山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

1977年「POPEYE」で探る、スニーカーがファッションになった瞬間。

目次

 

スニーカーがスポーツギアだった1970年代

これまでの“ファッションアーカイブ”でも題材にしてきたスニーカー

www.yamadakoji.com

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2023年現在、いわゆる「ハイプ」スニーカーブームが終了し、スニーカーの冬の時代が本格的に到来しそうな流れがありますが、今日も明日も僕の足元はスニーカーな訳で、やはりスニーカーはこれからもファッションのキーアイテムとして存在し続けるでしょう。

今回ご紹介するのは、1970年代の「POPEYE」に掲載されたスニーカーの記事や広告です。

言うまでもなく、スニーカーは元々ファッションアイテムではなく、スポーツをするときに着用するギアでした

ですが、1970年代の「POPEYE」を見ていると、元々はスポーツギアだったスニーカーが、徐々にファッションアイテムとして認知されていっている時代だったこと強く実感します。

1960年代から90年代の日本の若者文化を分析した書籍「若者文化史」の1977年の「クロスオーバー時代のスニーカー・ブーム」という項には、このように記されています。

(強調引用者以下同)

前年(引用者注:1976年)メンズファッションでブームになったヘビー・デューティーが、女性でも学生を中心にブームが始まっていたが、77年になり、ダウン・ベストやマウンテンパーカなどのヘビー・デューティ・アイテムが爆発的に流行した。おかげで、美津濃や、デサント、ヒットユニオン、アシックス、ゴールドウィンなどのスポーツウエア専業メーカーが〝アスレジャー"のブームに乗って業績を大いに伸ばした。 アスレジャーは、アメリカで生まれた言葉で、 アスレティックとレジャーの合成語だ。 ジョギング熱が盛んになり、美容と健康の増進のためになんらかのスポーツをする一億総ドゥ・スポーツ"時代が到来した。それを反映して、トレーニングスーツの流行が一種の社会現象になった。「学童がトレーニング・スーツ で通学し、学校の先生が四六時中それを着る風潮はいかがなものか」と、社会問題になったのもこの年あたりからだ。

77年のメンズファッションは、“ヘビアイ”とか“ニュートラ”などと呼ばれるヘビーデューティに、さらに アクティブ・スポーツ(ドゥ・スポーツ)の花が咲き乱れ、ファッションのカジュアル化が極限に達していた。 学生を中心にスニーカーが爆発的に流行した

このスニーカーだが、当時はキャンバス・シューズの総称であった。本場のアメリカでは、スポーツ・シューズと称され、スポーツ別に大別されていた。 ジョギング・シューズ、バスケット・シューズ、テニス・シューズ、デッキ・ シューズの四つが主なもので、好みにあわせてはかれたのがスニーカーである。

今回の“ファッションアーカイブ”では、スポーツギアとファッションアイテムの狭間にあった70年代スニーカーを、アディダスやプーマ、アシックスやヴァンズなどのブランドの歴史と共にご紹介します。

 

1977年のプーマの「ハイテクスニーカー」

古い順からご紹介していきます。

まずは「POPEYE」1977年11月10日号です。本題とは関係ありませんが、表紙のスキー板を乗せたフォルクスワーゲン・ビートルのイラストがめちゃくちゃ格好良いですね。ちなみにこちらは1976年の「POPEYE」創刊から数えて第18号。まだまだ「POPEYE」の黎明期の一冊です。

今回はスニーカー関連の広告や記事のページのみピックアップしてご紹介します。

まず登場するのは、プーマの広告

「プーマはアメリカを占領した。」という、大々的なキャッチフレーズ。これ、具体的にどういうことかと下にある文章をよく読んでみると、「西独のプーマが開発した全面突起のソール」が、「アメリカのトップ・ランナーの間に一大旋風を巻き起こしています」ということ。それだけで「アメリカを占領した」と表現するのはちょっと誇大が過ぎるような気がします笑。

2023年の我々からすると、特に何の感慨も湧かないイボイボソールですが、説明文によると1977年当時はこれが最新鋭の技術が注ぎ込まれた「ハイテクスニーカー」だったことがわかります。

適度に弾力性のある突起部が、固い地面での着地の際の強いショックを吸収してしまうのです。いわば、車でいうサスペンション効果。足の筋や、関節を完全に保護します。 しかも、大地を確実にグリップし、あらゆる状態の着地面でつねに平坦な道と同じ着地感覚が得られます。 また、急な下り坂でも、かかとからの着地が可能です。機能・品質第一主義に徹したスポーツシューズの専門メーカー、プーマならではの本格派。 いま、日本のスポーツ界でも、大きな話題を呼んでいます。

「足の筋や、関節を完全に保護」や「大地を確実にグリップし、あらゆる状態の着地面でつねに平坦な道と同じ着地感覚が得られます」といった謳い文句は、今の感覚だと「ほんまかいな」となってしまいます。

 

兄弟の仲違いから生まれたアディダスとプーマ

プーマとアディダスの創始者が実の兄弟だということは、割と有名な話ではないかと思います。

兄のルドルフ・ダスラーがプーマ、そして弟のアドルフ・ダスラーがアディダスの創始者です。

https://www.pinterest.jp/pin/822258844445807051/

この兄弟の生い立ちから、アディダスとプーマが世界的ブランドとなるまでを描いた書籍が「アディダスVSプーマ」

そしてこの書籍の副題に「もうひとつの代理戦争」とあるように、元は兄弟が共同でひとつのスポーツシューズブランドを立ち上げますが、仲違いしてからはまさに戦争と言うべき競争が、アディダスとプーマのシェア争いというかたちで展開されます。

ダスラー兄弟が少年だった20世紀初頭というのは、まだスポーツという言葉さえろくに知られていなかった頃だ。それでも末っ子のアディ・ダスラーは、時間さえあれば何かの競技を考え出したり、棒を削って投げ槍を作ったり、重たい石で砲丸投げをしたりした。ときに元気いっぱいの遊び友だちフリッツ・ツェーラインを誘っては、この中世風の町を囲む森や草地を長時間走ることもあった。

だが、そんな平穏な暮らしは1914年の8月に終わりを迎える。 ダスラー兄弟の上の二人が戦争に駆り出されたのだ。

戦争の惨禍が色濃く残るなか、アディは田園地帯に出かけては、退却する兵士たちが残していった品を手当たり次第に拾い集めた。それを材料に、数年はもつという丈夫な靴を売りに商売をしたものの、やはり一番の関心はスポーツにあった。 そして試行錯誤を繰り返したアディは、やがて初期のスパイクシューズを考案する。尖った釘を作って靴底に打ちこんだのは、町の鍛冶屋 の息子だった友人のフリッツ・ツェーラインである。起業して二年後に、ルドルフが加わった。 共同経営がスムーズにいったのは、兄弟の性格が正反対だったことによる。無口なたちのアディは、革と接着剤の臭いが立ちこめる工房にこもって過ごすのが好きだった。一方、声が大きく外交的なルドルフは、販売の指揮を執るのに向いていた。

ヴェルサイユ条約の厳しい規定により、ドイツは資源のほとんどを戦勝国に押さえられ、荒廃した国を再建するにもわずかなものしか残されていなかったのだ。怒りと喪失感のなか、何百万というドイツ国民が失業と飢えに苦しんだ。そんな張りつめた社会にあって、人々はスポーツその他の娯楽に夢中になっていった20年代の半ばまでには、国中で雨後のタケノコのようにサッカークラブが誕生し、何千人というサポーターがガタのきたスタンドに詰めかけた。そしてダスラー兄弟は、急増するスポーツクラブに積極的に売り込むことで、次々注文をとりつけていく。その中心はスパイクシューズとサッカーシューズである。1926年、商売の拡大に伴い、兄弟はかつての洗濯室から、ヘルツォーゲンアウラッハを流れるアウラッハ川の対岸の、敷地の広い空き工場に移転した。

飛躍が訪れたのは、猛スピードのバイクが一台、タイヤをきしらせてダスラー兄弟商会の工場前で止まったその日のことだった。乗っていたのはヨーゼフ・ヴァイツァー。口ひげをきちんと刈りこんだ、ひょろりとしたクルーカットの男である。ドイツの陸上競技チームのコーチを務めるヴァイツァーは、ヘルツォーゲンアウラッハのスポーツ狂が作ったというスパイクの噂を耳にして、自分の目で確かめるべく、はるばるミュンヘンからやってきたのだ。

思いがけぬ訪問の後に続いた話し合いは、何時間にも及んだ。以降、ヨーゼフ・ヴァイツァー のサイドカーつきバイクは、ダスラー兄弟商会の日常の光景の一つとなった。実質上兄弟の顧問役を務めたヴァイツァーは、とくにアディとの親交を深め、二人は一緒に走ったり、シューズに ついて何時間も議論を交わしたりした。 そして、 ヴァイツァーにぴったりとくっついて歩いたアディは、ベルリンオリンピックの選手村にやすやすと入ることができたのである。

ダスラー兄弟商会が順調に業績を伸ばし始めた頃、ドイツ経済の苦境と無能とも見える政府の対応は、急進派の台頭を招いていた。そこで急速に支持を広げたのが、アドルフ・ヒトラーと国家社会主義ドイツ労働者党 (NAZIS、ナチ党)が提唱する過激な変革路線である。この動きに呑まれたダスラー三兄弟も、ヒトラーが政権を握って三ヶ月ほど後の1933年5月1日、そろってナチ党に入党した。

ダスラー兄弟商会にとって、ナチは強力な後押しとなった。ヒトラー政権は彼らの理念を性急に実現化しようとし、急務の一つとしてスポーツの振興を掲げたのだ。ヒトラーはスポーツを規律と同朋意識を高める格好の手段とみなしていたうえ、スポーツでの勝利は効果的なプロパガンダとなった。

ナチズムへの熱狂的支持は拡大し、スポーツシューズの需要は急増して、ダスラー兄弟商会は 図らずもその恩恵にあずかった。数倍の規模に成長したダスラー兄弟商会は増築を行い、かつてのヴァイルの工場入り口にはタワーが建てられた。二つ目の工場も、アウラッハ川対岸のヴュルツブルク通りに取得。ダスラーの一番の人気商品は、ヴァイツァーの名をとったスパイクシューズだった

1936年のオリンピックは、ヒトラーが政権を取る前からベルリンで開催されることが決定されていました。

ベルリンオリンピックで、アディ・ダスラーはアメリカの黒人陸上選手ジェシー・オーエンスにダスラーのスパイクシューズを履かせることに成功します

オーエンスは走り幅跳び、100メートル走、200メートル走、リレーの4種目で金メダルを獲得します。

沸きに沸く観衆のなかで、アディ・ ダスラーは誇らしさと興奮を抑えきれなかった。オーエンスが履いていたのは、側面にレザーの ストライプが二本走る黒のダスラー・スパイクだったのである。

オーエンスの快挙により、ダスラーの名は世界の一流選手のあいだで評判になった。国際大会出場のためドイツを訪れた選手やコーチたちは、ヘルツォーゲンアウラッハに立ち寄って、ジェシー・オーエンスの履いたシューズをじかに確かめたりもした。こうしてダスラー兄弟のシューズは、国際的にいっそう高い評価を得ていく

だが、その頃すでにダスラー家では葛藤が生じていた。事業が軌道に乗りだすと、兄弟の正反対の性格がしばしばぶつかるようになったのである。売り上げを伸ばす原動力は兄のルドルフだったが、彼は弟アドルフのシューズに対する異常なまでのこだわりにあきれる半面、経営に全く 無関心な態度にはしょっちゅう声を荒げた。一方アディも、見栄っ張りで派手な兄をうっとうしく思い始めていた。当然、職場での会話は嫌悪になり、同居していた家では、それがさらにとげとげしさを増した。女たちが火に油を注いだからである。

その後、第二次世界大戦でアディとルドルフが徴兵されたときもいざこざが起き、兄弟仲は更に険悪なものとなります。

第二次世界大戦が終わってから1年が経った1946年には、兄弟仲は修復が不可能な状態になっていました。

激しい口論と悪言の末、兄弟は決別する。ルドルフ・ダスラーは荷物をまとめ、妻とアーミン、ゲルトを連れてアウラッハ川の対岸に移った。 ダスラー兄弟商会は自分の存在なしでは立ち行かないと信じていたルドルフは、ヴュルツブルク通りの小さい工場をもらい受け、鉄道駅近くの大きな工場は弟に譲った。軍に占有されていたヴイラもアディ夫妻に譲り、自分の家族は川の対岸に住むことに同意。 残りの資産は、設備からパテントに至るまで、兄弟間で細かく振り分けた。

一方、従業員がどちらに行くかは、自由意志に任せた。予想どおり、販売部門の大部分がヴュルツブルク通りの工場を選び、技術者はアディの側についた

そして、アディダスとプーマが生まれます。

資産分配をめぐる何カ月もの争いの果て、1948年4月、兄弟は完全に袂を分かち、翌月には堂々と別会社を登録できることになった。 アディは「アダス (Addas)」 の社名で登録しようとしたが、類似の名称を持つ子ども靴の会社から申し立てがあった。そこで、自分の名前と姓を縮め、「アディダス (Adidas)」とする。当初、ルドルフのほうも同様に「ルーダ(Ruda)」としたが、どうもあか抜けないように思われ、より軽快な印象の「プーマ (Puma)」で登録する

兄弟間の確執は家族を引き裂き、衝突の場面はさらにその後数十年間にわたって繰り返された。 そしてヘルツォーゲンアウラッハの町まで、川を境にして片側はルドルフ派、対岸はアディ派に分裂し、この町の人々はいつも下を向いている、とさえいわれるほどになる。相手がどちらの靴を履いているか、確認してから会話が始まるというわけである。

 

「クラリーノ」を強く打ち出すアシックスのジョギングシューズ

さて、「POPEYE」1977年11月10日号に戻りましょう。

フリスビー記事の横にあるのが、アシックスの広告

ですが、「クラリーノジョギングシューズ」と目立つように書かれ、右上には素材メーカーの「クラレ」の文字もあります。というか、その「クラリーノジョギングシューズ」という表記でスニーカーが見えないのですが…もしかしたらこの写真では広告している商品を履いていないのではないかと邪推してしまいます。

クラリーノは「世界で初めて事業化に成功させた人工皮革」です。

<クラリーノ>は1964年クラレが世界で初めて事業化に成功させた人工皮革です。日本では1965年より販売開始されました。以来、「いちばん難しいものから作ろう」という研究者の想いからさまざまな失敗とチャレンジを繰り返しながらも、軽くて水に強い・強くて丈夫・なめらかな肌触り・豊富なカラーバリエーションなどを兼ね備えた、高機能な<クラリーノ>へと進化を遂げました。

www.clarino.com

「世界で初めて事業化に成功させた人工皮革」と銘打ってあることからわかるように、クラリーノは「世界初の人工皮革」ではありません。

世界初の人工皮革は、1965年に米デュポン社が発売した靴甲用人工皮革「コルファム」であるとされる。ただし、この製品は、風合いが固くて製靴しにくい、着用時の足馴染性が悪いなどの欠点があったことから、1972年に生産を中止することとなった。

「クラリーノ」は、1964年に倉敷レイヨン(現クラレ、以下「クラレ」と呼ぶ)が開発した人工皮革である。クラレは2つの異なる成分からなる繊維のうち、一方の繊維を取り除くことにより、通常の繊維の数千分の一という極細繊維の束を作る技術を開発した6。この極細繊維は絹糸単糸の3000分の1という細さであり、これが絡み合うことにより、ソフトでしなやか、かつ丈夫な素材が可能となった。さらに、特殊な加工技術によって多様な製品バリエーションを提供しており、靴、鞄、ランドセル、スポーツ用品など、様々な分野で用途を拡大してきた。

koueki.jiii.or.jp

クラリーノ製造の背景や、クラリーノの詳細については以下にページに非常に詳しく書かれています。長くなってしまうので引用は控えますが、興味がある方は是非読んでみて下さい。

koueki.jiii.or.jp

koueki.jiii.or.jp

で、そんなクラリーノが使われたのが、アシックスのサンジェゴ。アメリカのカリフォルニア州にある都市、サンディエゴのことでしょう。

このようにクラリーノが使用されていることを強く打ち出していることから、当時クラリーノが新しい素材として注目度が高かったことが伺えます。

 

バスケットボールシューズで始まったアシックスの歴史

ここで、僕が一番愛着のあるスポーツブランドである、アシックスの歴史をざっくりとご紹介しておきましょう。

アシックスの創業者の鬼塚喜八郎が友人から「きみは靴屋になれ。青少年がスポーツにうちこめるようないい靴をつくれ」と助言を受けたことがきっかけとなり、アシックスの前身となる鬼塚株式会社が、小中学校や警察署にズック靴や警察官用の靴を納める問屋として創業されたのが1949年のこと。

鬼塚が当時住んでいた神戸は日本でも有数のゴム靴生産地だったので、鬼塚は知り合いの工業所に頼み込み、靴のアッパーの裁断やミシンがけ、金型づくり、ゴム底の接着などの特訓を受けます。

そんな鬼塚に、知人で神戸高校バスケットボール部監督の松本幸雄が、バスケットボールの製造を依頼します。当時、陸上やテニス、野球など様々なスポーツのなかで、急発進や急停止を何度も繰り返されるバスケットボール用のシューズの製造は難しいとされていました。

鬼塚は1950年にバスケットボールシューズ第一号を発売。

https://www.pinterest.jp/pin/839569555508167588/

その3年後にはタコの吸盤の原理を応用したソールを開発し、その発売にあわせ、オニツカタイガーのブランドもスタートしました。

つまり、バスケットボールシューズがアシックス初の本格スポーツシューズだったということです。

 

マメができないマラソンシューズ

バスケットボールシューズの後に鬼塚が開発を手掛けたのが、当時日本選手が世界で活躍していたマラソンシューズです。

当時日本の陸上競技では、座敷用のたびを改良したシューズが着用されており、鬼塚が最初にマラソン用として1953年に発売したのもマラソンたびでした。

ですが、マラソン大会で外国人選手が着用していた合成ゴムスポンジ底のシューズを見た鬼塚は、マラソンシューズの開発をはじめ、マラソンたびを発売したのと同じ年に初のマラソンシューズ、マラップを発売。

その後、足の裏のマメに悩まされるマラソン選手の声を聞き、マメができないマラソンシューズを目指した開発されたのが1960年に発売されたマジックランナーでした。

https://www.pen-online.jp/article/008875.html

当時、マラソンにマメはつきもの。マメができないマラソンシューズなど、絵空事と考えられていました。

マジックランナーはシューズのなかの空気を循環させて熱を逃がすために、アッパーに目の荒い布を使い、シューズのまえと横に穴を開け、着地するときに足と中底の間に溜まった熱が放出され、足が地面から離れると冷たい空気が流れ込むという方式になっており、鬼塚はこれで特許を取得しました。

 

コルテッツとコルセア

1964年の東京オリンピックを機に、オニツカは本格的に世界進出を始めます。

そして、スポーツ大国アメリカでの販売店としてオニツカの橋頭堡となったのが、フィル・ナイトが創業したブルーリボンスポーツ社。フィル・ナイトと共にブルーリボンスポーツ社の共同創設者だったビル・バウワーマン博士がデザインに手を加え、彼の指定したスペックに沿って日本で製造されたのが、オニツカタイガー コルテッツです。

https://www.pinterest.jp/pin/433401164157324408/

コルテッツは1968年のヒット商品になりますが、輸送や発注トラブル、銀行融資などの問題がオニツカとブルーリボンスポーツとの間で起こり、その後裁判沙汰にまで発展。

コルテッツはタイガーコルセアという名称になり、コルテッツはブルーリボンスポーツ社、後のナイキが販売するようになります。

参考:

 

ファッションアイテムだったバスケットボールシューズ

誌面に戻ります。

次にご紹介するのは「カリフォルニア感覚」という文字が踊る、ファッション性を強く打ち出した「UCLAシューズ」の広告。製造しているのはムーンスター

UCLAはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(University of California, Los Angeles)のこと。多数の学者、政治家、スポーツ選手、芸術家を生み出している、アメリカでも有数の名門です。

www.ucla.edu

正規のライセンスの証である、「全米大学体育協会」のロゴ。

手に持っているのは、「太陽よりも明るくふるまおう」から始まるポエムっぽい文章や、「我ら、スニーカー世代」というキャッチコピーからも、ファッション的なアピールが強いに感じます。

上述したように、こういったコンバースオールスタータイプのバスケットボールシューズは、1970年代後半には既にファッションアイテム的な存在だったのでしょう。

「手に持っているクツ」は2,000円。安いです。

その他の商品も、機能についてひとつも触れられていないところから、UCLAのブランドをウリにしたファッションアイテムであることがわかります。

上掲のプーマも、このUCLAシューズも、現在の感覚からすると同じ「ローテクスニーカー」というファッションアイテムのカテゴリと認識されそうですが、1977年当時はこの2つのスニーカーには大きな隔たりがあったことがわかります。

 

スニーカーとカルチャーが邂逅した「ウエスト・サイド物語」

お次はモノクロページ。

「アム・スポーツ・フットウェア」というお店の広告で、その冒頭には「60年代の心情と風俗を刻印したウエスト・サイド物語の主役はスニーカーだったと今気づく・コンバース&ケッズウィーク」と記されています。下には「「ウエスト・サイド物語」の61年がスニーカーのルーツ」とも。

「ウエスト・サイド物語」は1961年に公開されたミュージカル映画です。一見スニーカーとは何の縁もなさそうに思えますが、実はスニーカーの歴史を語る上で非常に重要な作品なのです。

https://www.pinterest.jp/pin/23925441755984418/

youtu.be

物語の舞台は1950年代のニューヨークのウェストサイド・マンハッタン。社会に不満を持つ移民の若者たちの葛藤と恋を描いた青春物語です。

https://www.pinterest.jp/pin/258605203595906876/

ミュージカル映画なので、歌とダンスが全編を通して続きます

↓の写真のように、脚を上げるシーンも多く、その度に足元に目が行きますが、劇中でニューヨークの若者たちが着用していたのが、コンバースをはじめとしたローカットのキャンバススニーカーでした。

https://www.pinterest.jp/pin/441282463500913921/

https://www.pinterest.jp/pin/176555247872002662/

この広告の「60年代の心情と風俗を刻印したウエスト・サイド物語の主役はスニーカーだったと今気づく」というのは、このことを指しているのでしょう。

1961年の「ウエスト・サイド物語」がスニーカーとカルチャーが交わった最初の瞬間ではないでしょうか。

「コンバース&ケッズ・ウィーク」ということで、この広告に掲載されているのはその2ブランドのみです。最初は、バスケットボールシューズ。コンバースオールスターは6,800円です。

次はテニスシューズ。

 

今は亡きスニーカーブランドの数々

最後はトレーニングシューズ。

その他の取り扱いブランドは、アディダス、ニューバランス、オニツカタイガー、ナイキ、エトニック、バータ、スポーデン、ロット、アダックス、ブルックス、トレトン、リーガル

今も人気のスポーツブランドが中心ですが、馴染みがないブランドもいくつかあります。

まず、SPordenですが、調べてみるとほとんどネット上では情報は見つからず、ゴルフシューズとアイススケートシューズがひとつずつヒットしたのみ。

paypayfleamarket.yahoo.co.jp

www.carousell.ph

ADDAXは日本のメーカー、アサヒが展開していたブランドで、体育館シューズを中心に展開していたようです。

paypayfleamarket.yahoo.co.jp

こんな某ブランドに激似なモデルもあったようです笑。

www.qoo10.jp

 

コルテッツとワッフルレーサー

次にご紹介するのは、「POPEYE」1978年2月10日号です。アイスホッケー選手が表紙のアラスカ特集号。この特集もかなり興味深い内容なので、また“ファッションアーカイブ”でご紹介できたらと思っています。

さて、ひとまず当記事ではスニーカー関係だけをピックアップしていきます。

1977年11月10日号にも掲載されていた、アム・スポーツ・フットウェアの広告。「ポパイよ、お前も一度トレーニング・シューズで走ってみたら」というキャッチコピー。

筆頭はナイキのナイロンコルテッツ。次はワッフルトレーナー。初期のナイキを代表する名作が続きます。

ワッフルレーサーの特徴は、ビル・バウワーマンがワッフルの焼き器から着想を得たという、ワッフルソール。ワッフルソールはその後ナイキを象徴するディテールとなり、コピー商品を牽制するこんな広告もつくられていたようです。

https://www.pinterest.jp/pin/465207836523005482/

続いて、レザー素材のコルテッツと、1972年に発売されたバスケットボールシューズ、ブルインのレザーモデル。

最後に掲載されているのは、ル・ヴィラージュ。こちらはコルテッツをベースに、カジュアルシューズとして企画されたモデルだそうです。

 

「シャレたタウン用にもなる」メイド・イン・イタリーの名品<ロット>

1977年11月10日号に引き続き登場の、ムーンスターのUCLAシューズの広告。

UCLAシューズのロゴの上には、「カリフォルニアからやってきたフットウェアー」というキャッチコピーが加えられています。

特に当時の「POPEYE」読者にとって、アメリカ西海岸はまさに憧れの存在だったので、このようにカリフォルニア、ロサンゼルスを強くアピールする広告になったのでしょう。

左のモノクロページはプレゼント企画。

そこに、「LOTTE<ラピッド>」が登場しています。「あらゆる路面で軽快なフットワークを保証する定評あるトレーニング・シューズ」ですが、「スポーツのトレーニング用にはもちろん、シャレたタウン用にもなる」という風に、ファッションアイテムとしての着用も提案されています。こういった表現からも、1977年頃がそれまでスポーツギアだったスニーカーがファッションアイテムとしても認知される過渡期だったことが伺えます。

「メイド・イン・イタリーの名品<ロット>」とあるように、ロットは1973年創業のイタリアのブランド。1980年代はサッカーシューズのブランドとして名を馳せます。

現在の日本企画はテニスウェアに力を入れているようで、プロ選手のスポンサードもしています。

www.instagram.com

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アディダスとプーマが手を結んだ「ペレ協定」

こちらは「スウェード革のアッパーの高級スニーカー<ポニー>」

現在のポニーは本格的なスポーツシューズは展開していませんが、当時は様々なスポーツシューズを展開していました。

1972年、ニューヨークでスタートしたアメリカのシューズブランド"ポニー(PONY)"。1976年にはサッカーやラグビー、テニスなど、スポーツの有名選手が使用する人気ブランドとなり、特にペレは、"PONY"を着用して記録的な1300ゴールを記録したことでも知られている。

shoes-box.net

こちらはペレも登場しているポニーのサッカーシューズの広告。

https://www.pinterest.jp/pin/318137161181024705/

サッカーの神様、ペレ

https://www.pinterest.jp/pin/700591285802292108/

アディダスとプーマの確執から生まれた「ペレ協定」と呼ばれるエピソードが有名です。書籍「スニーカーの文化史」から引用します。

ダスラー兄弟の対決は次世代に引き継がれ、アディの息子ホルストとルドルフの息子アルミンが、それぞれの社内でいっそう顕著な役割を果たし始めた。次の大きな国際スポーツ大会は1970年のワールドカップだった。競技人口が世界最大のスポーツをめぐって、いとこのホルストとアルミンは選手を囲い込むためにしのぎを削った。しかしどちらの陣営も、1968年オリンピックのときのような醜い戦術を使いたいとは望んでおらず、クリーンな方法の端緒となる選手がひとりいることを知っていた。それはペレだった。ブラジルの英雄との契約は、非常に高くつく。本人も安くないが、ほかの選手たちまで契約料の値上げを要求し、どちらの企業にとっても 許容範囲を超えた勢力争いを引き起こす恐れがある。そこで、ふたりのいとこは、非公式ながらも「ペレ協定」を結んだ。両社ともペレだけには手を出さない、とする内容だった。ところが、 ブラジル選手の多くがプーマとの契約を結ぶなか、ペレは、なぜ自分にだけオファーがないのかとプーマの担当者にしつこく尋ねた。誘惑に勝てなかったアルミン・ダスラーは、結局、ペレと契約を結んだ決勝戦のキックオフの直前、ペレは主審にちょっと待ってくれと頼み、靴紐を結び直した。身をかがめて紐を結ぶあいだ、中継カメラがプーマの白い横ラインを捉えた。ホルスト・ダスラーを含む全世界の視聴者が、この偉大な選手はどんな靴を履いているのかを思い知った。

https://www.pinterest.jp/pin/570127634092233926/

このペレ協定を契機に、スポーツブランド同士のスター選手の囲い込み合戦がより熾烈になっていきました。

 

「タウンシューズとしてもバッチリ」のヴァンズ

プレゼントページ下段には、ヴァンズの広告が。

「SKATEBOAD SHOES Made in U.S.A」と大書され、「耐久性のある厚地キャンバス地」「バン社独自の開発によって生まれたスーパーグリップソール」「くるぶしをガッチリ守るソフトパッド」「ヒール部分は二重構造の縫製仕上げ」と、スケボーに求められる機能性をウリにしていますが、「はきごこち抜群のクッションソールはタウンシューズとしてもバッチリ」と、ファッションアイテムとしての訴求も同時に行われています。

ヴァンズ黎明期について、上掲「スニーカー・スタイル」から引用します。

'70年代の初期、バンズのデッキシューズは1足6ドルであり、このスポーツの性質上、スケーターは何足もシューズを履きつぶした。 バンズだけでなく、スペリートップサイダーや、コンバースのジャックパーセル、 オールスター、ケッズのカジュアルスニーカーも同様で、数週間で履き替えられるため、グ リップ性と同じくらいに値段の安さが重要視された。 当時のバンズは本当に小さな会社で すべての商品が南カリフォルニアの小さな自社工場で生産されており、周辺地域にあるいくつかのバンズの店頭でしか購入できなかった。

バンズの場合、 たった1ドルを追加するだけで、シューズの生地をカスタムしたり、 好みのカラーリング にすることができた。 元祖Zボーイズのウェンツル・ラムルは、ツートンカラーのバンズをオーダーした初期のひとりで、 特にネイビーとレッドのコンビネーションは、 ドッグタウンのメンバーや彼らにあこがれる若者に人気となって、L.A.のウエストサイドで瞬く間に大ブレークした。 バンズのショップへ行 き、シューズをカスタムオーダーするのがクールなことになったのである。

Z ボーイズのひとりトニー・アルバは、当時世界的に名を知られていたので、彼がバンズのシューズを履いてスケートボーダー誌に登場すれば、それだけバンズの売り上げが伸びたのはいうまでもない。 ほかのドッグタウンのスケーターやプロスケータ ーたちも、それぞれ独自のカラーリングのバンズ を履いていた。

バンズはプロ志向のZボーイズ、 ステーシー・ペ ラルタと組み、ペラルタはスケートボードに特化したシューズのデザインに参画した。 もちろん、このこと自体は正しかったのだが、 バンズは突然価格をオリジナルの7ドルから3倍以上値上げし、このブランドの魅力のひとつを失った。とはいえ、スケートシューズとしての機能性には優れていた ので、ヒット商品になる。スケートボードはすで に大ブームとなっていたが、高い価格を支払うのであれば、ナイキなどほかのブランドのシューズも検討したほうがいいことに、スケーターたちは気づき始めた。 機能性の面でも、ナイキは初期のブレーザーをトニー・アルバに提供しており、足首部分にたっぷりとパッドが入ったこのバスケットボールシューズは、情報通のスケーターの間で人気となった。

 

謎のコンバース・ロボ

裏表紙。コンバースの広告です。

ロボです。

コンバースのスニーカーを履いているロボです。

「EXCLUSIVE LICENSEE FOR CONVERSE U.S.A」とあります。ゼネラルミリオンセラーズプロダクツという日本の企業がライセンスを取得して出した広告だと思われますが、この広告の意図は何だったのでしょうか。

 

ニューバランス320の「インステップ・レイシングの意味」

お次は「POPEYE」1978年2月25日号。アメリカのローリング・ストーン誌特約第1号、目玉企画はボブ・ディランのインタビュー。

表紙をめくって目に飛び込んでくるのが、ニューバランスの広告。

ニューバランスで初めて数字がモデル名になったのが、この320です。

「インステップ・レイシングの意味」と、意味深に書かれています。

「訳してしまえば甲を締めること」。「土踏まずから踵にかけてはピシッと締まっているのに、指は自由に動かせるでしょう」「だから長く走っても無理がありません、足が疲れません」とのこと。

製造元はムーンスター

ニューバランスの成り立ちについて、書籍「スニーカー・スタイル」から引用します。

ニューバランスの名は、ニューヨーク・シティマ ラソンとの関連で広まったが、 そのルーツはマラソンの心のふるさと、マサチューセッツ州のボストンにある。 '06年、33歳のイギリス移民ウイリ アム・J・ライリーは、シューズの世界に一歩足を踏み出した。足の健康に関心があったライリーは、 特殊なアーチサポートによる矯正靴を開発。 ニューバランスという社名は、そのシューズの特性や、 着用者が感じる「新しい (ニュー) バランス」に由来する。

'50年代、ニューバランスの経営は、アーサー・ホールの娘エレアノと、 義理の息子のポール・キッドに委ねられたが、 基盤はあくまで矯正靴だった。そして'61年、専門知識をスポーツ業界に活用することを決断。 その結果、異なった足幅が選べ、リップルソールを搭載したトラックスターが誕生し、ニューバランスはその名をより知られるようになった。

ニューバランスの第2の物語は、'72年のボストンマラソンの開催日に始まる。この日、ジム・デービスが同社を買収したのだが、 その時点でニューバランスの従業員は6人、 日産36足の規模でしかなかった。

'75年、ニューバランスの320を履いたトム・フレミングが、ニューヨーク・シティマラソンで優勝。その結果、ニューバランスは権威あるランナーズワールド誌でナンバーワンのランニングシューズに選出された。これがきっかけで、ニューバ ランスもいよいよスポーツシューズ業界のトップ に躍進するかに見えたが、数々の成功にもかかわらず、ニューバランスがセールス面で業界の頂点に登りつめることはなかった。

最後の「数々の成功にもかかわらず、ニューバランスがセールス面で業界の頂点に登りつめることはなかった」という一文が非常に物悲しいですが…良くも悪くもニューバランスは通好みのブランドということでしょう。

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モノクロページの「ノース・ショアの波の歌は爽快だった!」というサーフィンの記事横に、スニーカーの広告。

「VAX THAT'S SNEAKER」というキャッチコピー。

アディダスのスタンスミスを思わせるシンプルなデザイン。

スタンスミスとはもちろん違い、4本線です。

調べてみると、ムーンスターがVAXブランドのスニーカーを展開していたようですが、こちらは1984年が発売となっています。

VAX(バックス)シリーズは、1984(昭和58)年に大学生をターゲットにして発売したスニーカーブランドです。この年はコンバース社のキャンバスオールスターが日本国内で年間販売足数100万足を突破した年であり、まさにスニーカー絶頂期でした。ムーンスターでは長年にわたって培ってきた製靴技術をつぎ込んで、「履いて快適なこと」、「ファッション性に富んでいること」を融合させた新たなスニーカーの開発に取り組んだのです。

www.moonstar.co.jp

↑はムーンスターの公式ページなので、さすがに発売開始年を間違うことはないでしょう。

なので、1977年の「POPEYE」に掲載されている「VAX」とは別物かと思われますが、↓の一文は「POPEYE」広告と合致する部分もあるので、詳細は不明です。

発売時、サイズ表示はアメリカサイズ・日本サイズを両方併記、デビュー広告はVAXロゴのみを表示し、詳細情報を出さないティーザー広告を実施するなど、VAXは「国籍不明」を演出しました。

 

まだまだ続く70sスニーカー研究

1970年代の「POPEYE」に見るスニーカー研究。

盛り込みたい内容が沢山あったので、この1記事にはまとめきれませんでした。

全3回くらいに分けての公開となります。

続きは来週公開します。

お楽しみに。