目次
- アディダスのフォレストヒルズ、ナイキのフォレストヒルズ
- 「プーマは足を完ペキにガードします」
- 「靴屋で売らない」クラークス
- ランニングはアスリートと変わり者だけがするものだった60年代
- 西海岸に沸き起こったジョギングブーム
- 1970年代にランニングシューズが進化した理由
- 「世界最大のシューメーカー」バータ
- 「本物のジョギングシューズは《タイガー》だ」
- 吉祥寺の伝説のスニーカーショップ、テクテック
- 月へ行ったスニーカーブランド、スポットビルト
- 70sスニーカー特集は次回完結!
前々回、前回から引き続き、1970年代の「POPEYE」に掲載されたスニーカーの記事、広告をピックアップしてご紹介しています。
今回ご紹介するのは「POPEYE」1978年6月10日号です。
アディダスのフォレストヒルズ、ナイキのフォレストヒルズ
モノクロページ、当時大流行していたローラースケートの記事。
ページ隅に、当時の「POPEYE」に頻繁に広告を出稿していたアム・スポーツ・フットウェアの広告。「テニス・フリークじゃないがリッチな気分はいいものだ」と銘打った、テニスシューズの広告です。
筆頭はイギリスのストリートカルチャー「カジュアルス」にも愛された、アディダスのフォレストヒルズ。「世界で最も軽量」という謳い文句。
「カジュアルス」については、前回の記事で詳しくご紹介しています。
続いては、同じく↑の記事でもご紹介したアディダスのウィンブルドン。その下は、ロットのオートグラフ。
ジョン・ニューカムは1960〜70年代にかけて活躍した、オーストラリアのテニスプレイヤー。ロットのテニスシューズを履いてプレイしていますね。
https://www.pinterest.jp/pin/33073378503056251/
続いては、「Tiger」表記のオニツカタイガーのローンヒップ40、そして「ナイキイズムはテニスにも貫かれている」という、ナイキのフォレストヒルズ。
そう、当時はアディダスもナイキも同じフォレストヒルズの名を冠したテニスシューズを発売していました。
フォレストヒルズとは、以前テニスの全米オープンが開催されていたニューヨークの地名。
つまり、テニスの聖地的な意味合いがあったのだと思われます。
ナイキのフォレストヒルズはテニス史に残る名選手、ジョン・マッケンローが着用したモデルとしても知られています。
https://www.pinterest.jp/pin/123075002306985647/
「プーマは足を完ペキにガードします」
非常にインパクトのある、プーマの広告。
「足をガードするプーマ・スポーツシューズ」。
「体重は、かかとを直撃する」ということに対し、「世界に先がけて開発したプーマ独自の衝撃吸収ドン・ソールを装備」「最も負担のかかるかかとには、円錐形のショック・アブソーバー(コニカルスタッド)に高低差をつけ、どんなに凹凸の激しい地面でも着地ショックを吸収うしてしまいます」とのこと。
そして、「プーマは足を完ペキにガードします」と、自信の一言。今の感覚からすると微笑ましいくらいのローテクっぷりですが、こうやって一歩一歩技術革新を積み重ねたことが、今の快適なスニーカーに繋がっているのでしょう。
「靴屋で売らない」クラークス
「pop-eye」という、小ネタのページ。
の、隅にあるのが「6月日本上陸」のクラークスの広告。
キャッチコピーは「軟弱な靴に別れを告げよう。クラークスのポリベルト」。
ポリベルトとは、モデル名。
https://www.pinterest.jp/pin/236720524148569274/
クラークスの公式サイトによると、1950年に発売開始されたデザートブーツが日本に上陸したのは、1964年。
ワラビーの日本上陸は1971年。
↑のページではポリベルトについては触れられていませんでした。
この広告の説明文が、めちゃくちゃ惹かれます。
「本国のイギリスでは1,000マイルのテストを実施。減りの少なさ、軽さ、歩きやすさは実証ずみ。もちろん、縫製・革質などにも質実剛健と呼ばれる英国人気質が息づいています。「歩き」に徹したこのクラークス、靴屋ではお売りいたしません。スポーツ・ショップでお求め下さい」。いやぁ、履いてみたいですね。
左ページ、アキレスの広告。
アキレスの母体となった会社は1907年創業。(強調引用者以下同)
アキレスの母体は、1907年、殿岡利助が内外地に向け織物の製造販売をするために設立した殿利織物会社。
1943年6月戦時体制から企業整備令により国華工業株式会社足利工場としてゴム製品の製造に転換し、1945年9月の終戦と同時に、布靴、総ゴム靴、ゴム引布や合成樹脂製品の製造に着手。そして1947年5月に資本金200万円をもって興国化学工業株式会社を設立
この広告でも、興国化学工業株式会社と表記されています。
「熱い心をフットワークに」。このベルクロのモデル、今履きたいですね。
「アキレスのランドマスタープロマジック72は、脚にものをいわせて行動する男にこそふさわしい。甲の部分に注目してもらいたい。紐が消え、見た目もスマートな面ファスナーに変った」と、面ファスナーがかなりのアピールポイントだった模様。「アキレスの研究室における徹底的な強度と耐久性のテストに合格。その強度は過酷な条件での仕様にも十分耐えることが実証された」と、かなりの力の入りっぷりです。
個人的には右の「ラックスプロマジック74」のデザインに惹かれます。
右ページ、スポルディング広告。
「ポパイ諸君。走ってるかね…」と、笑顔を浮かべながら語りかけられるという、なかなか味わい深い広告です。
カネタシャツという会社がライセンス展開していた、スポルディングのジョギングウェア。
調べてみると、カネタシャツは2000年代に倒産してしまったようです。
ランニングはアスリートと変わり者だけがするものだった60年代
この記事のテーマはスニーカーなので、ジョギングやランニングについての記事や広告が中心になるのは当たり前のことですが、そもそも1970年代後半の「POPEYE」には、ジョギングやランニングについての内容が今と比べて格段に多いことは明らかです。
その理由はなんだったのでしょうか?
その前の1960年代のランニングについて、「スニーカーの文化史」にはこう記されています。
1960年代には、公共の場でランニングをするのは、アスリートと変わり者だけだった。 最初のうちは、ジョギング愛好家が車の運転手から嫌がらせを受けることも珍しくなかった。ビール缶を投げつけられたり、嘲笑されたりした。あるナイキ従業員は「馬にでも乗れ!」と罵られ たという。「ジョギングは人気でも不人気でもなかった。とにかく、物珍しかったのだ」。後年、 ナイト(引用者注:ナイキ創業者のフィル・ナイト)はそう記している。「わざわざ外へ出て五キロ走るなんて、よほど精力を持て余した変人がやることに思われた。楽しみのために走る、運動不足解消のために走る、幸せな気分を味わうために走る、健康と長生きのために走るそんな発想は過去に存在しなかった」。大都市のジョギ ング愛好家は、人けの少ない場所や早朝の時間帯を狙った。あるシカゴの会社幹部は、愛車のスポーツカーで道をたどり、走行距離計を眺めながら三キロのコースを決めたあと、車を降りて走り始めた。サウスカロライナ州の上院議員ストーム・サーモンドは、1968年にジョギングをしていたところ、サウスカロライナ州グリーンズボロの警察に呼びとめられ、職務質問されたらしい。
西海岸に沸き起こったジョギングブーム
1960年代には「アスリートと変わり者だけがするもの」だったランニングですが、1970年代後半にその状況は一変します。
アメリカで、とくに西海岸で急速に沸き起こったジョギングブームは、2冊の書籍と雑誌が大きく貢献している。そのひとつはジョギングの教祖と呼ばれるジェイムズ・F・フィックスが1977 年に上梓した 『The Complete Book of Running』(邦題:奇跡のランニング)。これはマイペースで走り続ける健康法を記したベストセラー本で、日本でも『ポパイ』で「チープ・シック」を提唱した片岡義男らによって翻訳され、1978年に出版。本著は、それまでは当たり前であった「走る=競技」の概念を覆すものだった。汗と涙と 努力から生まれた自己啓発ではなく、走ることの楽しさや素晴らしさを健康に結びつける革新的なランニング理論は、大きな市場を形成していた、趣味で走るランナーたちのバイブルだった。
アメリカで刊行されたハードカバーはランナーの下半身をイラスト化した表紙で、足元はオニツカのランニングシューズ。ジョギングの教祖がオニツカを選んだ事実は、信頼のおけるシューズ の証明であり、その宣伝効果は相当なものだったはずだ。
https://www.pinterest.jp/pin/264093965620490212/
1970年代にランニングシューズが進化した理由
そしてもうひとつはボブ・アンダーソンによる雑誌『ランナーズ ワールド』だ。創刊はアンダーソンがまだ高校生だった1966年 だが、1969年より雑誌色を強め、1975年には人気企画の シューズランキングがスタート。これは毎年10月号に多くのシューズがウェアリングテストされ、10項目のスペックに分けられた項目別得点の合計で評価されていた。
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ちなみに『ポパイ』創刊年であり、モントリオールオリンピックが開催された1976年の10月号では、ニューバランスの〈320〉 が1位、2位にはブルックスの〈ビラノバ〉、3位にもニューバランスの〈305〉がランクインしている。
ニューバランスの320。
https://www.pinterest.jp/pin/763852786818716564/
ブルックスのビラノバ。
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揃い踏み。
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この評価はジョガーのシューズ選びに大きな影響を及ぼしたことから、各メーカーも無視できない存在となり、お互いが切磋琢磨してシューズを開発するようになった。同誌の名物企画によって、この時代はテクノロジーが急速に発展したといっても過言ではないだろう。 後の1978年から順位付け制度から「5つ星」というファイブスター制度に変更された。5つ星を獲得したモデルはメーカーの広告でもキャッチコピーに使われるなど、わかりやすく、信憑性の高いセールストークになった。
1970〜80年代のスニーカーメーカー各社の広告では、ランナーズワールドの「星」が誇らしげに掲載されていました。
そして、そのどれもがソールを中心とした「テクノロジー」を強くアピールした内容になっています。
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1970年代にスニーカーのテクノロジーが大きな進化を遂げたのは、ジョギングブームの到来と、ランナーズワールドというメディアがシューズメーカーの開発競争を加速させたことが理由だったということです。
続いて、「POPEYE」1978年7月10日号。サマーボーイ特集です。
「真っ白なスムーズ・レザーこそ、この夏に対する情熱の証であります」「カラッと晴れたビーチ沿いの遊歩道なんかで、ホワイト・ジーンズやショーツ・スタイルにスムーズ・レザーのスニーカーをはいてしまう…これ。イキの2文字。かえって清々しいから不思議です」という触れ込み。
また登場、「ポパイ諸君、走ってるかね…」のスポルディングジョギングウェアの広告。
今回は足元が見えるので、スニーカーのブランドも判別可能です。
一番右はプーマでしょうか。その隣はナイキ。
お次もナイキ。そして、一番左はポニーです。
カリフォルニアⅠというモデル。
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「世界最大のシューメーカー」バータ
モノクロページ。マウイのショップ紹介。
「世界最大のシューメーカー」、バータの広告。
ん?世界最大?と思って調べてみると、マイナーなスニーカーを集めた書籍「C級スニーカーコレクション」に以下のような説明がありました。
Bata / バタ
1894年、チェコ発祥のシューズブランド。チェコの東部に位置するズリーン州にてトーマス・バタが Bata Shoe Organizationを立ち上げる。 1936年、インドの学生に向けてリリースした運動靴 「Bata Tennis」はこれまでに世界各国で5億足以上を売り上げている。
こちらがバタのテニス。
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当時はテニスシューズ以外に、ジョギングシューズなども展開していました。
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ウィルソンのテニスシューズの生産も請け負っていました。
https://www.pinterest.jp/pin/59250551339816546/
また、近年ではコムデギャルソンとのコラボレーションも行っています。
そんなバタのジョギングシューズ。
上掲のプーマやポニーと同じような、反り上がったヒールが特徴的なジョギングシューズ。これは当時のトレンドだったのでしょう。テニスシューズはレザー素材でhしょうか。
代理店のリスト。非常に個人的な感想ですが、「神戸市葺合区」という現在は存在しない区があるのにびっくりしました笑。
アキレス広告。
大きく掲載されているシューズの色が違いますが、内容は上掲のものと同じです。
「本物のジョギングシューズは《タイガー》だ」
「本物のジョギングシューズとは何か?」の問いに、次のページで「本物のジョギングシューズは《タイガー》だ」と答えている、アシックス広告。
モントリオールⅡは「アメリカでも一番人気のジョギングシューズ」。
「ソール(底)が一番重要なのだ」。当時のアシックスのジョギングシューズのソールは「完全に衝撃から足を守る独特の三層構造ソール」で、「一番外側、直接地面に接する外底の部分には硬質ラバースポンジ」、「中間にサンドイッチされているのが軟質スポンジ」、「その上に見えているのは中底スポンジ」が用いられています。
「オフロード用には、専用シューズがある」として紹介されているのが「エンデュロー」という「芝生、人工芝、そしてやわらかい地面でのみのジョギングのために生まれたシューズ」。
今のトレイルランニングシューズに近しいモデルでしょう。
「機能ストライプと飾りラインの違いを厳しく見分けよう」。「タイガージョギングシューズには、いずれも独特のタイガーストライプが入っている」。ナイキのスウッシュやアディダスのスリーストライプスなど、スニーカーには「飾りライン」がつきものですが、アシックスの「タイガーストライプ」は「飾り」ではなく、「足の疲労を防止するアーチクッションの機能をより完璧にする」、「カカト部分をしっかりとシューズに固定し、シューズが“だれる”ことを防止する」という機能があるというアピールです。
吉祥寺の伝説のスニーカーショップ、テクテック
左ページは「カリフォルニア・ジャムⅡ」というアメリカのフェスを、ジーンズメーカーのボブソンがスポンサードしているテレビ番組で放送するという広告。
で、右ページ下にあるのが、吉祥寺のスニーカーショップ、テクテックの広告。
テクテックは90年代のハイテクスニーカーブームを牽引したスニーカーショップのひとつ。
プーマを代表するハイテクスニーカー、ディスクブレイズはテクテックが別注したレザーモデルがきっかけでその人気に火が付きました。
https://www.pinterest.jp/pin/364932376067331701/
「ディスク ブレイズ」の立ち上がりの状況は残念ながら芳しいものではなかった。しかし、それも当然だろう。従来の価値観ではかれるものではなかったのだから。
パラダイムシフトを起こしたのがテクテックの関村求道さんだった。
テクテックはスニーカーショップの先駆的存在であり、関村さんはスニーカーをストリートに引っ張り出した立役者である。かれが日本SMUモデルとしてつくったのが「ディスク ブレイズ レザー」。これが爆発的にヒットした。
ビームスが最初に仕入れたプーマも「ディスク ブレイズ」だったが、そのきっかけもテクテックだった。テクテックに足繁く通っていたビームスのバイヤーが「ディスク ブレイズ」の商談の最中に店を訪れて見初めたのである。
月へ行ったスニーカーブランド、スポットビルト
1978年当時のテクテックの取り扱いブランドは、ブルックス、プーマ、アディダス、ヘッド、オニツカタイガー、エトニック、スポットビルト、ロット、ケッズ、コンバース、ナイキ、バタ、リーガル、ニューバランス。
スポットビルトは1910年創業のアメリカのスポーツシューズブランド。1969年にアポロ11号が初めて月に到達したときに、ニール・アームストロング船長が着用していたシューズがスポットビルト製でした。
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特に、バスケットボールシューズが人気のブランドでした。
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スポットビルトブランドは後に、サッカニーに吸収されます。
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プーマ広告。
「プーマのガードは固い」。上掲したものと同じく、「プーマ独自の独立懸架システムソール、プーマ・ドン・ソール」をアピールする内容です。
70sスニーカー特集は次回完結!
今回はここまで。
深掘りした内容がたっぷりあり過ぎてこれまで3回続いてきた70sスニーカーの“ファッションアーカイブ”記事ですが、次回で完結予定です。
ご期待下さい。