山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

1970年代のテニス人気と、スタン・スミスが歴史に残る大ヒットスニーカーになった理由。

目次

 

これまで3回にわたってご紹介してきた、1970年代後半の「POPEYE」に掲載されたスニーカーの記事や広告

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続いて、「POPEYE」1978年10月25日号。ピンボール特集です。

「ピンボールのファンタスティックなポップ感覚」も気になりますが、右ページの伊勢丹の広告にフォーカス。

「旧型のスタンスミス」。

「日頃からスニーカーに関心の強い伊勢丹では、このポパイが出る頃から、あのスタンスミスとか、タバコとか。アディダス社を中心に、いろいろなタイプのスニーカーを特別に紹介。」

タバコは洗練されたフォルムとシックなブラウンカラーが人気のスニーカー。

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広告でピックアップされているのは、バスケットボール史に残るNBAの往年の名選手、カリーム・アブドゥル・ジャバーのシグネチャーモデル。

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武道家でもあったジャバーは、ブルース・リーの遺作となった映画「死亡遊戯」にも適役として出演しています。

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またまた来ました、スポルディングジョギングウェアの「ポパイ諸君・走ってるかね…」広告。

イエローやレッドのカラーリングが70年代ならでは。写り込んでいる車も格好良いです。

 

ヨーロッパ最大のシューズメーカー、ロミカ

「ヒーローは、突然、現れる。」というキャッチコピーの、ロミカという見慣れないブランドの広告。

「シティボーイ諸君にとって、ジーンズが第二の皮膚なら、スニーカーは、さしずめ第二の足といったところだろう」という表現から、いかに当時スニーカーが新しいアイテムとして若者の支持を集めていたかが伺えます。

で、このロミカについてはこうあります。

ロミカ社は、半世紀以上の歴史をもつヨーロッパ最大のシューズメーカーだ。現在、ロミカ社は、スポーツシューズをはじめ、あらゆる用途の靴を製造していて、その名はヨーロッパ全域はもちろんのこと広くアメリカにまで知られている。この名門シューズメーカーと日本ゴムが提携して、ついにみんなの前に姿を表したのだ、いま、スニーカーの世界にヒーローの出現だ!

マイナーなスニーカーを集めた書籍「C級スニーカーコレクション」には、ロミカについて以下のように書かれていました。

1921年、ドイツ発祥の老舗ブランド。 設立に携わった Rollin、Michael、Kaufmannの3人の頭2文字がブランド名の由来。35年、三人のうち二人がユダヤ人だったことからナチスの圧力によって会社は崩壊。 ロミカの商標はヘルムート・レムに譲渡された後に一時代を築いた。

ドイツ語のウィキペディアには、以下の記述があります。

1960年代、ヘルムート・レンムの下で最も成功した時期を迎え、年間1,200万足の靴を生産した。

de.wikipedia.org

日本で展開されていた商品は、西ドイツ本国のライセンスの元、アサヒが製造販売しています。

機能性をアピールする、各部ディティールの説明。前回の記事でご紹介したように、スニーカーブランド間で機能性の競争が激しかったことが、よくわかります。

当時の展開はテニスシューズが中心だったようです。

 

「アメリカが漂うはきやすい本物」スポルディング

続いては、「ポパイ諸君、走ってるかね…」でお馴染み笑、スポルディングのスニーカーの広告。

レザー素材でスニーカーとブーツの中間のような、重厚感のある一足です。

販売しているのは「スポルディング・インターナショナル・インコーポレイテッド・イン・ジャパン」。つまり、ロミカのような日本のメーカーによるライセンス生産品ではなく、本国アメリカからのインポート商品だと思われます。

「どこがどうイカスかの図」という、各部の説明はやはり機能性がメインですが、最上部には星条旗をモチーフにしたフォントの「AMERICAN CASUAL」という表記や、「アメリカが漂うはきやすい本物」と、アメリカを強く打ち出しているところに、今よりも圧倒的にアメリカの人気が高かった時代の雰囲気が感じ取れます。

 

スキーとテニスに革命を起こしたHEAD

モノクロページ。ビデオカメラなどのAV機器の記事。

左端に、「ロスのアンティーク屋で、ソーダ・ポップスが日本の若い人たちに買い占められているそうだ…。」と題された文章が。

こちら、前々回の

ブランド名と思われる、「Vax BY focus corp」という表記。Vaxについては第1回の記事で触れています。

モノクロページ。こちらはテニス。

これまでご紹介してきた1970年代後半の「POPEYE」で毎号登場している、アム・スポーツ・フットウェアの広告。

「シティをジムナジウムにすることこそ、ボクらには必要だ●直輸入HEAD・カタログ」。

僕個人としては、ラケットやシューズなどのテニスギアのイメージが強いHEAD。

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公式サイトによると、HEADの祖業はスキー板の製造

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1939 年、Howard Head は航空機メーカー Glenn L. Martin のリベット工員として就職、そこでエンジニアに成長しました。

戦時中は Martin に勤続し、ポーカーとパーティー好きとして知られていました。同社に勤務中の 1946 年、社交好きが高じてバーモント州ストウに出かけた際、スキーに挑戦したことが、彼の人生の転機となりました

ゲレンデで奮闘することが恥ずかしかったが、このスポーツに夢中になり、腕を上げようと決心しました。多くの初心者同様、自分のスキーが下手なことをスキーのせいにしていましたが、大多数のスキーヤーとは異なり、Head は納得のいく技術的な知識を持っていました。当時のスキーは、長くて重い上に、型崩れしやすいヒッコリー材でできていて、不安定な乗り心地でした。

Headは、単に伝統的なスキーの使い方を習得することに専念するのではなく、金属や航空機の製造技術を使って、より良く、より軽く、より効率的なスキーを作ることができると豪語しました。

Head は一台のバンドソーを $250 で購入し、暇を見つけてはスキーの設計を始めました。彼のコンセプトは、単に他の人たちが挑戦して失敗した金属製のスキーを作ることではありませんでした。

むしろ第二次世界大戦中に化学者らが開発した柔軟な耐水接着性を使用したアルミニウムとベニヤ板を接着する、航空機業界の金属サンドイッチ構造方式に着目しました。

1947 年、Head は「ハニカム」スキープロジェクトを立ち上げました。これは、ハニカムプラスチックのコアを包む合板の側壁に 2 層のアルミニウムを接着して構築されたスキーを想定したため、こう呼ばれるようになりました。

同社の記録によると、HEAD は 1955 年までに欧米ではスキーのトップブランドになりました。世界レベルのスキーヤーにコンポジットスキーを納得させるには時間がかかりましたが、1960 年代には HEAD スキーでオリンピックで大きな勝利を収め、従来のヒッコリースキーの運命を決定づけたのです。

その後、テニスラケットの製造にも挑戦します。

1968 年、HEAD はテニス部門を立ち上げ、1 年後の U.S .オープンで最初のメタル・テニスラケットを発表しました。

1969 年、Howard Head は自社を AMF に売却し、間もなく引退しました。

引退後、彼はテニスの試合に集中しましたが、金属製のラケットと多くのレッスンを行ってもほとんど改善が見られませんでした。そして、最初の特大メタルテニスラケットを開発し、第二のスポーツに革命を起こしたのです。

Howard Head がこの世を去った後、HEAD が後援していたテニスプレイヤーの一人アーサー・アッシュが 1975 年にウィンブルドンでジミー・コナーズを破り優勝しました

https://www.head.com/ja_JP/the-story-of-head

現在も、テニスをはじめとしたラケットスポーツと、スキーをはじめとしたウィンタースポーツがHEADブランドの中核となっています。

「POPEYE」に戻って、この広告では「ヘッドはテニスシューのなかで、もっともシエイプ・アップされたスポーツ・フットウェアだ」ということで、テニスシューズが紹介されています。

 

「アディダスのスーパースターなんてのをテニス用として履くことを提案したい」

続いて、「POPEYE」1978年11月10日号。特集は「男前になるための秘密」。

モノクロですが、「for SHEAKER LOVERS」と題された、スニーカー特集ページ。

「30歳になったときボクたちはスニーカーを履いているだろう」という、老若男女がスニーカーを着用する今からは考えられないキャッチコピー。当時は若者しかスニーカーを履いていなかったということでしょう。

「3足目にはハイトップを選びたい」。ハイトップとは、ハイカットスニーカーのこと。ハイトップ着用者として挙げられているのは、スケーターと、洒落者として知られる映画監督のウディ・アレン

提案されているハイトップのスニーカーは大定番コンバース・オールスターやナイキのブレザーをはじめ、アシックス、プロケッズ、前回の記事でも触れたスポットビルトなどなど。

「レター・カーディガンにバタフライを合わせたデート大会には、プロ・ケッズのハイカットを履いちゃう。キャンバス地がナチュラルで足に気持ちいい。ガールフレンドも大喜びの組合わせでした」とのこと。

スーツやブレザーなどのフォーマルな服装にハイトップ。

スタジャンやニットなどのカジュアルな服装にもハイトップ。

「スーパースターも夢じゃない」は、「アディダスのスーパースターなんてのをテニス用として履くことを提案したいわけ、ハード・コート用として」。うーん、どうなんでしょう…当然試したことはありませんが、やはりバッシュはバスケットボールのために開発されているんだから、テニスにはテニスシューズがいいと思うんですが…。

 

ビヨン・ボルグが愛したトレトンとディアドラ

そして、「寒い国から来たスニーカー」は、スウェーデンのスニーカーブランド、トレトンのこと。

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「テニス・ボールのメーカーとして有名なスウェーデンのトレトン社が」「作ったテニス・シューズが、今、その勢いをイン・ザ・ワールドに拡げようとしている・スウェーデンが生んだテニス界の若獅子、B・ボルグの姿を借りて」とあります。

ビヨン・ボルグ。フレンチオープン4連覇、ウィンブルドン5連覇など、数々の記録を持つ名テニスプレイヤー。

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ロングヘアにヘッドバンド、そしてフィラのウェアがトレードマーク。

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ビヨン・ボルグの服装は、当時ライバルだったアメリカのジョン・マッケンローと共に注目され、マッケンローが愛用したセルジオ・タッキーニ、そしてボルグが着用したフィラのトラックジャケットは大人気となります。

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現在も復刻版が販売されています。

そして、トレトンもボルグ人気に伴いテニスシューズとして大ブレイク…とはなりませんでした。

ビヨン・ボルグの愛用したテニスシューズブランドとして知られるのが、イタリアのディアドラです。

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ボルグのシグネチャーモデル、ボルグエリートは当時のテニス少年の憧れでした。

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トレトンについて、上掲「C級スニーカーコレクション」にはこうあります。

1891年、スウェーデン発祥のスポーツブランド。ヘンリー・ダンカー氏によって創立された。1960年代に「ナイライト」を発表、ジョン・Fケネディがテニスをするときに愛用してたことでも有名。80年代にはアメリカ東海岸発プレッピースタイルの定番アイテムとしての地位を確立した。

トレトンのシューズはシンプルでスタイリッシュなフォルム。現在、トレトンのイメージはテニスシューズよりもファッションアイテムほうが強いでしょう。

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スタン・スミスが大ヒットスニーカーになった理由

続いては「スタン・スミス物語」

「頭も足元もピッカリのスタン・スミスさんデス」。

こちらは最近のスタン・スミスさん。スタン・スミス着用です。

スニーカー、スタン・スミスが生まれるまでが描かれています。

第1回の記事でもご紹介した書籍「アディダスVSプーマ」でスニーカー、スタン・スミス誕生のエピソードがより詳しく語られています。

同時期、ホルスト・ダスラー(引用者注:アディダス2代目社長)はドイツの本家にさらなる打撃を与えた。 テニス市場の乗っ取りである。ランデルスハイム(引用者注:ホルスト・ダスラーが率いるアディダス・フランスの本拠地)の見るところ、テニス界には急激な変化が起きていた。もはやテニスは上流階級、つまり、きちんとプレスしたズボンを穿く洒落た男性やドレス姿の女性だけのものではなく、さまざまな人が楽しむスポーツになっていたのだ。

アディダス・フランスは、手始めにロバート・ハイレットをパートナーに選んだ。50年代終わりにはフランスにプロテニス選手は2人しかいなかったが、その一人がハイレットである。ち ょうど引退を考えていた1964年、ハイレットはホルストから、世界初の革製テニスシューズ への協力を依頼された。「最初はかなり難航しました」と、ハイレットは振り返る。「完成まで1年以上かかりましたし、ソールがどうしてもはがれてしまうんです」。それでも技術的な苦労は報われ、〈ロバート・ハイレット〉はその頃登場した少数のプロテニス選手たちのあいだで高い評価を得た。

ところが、ロバート・ハイレットはさっさと引退してしまう。そこでホルストは、もっと有名な名前をつけて再度売り出すことにした。それが、スタン・スミスである。「ゴジラ」の異名を持つこのアメリカ人選手は、コートでめったに笑顔を見せず、試合以外でファンを楽しませたりもしない。しかし、70年代初期には世界のテニス界に君臨し、アメリカチームを一度ならずデビスカップ優勝に導いた。

アディダスは、スミスの名前を冠した靴のロイヤルティなど、充実した内容の契約条件を提示し、スミスは即座に同意。1971年に発売された〈スタン・スミス〉はコートを独占するよう になり、その後数十年で数百万ドルがスミスのもとに渡った。ところが、対戦相手の多くがアディダスを履くようになったことで、スミスはまごついたという。「私のシューズを履いた相手に初めて負けたときは、本当に悔しかったよ」

〈スタン・スミス〉と〈ナスターゼ〉は、世代を問わずテニス・ファンに愛用されたが、学生がジーンズにテニスシューズを履くようになると、売り上げは弥増した。たとえ選手が引退しても、 その名を冠したシューズはカルト的人気を保ちつづけ、その後の数十年で〈スタンスミス〉は 約4000万足、〈ナスターゼ〉は約2000万足販売された。 テニスシューズがブレイクした結果、フランス・アディダスの輸出量は急増して、ホルストが輸出担当者に数字を低く抑えるよう指示するほどになった。

いくらテニスを楽しむ人の裾野が広がったとはいえ、やはりスポーツシーンで着用されるだけでは、販売数には限りがあります。

スタン・スミスは、ジーンズに合わせて履かれるようになった、つまりカジュアルシューズとして着用されるようになったからこそ、数十年で4000万足という大ヒットスニーカーになったと言えるでしょう。

書籍「東京スニーカー史」では、やや異なった角度から、スタン・スミスが大ヒットした要因を分析しています。

1968年から全米・全仏・全豪・ウィンブルドンの国際4大大会でプロ選手の出場が解禁になり、テニス市場は大きな盛り上がりを見せた。しかもタイトルはアメリカかオーストラリア出身の選手による総ナメ状態で、アメリカは彼らが着用するアディダ スを受け入れた。しかもスタン・スミスは『ポパイ』やビームスが憧れたカリフォルニア州出身の選手であることも見逃せない

サイドの名前の金文字などのディテールが変遷するうちに〈ハイレットスミス〉に変更され、〈スタンスミス〉に移行し、事実上 〈ハイレット〉は消滅した。当時の国際大会の規約により、テニスシューズは派手な配色ができず、象徴の3本ラインはパンチングによるさりげない表現であったのも好意的に受け取られたはずだ。

この偶然と必然が生んだスタンスミスのフォローアップ、ミニマムデザイン、そして1972年に誕生した三つ葉のトレフォイルロゴなどの事象が複合的に絡み合い、アディダスはアメリカで圧倒的なシェアを獲得している

4大大会のプロ選手出場解禁によるテニス人気の高まり、スタン・スミスが当時日本人が憧れに憧れたアメリカ西海岸出身だったこと、そしてウェアやシューズがシンプルなデザインであることが求められるテニスというスポーツ。

こういった要因により、スタン・スミスは歴史的なセールスを記録し、発売されてから半世紀以上が経った今でも人気を集め続けているのでしょう。

そんなスタン・スミスは、1978年の時点で多数のバリエーションが存在していました。ここでは5つのモデルを比較して、ソールのパターンやロゴなどの違いを解説しています。

 

ナイキが初めて契約したアスリート、イリー・ナスターゼ

ホルストは、さらなる進撃でドイツのライバルをテニス界から一掃した。 激情型のルーマニアのテニス選手、イリーナスターゼは、目をみはるテクニックとコート上でのおどけたしぐさでファンを魅了していた。70年代初め、報酬にうるさい彼に話を持ちかけたのは、アメリカで急成長を遂げたナイキだった。1972年、ナイキはナスターゼと5000ドルの契約を結び、かかとに「Nasty(「悪童」の意味もある)」とエンボスされたシューズを渡した

イリー・ナスターゼはナイキと契約した最初のアスリートです。

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ですが、ナイキとの契約は1年だけで終わってしまいました。

一方、ダブルス のパートナー、アメリカ人のジミー・コナーズが渡されたシューズのかかとには「ジンボー(コ ナーズの愛称)」とエンボスされ、コナーズは大喜びで、無報酬ながら得意げに履いていた。 アディダスのスタッフの大半は、ナスターゼはブランドイメージにふさわしくないと考えていた。審判と喧嘩をしたり、ファールプレーぎりぎりの術を使うナスターゼは、アディダスの評判に傷をつける恐れがある。 「わが友ホルストは、彼らに向かってこう言ったんだ。だからこそ、 僕を選んだのさってね」と語るのは、ナスターゼ本人である。「それでみんな黙ってしまったよ」。 こうしてナスターゼがアディダスと契約したのは、1973年。当時としては破格の5万ドルという契約金で、4年間、テニス用品はすべてアディダス製を使うという条件だった。

この契約通り、ラケット、ウェア、シューズ、バッグまでアディダスで揃えられたナスターゼによる広告がこちら。

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そして、こちらがシグネチャーモデルのナスターゼスーパー。

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タンにはスタン・スミス同様、ナスターゼ自身のイラストがプリントされています。

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ホルストは何人もの選手にアプローチしたが、ナスターゼとは個人的な友情を結ぶまでになった。毎年クリスマスになると、ルーマニアの選手のもとにホルストから、家族へのプレゼントとしてダンボール何箱ものアディダス製品と個人的なプレゼントが届いた。 ホルストは、ナスター せが最初の離婚をすると慰めの電話をかけ、ときには実にうれしそうに高価な時計を見せびらかしたりもした。時計の裏には「わが友ホルストへ」と、ナスターゼのメッセージが刻まれていた。

スタン・スミス関連は以上です。

「POPEYE」に戻ります。「古き良き日のアメリカの香りがいっぱい」なのは、ヴァンズ。

「ちょいと気になる2枚のスニーカー」。

1つ目は、日本のロックバンド、ショットガンのレコードジャケットに登場している「コンバース、コンバース風、そして、身元不明のスニーカー」。

https://www.discogs.com/ja/release/14385414-%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%B3-%E8%92%BC%E3%81%96%E3%82%81%E3%81%9F%E5%A4%9C-Rola-Queen-Lola

2つ目が、アメリカのロックバンド、CCR(Creedence Clearwater Revival)のベース、ダグ・クリフォードが着用しているコンバース・オールスター。

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「大切なスムース・レザーの洗い方」はバケツのお湯に中性洗剤を注いで泡立て、スニーカーを入れてすぐに取り出し、スポンジで汚れを落とすという方法。

最後は「スニーカー愛好者同盟の入会テスト」。やってみたい方はどうぞ笑。以上でスニーカー特集は終わりです。

次回感動の!最終回

1970年代後半の「POPEYE」に掲載されたスニーカーの記事や広告のご紹介、今回の記事で終わると思っていたんですが、盛り込みたい内容があまりにも多いので、残りは次回。次で必ず終わる筈です。お楽しみに。