。 コネチカット州出身の35歳の雑誌編集者、ジム・フィックスが、テニス中に腱を傷め、リハビ リとしてジョギングを始めた。体重が100キロあり、一日二箱吸うヘビースモーカーだったフィックスは、初めてレースに参加したとき、50歳以上の部で最下位に終わった。勝者が60歳だったことに、フィックスは興味を覚え、やがて1977年に『ザ・コンプリート・オブ・ランニング The Complete Book of Running 』を出版するまでになった。このガイドブックは、 本人の言葉を借りれば「まず、ランニングという奇妙な世界を紹介し、次に、あなたの人生を変える」内容だった。フィックス自身、人生が劇的に変化しており、刊行のころには30キロ近く減量し、喫煙をやめていた。同書は11週にわたってベストセラーのトップに立った。 アメリカ人はランニングを「肉体改造の手段」、いや少なくとも「痩せて健康になるための方法」ととらえていた。しかし、心臓学者のジョージ・シーハンが執筆したランニングとフィットネスに関する六冊の本は、フィックスの著書と同様にランニングの健康効果を強調する一方で、「自分自身を見いだす方法」という次元にも踏み込んだ。 シーハンは、本だけでなく数多くの記事でも、ランニングそのものと同じくらい哲学、宗教、内省に焦点を当てた。また、ジョギングの素晴らしさを広めるために国内各地をめぐり、さまざまな大会や、企業の会合、ランニングクラブなどに出席し、講演を行なった。

アメリカではジョギングは単なるスポーツという枠を超えた存在になりつつありました。

「鈴鹿サーキット「改造ローラースルーレース」から」という記事の端に、アム・スポーツ・フットウェアの広告。

「ポパイを見逃さないオリーブのウーメンズサイズ・カタログ」ということで、レディスサイズの紹介です。

アディダスのラブセット。テニスシューズですね。ブルックスのヴィクトレスは、上掲ヴァンテージのレディス版のようです。

永遠の定番、コンバースのジャック・パーセル、ナイキのブレザー。

ロットのレディニュークというモデルもテニスシューズのようです。

右ページ、アキレス広告。

「ことしの冬は、寒くなるぞ。」という謳い文句でアピールするのはスノートレーニングシューズ。

ブーツのような「しゃれたセンスであたたかいアキレスコザッキー」は「継ぎ目、縫い目のない一体成型。だから氷や雪をきっぱりとシャットアウト。底部の特殊ノンスリップパターン。あたたかな防寒構造」と、ワークマンのシューズのような多機能っぷり。

「たとえば、大自然の中で、雪をけたてるスキーヤーになるか?それとも、アスファルト・ジャングルの中で一匹のしなやかな獣になるか?キミはどっちだ。」スノートレーニングシューズはローカットも展開されているのがいいですね。

右ページ、スポルディング広告。

前回の記事でもご紹介した、アメリカ企画と思われるスポルディングのスニーカーの広告です。

「続々ふえてるぞ。スポルディング仲間。」とありますが、ほとんどの写真はスニーカーが写っておらず、写っている少数の人達が履いているのも、どうやらスポルディングではないようで…何を伝えたかったのでしょうか…。

 

「日本のジョガーが勝つことにこだわりすぎてる」ことが「大問題だ」 

「ジョギング再考 キミたちは、レースに勝つことにこだわりすぎていないか。」という特集。

この1978年時点で「日本にジョギングが普及してから2〜3年くらい」で、アメリカと比較して「日本のジョガーが勝つことにこだわりすぎてる」ことが「大問題だ」とのこと。

今の僕の感覚からすると「そんなことどっちでもええやないか」と思うんですが、そういうことが「POPEYE」で5ページにもわたる記事になっているということから、いかに当時ジョギングブームが加熱していたかがわかります。

「ヨガを採り入れた柔軟体操は今やジョガーの間では常識」だそうで。

右の男性が着用しているのはアシックスでしょうか。

「ナイキとUCLAのマーク入りTシャツはいかが」

「レースに華を添えているのは、いつも後方集団を走るファッショナブルなジョガーたちだ」

つまり、ガチ勢はガチ勢、ライト層はライト層で棲み分けましょう、というお話です。

ということで、5回に分けてご紹介してきた、1970年代後半の「POPEYE」に掲載されたスニーカーの記事や広告についての記事はひとまずこれで最後です。

来週はまた新しい“ファッションアーカイブ”をご紹介する予定です。

お楽しみに。