目次
- 最後のストリートカルチャー、ピスト
- 「ブレーキなし。問題なし。」
- 藤原ヒロシとピスト
- 無駄の一切ないクールな機能美
- 大友克洋・寺田克也が描くジロ・デ・イタリア
- これからの自転車カルチャーとファッション
先週の“ファッションアーカイブ”では、1981年に「POPEYE」が提案した自転車カルチャーとファッションをご紹介しました。
今回も引き続き、自転車×ファッションについて。
最後のストリートカルチャー、ピスト
直近の自転車カルチャー×ファッションとして思い浮かぶのが、2000年代後半のピストブームです。
こちらは当時のブームの当事者が参加した対談記事です。
要点部分を引用します。
ピストブームが盛り上がり始めたのは、2006年頃。(強調引用者以下同)
それまでは、自分もNYのメッセンジャーが乗ってるって聞いてはいたけど、日本で乗ってる人は見なかった。当時はストリートで自転車と言えばBMXみたいなアメリカンなバイクにみんな夢中になっていました。
多分、あの時に日本人でピストに乗ってたのは、現役のメッセンジャーだったHALさんやshinoさん、NYでメッセンジャーをしていたアーティストのMADSAKIさんくらいだと思います
そしてピスト人気を決定付けたのがMASHですよね。最初のビデオが2007年で、そこから一気に広がりはじめた
↑の動画、僕は今回初めて観たんですが、めちゃくちゃスリリングです。正直僕はこういうのはあまり好きではないんですが、惹かれる人は相当惹かれるんだろうなと思います。
ピストって図らずもvimeoやYouTubeといったネット動画が広がっていく時代とリンクしていたカルチャーなんですよね。
記憶に残ってるのがブームの走り出しの頃、YouTubeすら割と感度の高い人しか知らない時期にヨッピーさんがサンフランシスコでダウンヒルする映像を上げていて。それが生まれたてのピストシーンの中でバズってて
2006、7年ぐらいが黎明期で、2008年、9年あたりで規制が厳しくなり、10年くらいには乗ってる人は静かに個々で楽しんで、あんまり外に発信していかなくなって落ち着いた感じかな。そう考えるとあっという間だったなあ。こうやって振り返ると、全部2-3年ぐらいの間に広がっていったことなんですね
ピストって、インターネットの普及も相まって、世界同時でみんなが目撃したというか。だからあれだけの旋風になったのかなっていう感じはします
今やカルチャーとインターネットは切っても切れない関係ですが、ピストムーブメントはそのいとぐちだったということです。
当時はストリートシーンの元気がなくなっていたところに、みんなが口コミで集まってきて夜な夜なレースしたりね。そういうゲリラっぽさだったり、健全すぎないところがすごくストリートっぽかったよね。と同時に「これが最後のストリートカルチャーなんだろうな」って感じはすごいしてた
事実、最後ですよね。あの後、新しいムーブメントが出てこない。ただ、ブームは終わって多少淘汰されたけど、残ったお店もあるんですよね。「BLUE LUG」然り「GEEK GARAGE」然り
文中に登場する「BLUE LUG」は、現在も東京の自転車カルチャーを牽引するショップです。自転車やパーツだけでなく、ウェアやグッズなどを幅広く扱っており、ロードバイク通勤時代の僕も、何度もお店を訪れたことがありました。
「ブレーキなし。問題なし。」
そして、こちらが文中で挙げられている、当時のナイキの広告です。
http://blog.livedoor.jp/watiro/archives/53996610.html
今でこそそういったイメージは薄れているような気がしますが、特に80年代から90年代にかけて、ナイキが打つ出す広告などのビジュアルは反骨精神に溢れていて非常にクールでした。
https://www.pinterest.jp/pin/858991328947400094/
https://www.pinterest.jp/pin/675399275379264971/
ピストの広告の「ブレーキなし。問題なし。」も、そんな反骨精神の現れだと思いますが、時代の空気や折り悪くピストによる事故が話題になっていたこともあって、ピストムーブメントの負の象徴のようになってしまいました。
おそらく、この広告が90年代に出されていていたら、全然問題になっていなかったでしょう。
2023年の今だと即炎上ですけどね。
藤原ヒロシとピスト
同じく、上掲の記事にも登場しているのが、こちらの雑誌画像。
http://blog.livedoor.jp/watiro/archives/53996610.html
言わずとしれたストリートファッションのゴッドファーザー、藤原ヒロシさんです。
藤原ヒロシさんもピストムーブメントの立役者のひとり。
藤原ヒロシさんを知る上で必読の書、「丘の上のパンク -時代をエディットする男、藤原ヒロシ半生記」にも、ピストを手にする藤原ヒロシさんの写真が掲載されています。
藤原ヒロシさんとピストの出会いは、上掲の動画『M.A.S.H.』とのこと。
友人のYOPPY(江川芳文)にピストを組んでもらったのがイヴェントの数ヶ月前。じつはその前に、05年のBFFで上映された『M.A.S.H.』を観る機会があったのですが、それでピストに興味を持った。実物のピストに乗ったら、どんどんハマっていきましたね。初めて参加できた06年のBFF、楽しかったです。 映像はもちろん、『M.A.S.H.』の監督やクルーにも会えましたし。自転車で来ている人もたくさんいましたね。
そして、藤原ヒロシさんが自転車にハマった理由は彼の「血」にあると話しています。
F-BLOODなのかな、自転車に乗るのは。祖父が自転車屋、父が競輪選手。
競輪選手の父を持つ藤原家は、一般家庭と違って毎日父が家にいました。月に3度くらい、レースで3泊4日の旅に出る。それ以外は毎日家にいる。
レースからお土産と賞金袋を持って帰ってくる。当時は現金だったんですよね。で、子供達3人でいくら稼いだか数える。だから子供心にお父さんがいくら稼ぐのか、わかってた。変な家族。貧乏というわけでもなく、贅沢をするわけでもなく。毎日ペダルを踏んでた父。
お父さんと腹を割って話した事って一度もない。 お父さん、ずっと少し遠い存在だった。もし今生きてたら、初めて自転車という共通の話題で話ができたのにな。腹を割って話が出来たのかもしれないな。
藤原ヒロシさんの影響については、ビームス40周年記念で出版された「WHAT'S NEXT? TOKYO CULTURE STORY」でも触れられています。
NYを拠点に活動する写真家ピーター・サザーランドによる、 ニューヨークメッセ ンジャーたちの姿を追ったドキュメンタリー映像 「PEDAL」が日本に輸入されたのが、 2002年あたり。以降、メッセンジャーたちが乗りこなすブレーキやギアなどといったものがないピストバイクやフィックスドギアバイクに乗るクリエイターたちが増えていく。そして、 実際にニューヨークで数年間メッセンジャーをしていたというアーティストのMADSAKIや藤原ヒロシらのピストバイクが雑誌に紹介されたり、また2007年には、「BRUTUS」 が "NO BIKE NO LIFE 自転車に夢中!" という特集を組んだりと、ピストブームは新しいストリートカルチャーとして若者を中心に認知されていったのである。
しかし、安全を重んじる日本はブレーキのないフィックスドギアバイクを簡単に受け入れることはなかった。2007年にナイキが 「ブレーキなし。 問題なし。 Just do it!」というコピーを書いた壁面広告を渋谷パルコの壁面に貼りだすが、この広告が違法行為を誘発するものではないかという苦情が殺到し、数日で撤去されてしまう のである。そして2013年、東京都は自転車安全条例を制定し、事実上それまでは野放しだったノーブレーキピストの都内での販売を明確に禁止し、ピストバイクブームはやむなく終焉を迎えたが、近年はブレーキを付けるなどし、人気が再熱しつつある。
無駄の一切ないクールな機能美
そして、↑の文中にある「2007年には、「BRUTUS」 が "NO BIKE NO LIFE 自転車に夢中!" という特集」の号が、運良く手元にありました。「BRUTUS」2007年7月15日号です。