前回、前々回に引き続き、ファッションデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッドの自伝から、興味深かった点をピックアップしてご紹介します。
|
パンクの父マルコム・マクラーレン
この写真でヴィヴィアン・ウエストウッドの左側に写っているのが、マルコム・マクラーレンです。
https://www.pinterest.jp/pin/291819250865705858/
ヴィヴィアン・ウエストウッドがパンクの母だとすると、マルコム・マクラーレンはパンクの父。
https://www.pinterest.jp/pin/42010209012267294/
マルコム・マクラーレンなくして、パンクは大きなムーブメントにはならなかったでしょう。
マルコム・マクラーレンは2010年に死去しています。
その後執筆された「ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝」は、著者によるヴィヴィアン・ウエストウッドへのインタビューがベースになっています。
つまり、本書で語られるマルコム・マクラーレン像は、ヴィヴィアン・ウエストウッドからの視点で描かれているということです。
そして、マルコム・マクラーレンは、良くも悪くも非常に癖の強い人物として描かれています。
(「ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝」から引用 強調引用者 以下同)
この本の中でマルコム・マクラーレンは、ヴィヴィアンの両親と同じくらいの存在感を放っている。彼のことを理解しようとしなければ、本当の意味でヴィヴィアンのこと―文化の殿堂における 現在の彼女の立場、あるいは、小学校教師からパンクの女王へと変身を遂げた事情も含めてを理解することはできない。それは、影響力のあった両親と過ごした生い立ちを知らなければ彼女の強さを理解することができないのと同じことだ。「ヴィヴィアンはマルコムにものすごく影響を受けた。 彼が姉の人生を変えたんだ」。 ふたりを引き合わせた張本人である彼女の弟ゴードンはそう語る。 「マ ルコムについてみんなはいろいろ言うけれど、彼がさまざまな人の人生を変えたことはたしかだよ。 僕の人生も変わったし、 ヴィヴィアンの人生も確実に変わった。 彼はおそらく自分と関わった人間すべての人生を変えたと思う」
ヴィヴィアンと出会う前のマルコムの生い立ちは、彼の性格形成と深く結びついており、ヴィヴィアンとの仕事にも確実に影響を与えていた。もっとも特徴的なのは、ゴードンも、ヴィヴィアンも、 そして、ジョーもそれぞれに指摘しているところだが、マルコムは直観力が強く、傷つきやすい性格だったことだ。そういう側面が、彼をときに魅力的にみせ、そして、ときに危うげにみせた。
自信過剰のくせに誰よりも愛情を欲しているというかなり厄介な性格の持ち主だった。そもそも彼が突飛な行動に出る原因はそこにあった。その根底に、人の目を幻惑させる花火を次々と仕掛けることで、完全に拒絶されることへの恐怖心に打ち勝ちたいという強い欲求があったことは疑いようもない。だからこそ、彼は、メディアを、自分の祖母を、ヴィヴィアンを次々と幻惑していった。しかし、彼の満たされぬ欲求は他人の成功に対する底知れない嫉妬心を刺激した。たとえ相手がパンク・ロッカーであっても、自分のパートナーであっても、我が息子であっても、例外ではなかった。自分の才能を肯定させ続けたいがために、ヴィヴィアンに自身の才能を完全に放棄するよう迫ったのも、ひとえに愛情に飢えていたがゆえの行動であった。さらに、ヴィヴィアンとの間の度重なる意見の激しい衝突も、ヴィクトリア&アルバート美術館のキュレーターを泣かせるまで追い詰めたのも、著作権侵害で自分の息子を裁判にかけると恐喝したのも、ファッションの歴史を変えるという偉業を共に成し遂げた女性の会社や功績を台無しにしたのも、すべてはそこに原因があった。
ヴィヴィアン・ウエストウッドが最初のパートナーと子を設け、そして離婚した後にマルコム・マクラーレンと出会いました。
ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンの間に子供が生まれますが、両親からの愛情を全く注がれずに育ったマルコム・マクラーレンは、いわゆる父親らしいことはほとんどしませんでした。
良く言えば自分の信じる道を進み、悪く言えば自分勝手な行動ばかりをしていました。
世間に衝撃を与えたいという欲求
マルコム・マクラーレンがやりたかったことはただひとつ。
世間に衝撃を与えること。
https://www.pinterest.jp/pin/388013324122098418/
どうすれば、皆があっと驚くかということばかりを考え、その考えに沿って行動していました。
そして、ファッションはそんなマルコム・マクラーレンの表現手段のひとつでした。
SM風スタイルは、世間に衝撃を与えたいというマルコムの状況主義者的欲求から生まれたものだが、それを通じて、ヴィヴィアンは抑圧や折檻について認識するようになった。そう考えれば、コルセット風スタイルや外出着として着る下着など、のちの彼女の奇抜で難解なアプローチにも納得がいく。彼女が生み出したパンク・ルックは、ジョン・ サヴェージがのちに書いているように、オリジナルと模倣品の両方のかたちで世界中に広まった。 クリッシー・ハインドは、パンクという形態は偶発的に生まれたのだろうという見解をもっている が、ヴィヴィアンはこれには否定的だ。おそらくは、当時の経済不況や節電のための週3日労働という無様な政策、ヒース政権の崩壊などを背景に、イギリス人の自尊心に翳りがみえはじめ、そんな状況が暴力的な反対行動を生み出したのだろう。
世間に衝撃を与えるのは、どんなファッションか。
マルコム・マクラーレンはそういったアイデアを考えます。
そして、それを実際に服として具現化したのがヴィヴィアン・ウエストウッドでした。
前回、前々回の記事でも触れたように、ヴィヴィアン・ウエストウッドはタータンチェックやハリス・ツイードなどの英国の伝統的なモチーフや素材を好みました。
次々と前衛的な発想を生み出すマルコム・マクラーレンを父に、そして英国の伝統を愛するヴィヴィアン・ウエストウッドを母にして、生まれたのがパンクだったのです。
ヴィヴィアンとマルコムがパートナーとして活動しはじめた頃は、創造性に満ち満ちていた。この 時期、彼らはファッションの世界に新たな表現方法を生み出し、それは結局のところパンクをしのぐものだった。Tシャツや着古したジーンズを引き裂いたり破ったり、「レトロ」ファッションを参考にしたり、さまざまなスタイルを織り交ぜたり、スローガンやアップリケを利用したり、「ブリコラージュ」(現代芸術の手法を真似て服にいろいろなものを貼り付けること)をしてみたり、ファッションの歴史を振り返っても以前には想像もできなかったような発想を次々と実行していた。
ファッションにおいて、窮屈さがそれに反発するエネルギーをもつという発想は、現在でもヴィヴィアンのデザインに反映されている。もちろん、 もっと広い意味で捉えれば、ストリート・ファッションに装飾として特別な意味もなくバックルやストラップがつけられるようになったのも、そのヴィヴィアンの発想がきっかけといえなくもない。彼女のファッションは強烈なインパクトをもち、それ自体に充分な宣伝効果があった。ジッパーにして も、SMファッションにしても、政治とポルノの影響を感じさせるアイテムだった。さらに、たとえばカミソリの刃のような暴力的印象をもつアイテムをアクセサリーとして使ったり(その場合は刃を爪やすりでつぶしてあった)、チェーンや安全ピンを小道具に利用したり、わざと生地をぼろぼろにし たり、汚れた布を使ったりと、ヴィヴィアンは人々にさらなる強烈なインパクトを与えるためにいろいろな手法に挑戦した。切れ目や裂け目を入れた布のことを、マルコムは「ダメージ加工した服」と呼び、ヴィヴィアンは「現代の英雄にぴったりの布であり、現代的思想が日々破壊されているショップに並べるにふさわしいものである」と語った。いずれにせよ、ファッションの常識的な流れとは相反するものであり、それこそが、ブティックという形態の中で誕生した「ストリート」の概念であった。カルト集団は成長を遂げた。パンク族は彼らの店で安息を感じた。70年代の半ばになると、キングス・ ロード430番地は、特定のファッションと音楽の聖地として世界中にその名が知られるようになった。
マルコムとヴィヴィアンが生み出したスタイル、パンク
マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドによって生み出された服は、今見てもとてもインパクトの強いものばかりでした。
その一番わかり易い例が、Tシャツのプリントです。
https://www.pinterest.jp/pin/13159023896414471/
性器が露出されていたり、タブーなモチーフを使っていたりと、まさにやりたい放題。
この記事に例として画像を掲載したいところですが、Googleから警告を受ける可能性が非常に高いので、やめておきます(↑の画像も危ないかも)。
気になる方は、「seditionaries tshirt」などのキーワードでググってみて下さい。
「当時は、竹を使っていろいろな言葉を描いていたわ。 セディショナリーズのTシャツみたいな感じね。紫のインクでポルノ雑誌からの言葉を引用していたの。バストのちょっと上のところに水平にスリットが入れてあった。足元は男物のウィンクル・ピッカーを履いた。 ペールブルーが色褪せて グレーになっていたけど。それに鮮やかな色のタイツを合わせるのよ。当時はそんな感じだったわね」 そして、これこそが、フェティシズムとブリコラージュとレトリスムと傲慢さを絶妙の配合で混ぜ合わせたパンク誕生の真相だった。ヴィヴィアンとマルコムは、「ホワイト・カラーにゴム製の服を売っていたと冗談を言っていたが、実際ショップに来ていたのは、プロムリー・コンティンジェント に代表されるサウス・ロンドンのクラブに通う比較的小グループの若者たちや、サイモン・「ボーイ」・ ベイカー、ビリー・アイドル、フィリップ・サロン、スティーヴン・セヴェリンなど威勢のいい若者たちで、他には、性的倒錯者やゴム・フェチなど、秘めたる趣味をもつ連中も足しげく店に通っていた。商売がここまでうまくいったのは、ショップやそこで働く店員たちの悪名のおかげであり、Tシャツのおかげだった。 ショップの内装やそこに置かれる他の商品は極端にセクシャルだったが、そこで売られていたTシャツ自体は単にそのイメージをまとっていたにすぎなかった。 都会のセックスの 深い闇が集まる場末の店に、マルコムとヴィヴィアンが見出した光は、マルコム自身に性とどう向き合うべきかを示唆すると共に、その後のデザインの可能性を決定づけることとなった。「最初は、テディ・ボーイとかロッカーとか、若者たちの反抗のスタイルに興味があってはじめたことだった。その既存のスタイルにわたしたちが性的な要素を持ち込んだの。それが、導火線に火をつけたのね」
パンクのユニークなところは、服装が、その時代の意義にきわめて不可欠な存在だったことだ。パンク・ミュージックは、実際には、ヴィヴィアンとマルコムがさまざまなアイディアを結集してつくりあげた「スタイル」にならって、後から生まれた。「わたしたちは誰かを非難したわけでもなければ、どこかのストリート・ファッションの焼き直しをしたわけでもない。わたしたちがはじめるまで、そもそもパンクというものは存在していなかったの」。ヴィヴィアンとマルコムはカルト集団に強い関心をもっていた。ヴィヴィアンはこう主張している。「わたしたちは自分たちの分身をつくり出した。どこかのストリート・スタイルから生まれたものじゃない。 まったく逆よ」。
ボンテージパンツの誕生
マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドによって生み出された、パンクを象徴するアイテムのひとつが、ボンテージパンツです。
https://www.pinterest.jp/pin/6755468174360927/
ヴィヴィアンは、そういう美意識を表現するひとつのかたちとして新たな概念でパンツをデザインした。生地にはタータンチェックを使用した。 タータンチェックは彼女がずっと愛してきたもので、その生地への彼女のこだわりは年を経てますます強くなっている。マルコムの提案で膝の部分に革ひもがつけられ、膝同士を縛り付けられるようになっていた。凶暴な囚人に着せる拘束衣 にみられるスタイルだった。彼女は会陰部の真下につながる部分にジッパーを縫いつけていた。これもまた、SMのような変態プレイからヒントを得ていた。ボンデージ・ケックスと呼ばれるそのパンツは、マルコムの言葉を借りれば、消費者中心主義に走る老舗ブランドのファッションに対する宣戦 布告であり、拘束に耐えることから生まれる「肉体の爆発」を意味していた。「そのボンデージ・パンツは綿糯子でつくったのよ」ヴィヴィアンは懐かしそうに語った。「そしたら、マルコムがストラップ を使うことを思いついた。後ろに小さなフラップをつけたほうがいいんじゃないかとも言ったわね。 彼にしてみれば、軽い思いつきだった。でも、そのときわたしは、パイルの粗いタオル地のほうがいいと思うと言い返した。今度は、彼が腰布のような民族衣装風がいいと言った。そんな具合で、互いに意見を出し合いながらスタイルをつくっていったの」。
ボンテージパンツは今もパンクファッションの象徴として愛され続けています。
https://www.pinterest.jp/pin/7740630599264727/
パンクファッションがムーブメントになりえた理由
ですが、ただ過激なだけではパンクファッションは大きなムーブメントにはならなかったでしょうし、誕生から50年が経った今でも支持され続けてはいなかったと、僕は思います。
前回の記事でも触れましたが、ヴィヴィアン・ウエストウッドが強く影響を受けたエリザベス女王や英国王室が持つ重厚な歴史から生まれる高貴さは、多くの人が憧れの対象です。
https://www.pinterest.jp/pin/423831014944963212/
https://www.pinterest.jp/pin/317011261270850914/
破天荒なマルコム・マクラーレンの過激な発想に、ヴィヴィアン・ウエストウッドが好む英国の伝統的な要素が加えられたことによって、パンクが多くの人に受け入れられるようになったのではないでしょうか。
https://www.pinterest.jp/pin/410320216020304441/
続きます。