山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

なぜ、安全ピンはパンクの象徴となったのか?

前回、前々回、前々々回に引き続き、ファッションデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッドの自伝から、興味深かった点をピックアップしてご紹介します。

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ヴィヴィアンの象徴オーブマーク誕生秘話

さて、今回は小ネタ特集的な内容でお届けします。

ヴィヴィアン・ウエストウッドと言えば、ブランドロゴにもなっているオーブ

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ブランドの象徴として、服はもちろんのこと、アクセサリーや財布など、様々なアイテムが展開されています

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上掲の記事でもご紹介している通り、ヴィヴィアン・ウエストウッドは幼き日に見たエリザベス女王の戴冠式をきっかけに、英国王室から強い影響を受けるようになりました。

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そして、このオーブマークは英国王室のチャールズ皇太子からインスパイアを受けてつくられたことが、書籍の中で語られています。(「ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝」から引用 強調引用者以下同)

ほどなくわかってきたことだが、ヴィヴィアンにはロゴが必要だった。「あれは、ハリス・ツイード・コレクションを制作しているときだったわね」 ヴィヴィアンが想い出を語った。「セーターをデザインしたの。チャールズ皇太子に似合うセーターというイメージだった。たとえば、皇太子がキルトにあわせるとしたらどんなセーターを着るだろう、って考えたの。そのセーターには、アザミとバラとシロツメクサと、2本足で立ちあがるライオンの図柄が付いていた。そして、その頃ベンが天文学に夢中だったことと、わたしは昔から星とか近未来とかそういう発想が好きだったから、ディープ・ スカイと文字を入れたの。そのセーターによ。そしたら、カルロが言ったの。『それをきみのロゴにしよう』って。王権を象徴する宝珠と土星の輪は伝統と未来を表すから。それに、わたしはチャールズ皇太子の大ファンなのよ
このロゴは、イギリスらしさと世界を視野に入れた未来志向の考え方を同時に表していて、ヴィヴィアン・ウエストウッドという企業が当時から現在に至るまで貫いてきた二面性も反映している。

チャールズ皇太子(現 チャールズ3世)は、当ブログでもご紹介したように、独自のファッション観を持っています。

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ヴィヴィアン・ウエストウッドがチャールズ皇太子をイメージしたセーターはどんなデザインだったのか。

残念ながらその画像は書籍には掲載されていません。気になります。

 

安全ピンをパンクの象徴したのは誰なのか

セックス・ピストルズのメンバーたちが身に付けていた安全ピン

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今もなお、パンクを象徴するアイテムというイメージが非常に強く残っています。

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では、安全ピンをパンクと結びつけたのは誰だったのか

ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンがパートナーとして活動を始めた頃に訪れたニューヨークでの衝撃的な出会いに、その答えがありました。

ニューヨークのダウンタウンはヴィヴィアンのファッションにおける感性に新たな発想を与えてくれた。それは、映画の中のアメリカとは対極にある、現実のアメリカであった。かたや、マルコムにとってニューヨーク生活は、ポップスへの転向という人生の転換期となった。その夏、彼は音楽にすっかりとりつかれ、レット・イット・ロックの見本市は、バンドのスタイリストに転向する準備をはじめる口実でしかなくなってしまったようだ。しかし、ドールズを通じて、マルコムとヴィヴィアンははじめてひとりの男の存在を意識するようになる。その男との出会いは、バンドがマルコムの興味音楽の世界へと誘っていったように、ヴィヴィアンの服に対する考え方を微妙に変化させることになった。その人物の名前はリチャード・マイヤー。音楽家でもある彼は、一般には「ヘル」という名前で知られていた。彼こそ、スタイルという意味で、ニューヨークとヴィヴィアン、マルコムとパンクを結びつけた張本人である。
「リチャード・ヘルは、とにかくすごいやつだと思った……なにもかもぶっ壊して、引き裂いてた。 まるで排水溝の穴から這い出してきたみたいだった。何年も寝ていないみたいで、誰からも見向きもされていなかったな。彼のほうも人のことはまったく眼中にないみたいだったけど! 本当にすごかったよ。いつも破れたTシャツを着ている、くたびれてよれよれの傷だらけの汚い男。そういえば、当時安全ピンはつけてたっけ?つけていたかもしれないな。とにかく、それがやつのイメージだ。 短い髪を逆立てて、なにもかもそんな感じだった。 それで、そのイメージをロンドンに持ち帰ったわ け。僕はすっかり感化され、それを真似てイギリス風にアレンジしたんだ
これはマルコムの言葉だが、それ以前にヴィヴィアンとそういう会話をしていたことは明らかだ。 しかも、ヘルは、ヴィヴィアンとマルコムがすでに確立していたスタイルにぴったりの、いうなれば、ポスター・ボーイ的存在だったと、ヴィヴィアンは今でも断言している。ちなみに、ヘルは文学の歴史から発想を得ていて、フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌやアルチュール・ランボーの頽廃 的な美意識に傾倒していた。ぼさぼさの髪に、50年代風の雰囲気、破れたTシャツにレザーという彼独特のコーディネートは、ヴィヴィアンとマルコムがすでに制作し、みずからも着用していたファッションと完全に重なっていた。しかし、それに加えて、ヘルのスタイルには男臭さのようなものが漂っていた。世の中に疲れ、麻薬に溺れたような頽廃的な雰囲気の中に、モッズ族の尖った感じと、ロッカーらしい威圧感があり.....。そして、さらに彼を象徴するものが、安全ピンだった。安全ピンを実際に最初に使いはじめた人物については、ヘルを含め、ジョニー・ロットン、シド・ ヴィシャス、ヴィヴィアン、マルコムとさまざまな名前が挙がっているが、この安全ピンはやがて、 パンクの記号論をもっとも象徴するアイテムのひとつになる。ヴィヴィアンは安全ピン論争について 今も明確な答えを出していないが、シドかジョニーだと主張している。「ジョニーは耳に安全ピンをつけてた。シドはピンクのギャバジンのパンツをもっていてね。今でもあれはよく覚えてる。それで、 麻薬中毒みたいな男がシドのいない間にそのパンツを引きちぎって、めちゃくちゃにしちゃったの。 シドが、戻ってきたら自分のパンツが切り裂かれていたものだから、安全ピンで切れ切れになった布をつなげたらしい。それで、彼がそのパンツをはいて店に入ってきたの。トイレットペーパーをネクタイ代わりに首に巻いてたのも覚えているわ。当時はみんなそんな感じだったの。やかんをバッグ代わりに持ち歩いているアイルランド出身の女の子たちもいたし、頭にジャムトーストを乗っけて歩き回っている男の子もいたわ。だから、安全ピンなんてかわいいものよ」

こちらがマルコム・マクラーレンが強く感化された、リチャード・ヘルです。

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こちらのサイトに、リチャード・ヘルの音楽のプロフィールがわかりやすくまとめられています。

wmg.jp

確かに格好良いです。

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マルコムは、服を解体するという若い頃のヘルの実験的スタイルの中に、そして、ロンドンで見かける安全ピンややかんバッグの美意識に、ファッションにおけるブリコラージュの可能性を見出していた。ヴィヴィアンには直接会った記憶がないようだが、リチャード・ヘルという人物は、 マルコムにとって、パンクの可能性を決定づける試金石のような存在となった。そして、パンクは、 都会のゲリラ風ファッションとなり、服や言動の中に燃えたぎった怒りをもつものとなった。パンク・ ファッションがついにそれにふさわしいスタイルを構築しはじめたのだ。活動家キャロライン・クーンが言うように、もしマクラーレンがパンク界のディアギレフだとすれば、ヴィヴィアンは彼のニジンスキーであり、イギリスに帰国して全身パンク・ルックに身を包んだ最初の人物こそ彼女だった

本書によれば、パンクの本当の父は、リチャード・ヘル

リチャード・ヘルのスタイルをイギリス風にアレンジしたのが、ヴィヴィアン・ウエストウッドの

そして、安全ピンがリチャード・ヘルを象徴するアイテムだった、ということです。

 

パンクの女王ヴィヴィアン・ウエストウッドが生まれた理由

諸説あるようですが、本書では上述の通り、パンクが生まれた場所はニューヨーク。

ですが、それをマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドがイギリスに持ち帰り、ヴィヴィアン・ウエストウッドは自身の英国趣味を加えたファッションをつくり、マルコム・マクラーレンはセックス・ピストルズというバンドをつくります。

そして、クラッシュ、ダムドなどのパンクバンドの活躍もあり、パンクと言えば、ニューヨークよりもロンドン、というイメージが強い人も多いと思います。

パンクは音楽やファッションだけでなく、アートや演劇など、様々なカルチャーに影響を与えていますが、当時のイギリスでパンクカルチャーが花開いたのには、社会的な理由があったようです。

ポップ・ミュージシャンやポップ・アーティスト、ポップ・デザイナー、そして、そのファッションやそれを扱うブティックが、イギリス全土、とくに、ロンドンに次々と登場したことは、若者たちの間でさまざまなカルト集団が生まれる土壌と根拠となり、ひいては、それがビジネスへと発展していった。商売になると狙っていたわけでも、前もって想定していたわけでもなかった。ただ、ヴィヴィアンとマクラーレンがのちに指摘したように、ファッションとかポピュラー・ミュージックに関連するものをいつまでも商売に利用しないで遊ばせておくということは、今ではあまり考えられない。 ヴィヴィアンと同年代の人々は、教育機会均等政策の恩恵をはじめて享受した世代で、グラマー・スクールへの進学や美術学校への学生補助金が認められた。つまり、美術学校教育が、彼女を含め、社会規範への反抗心や社会への切実な義憤を抱えた労働者階級の子どもに、消費者主義や大衆市場の盛り上がりに応えられるだけの表現や画像を提供できる知識と技術を与えたということだ。10代の頃にベル先生からデザインの才能があると言われ、自分はコピーライターにもなれただろうと今も得意げに話すヴィヴィアンは、グラフィックという新しい分野の先鋒に立っていた。これよりも前の時代にはなかったことだが、集中砲火を浴びるように立て続けに娯楽を見せつけられたこの戦後世代の多く は、新設された美術学校でさまざまな技巧を学ぶ機会を得た。イギリスのポップカルチャーの発展は、たまたま音楽と美術学校が結びついたわけではなく、互いの存在なくしては起こりえないことだったのだ。音楽的嗜好や「○○族」の一員であることをはっきりと公に示すことは、レコードや服を販売する以上の効果を生んだ。それが、自分がどこに所属しているかを伝える新しい言語となったの だ。「ティーンエイジャーは可能性に満ちた最高の時代よ」 ヴィヴィアンは言う。「ティーンエイジャーであることはどんな意味をもち、世間からどんなふうにみられているかをわたしたちが身をもって示したの。マルコムがのちに話した通り、わたしたちは自分のアイデンティティを模索していたのね」。グラフィック・アート、ファッション、音楽、そして、アイデンティティ。ヴィヴィアンの同年代のロンドンっ子はそのすべてをひとつに融合させた最初の世代だった。ファッション業界の内外で生まれた「族」が服を通して創造したもの。そこには、創り手たちの人生と同じだけの歴史とイギリスらしさにあふれた物語があった。

ヴィヴィアン・ウエストウッドもマルコム・マクラーレンも、アートを学んでいました。

特にヴィヴィアン・ウエストウッドは、そのアートに関する知見が彼女の作品に明確に影響を与えていますが、その背景には教育機会均等政策があったということです。

続きます。

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