昨日の記事では、僕がこの秋一番よく着たシャツをご紹介しました。
トップスの次はボトムス。
ということで、この秋一番よく穿いたパンツですが、それに関しては全く悩む必要なく、これだと断言できます。
今日の服装(7歳長男撮影)。
— 山田耕史 書籍「結局、男の服は普通がいい」発売中 (@yamada0221) 2022年10月30日
ワークマン×山田耕史「モンスターベスト」を初着用。
ラルフのブラックウォッチのシャツにドッカーズのチノという、トラッド寄りの服装にも意外と馴染みますね。 pic.twitter.com/tdpXbLfAvW
ドッカーズのチノパンツです。
ドッカーズブランド誕生についての論文を発見
当初、【普通の古着】でドッカーズをピックアップしようと思っていました。
ですが、その準備の為に下調べをしていると、「リーバイ・ストラウス社による「ドッカーズ」ブランドの導入」という論文を発見しました。
早稲田大学商学部の紀要論文でしょうか。1996年12月に掲載されたもののようです(リンク先PDF)
筆者の恩蔵直人氏は早稲田大学商学学術院長。
ウィキペディアによると「日本のマーケティング研究の代表的な研究者の一人」だそうです。
論文の主題は、ドッカーズがどのようにして生まれたかということ。
それも、ドッカーズを展開しているリーバイ・ストラウス社の歴史を踏まえた上での、非常に読み応えのある内容です。
そんなに長くないので、興味がある方は是非とも全文を読んでいただきたいのですが、今回の記事ではドッカーズに関する部分の要点を引用、編集してご紹介します。
落ち込み始めたジーンズの需要
これまで僕が認識していたのは、ドッカーズというブランドが生まれた背景には、リーバイスのジーンズの売上が減少してきたという理由があったということくらい。
ですが、この論文には当時の時代背景が更に深堀りされており、理解が非常に進みました。
まず、生じた問題は、落ち込むジーンズ需要をめぐるライバル会社との競争です。(強調引用者以下同)
1980年代の初頭になると、ジーンズの需要が落ち込みはじめ、市場に変化が生じはじめる。
都会的なイメージを持つ「リー」、強烈な西部のイメージを有する「ラングラー」、高価格でファッション性の高い「カルバン・クライン」「ビル・ブラス」「グロリア・バンダービルト」など、各ブランドが競争の土俵へ名乗りを上げてきた。
東部の都市部における競争は「リーバイス」にとってとりわけ不利で、重要な標的市場である15歳から24歳の若者層においても苦戦した。
この原因の一つには、ジーンズ市場の変化への対応が遅れたという点がある。
他のブランドがブリーチ製品を導入していたのに対して、リーバイ・ストラウス社ではノン・ウォッシュ製品にこだわり続けていた。
リーバイ・ストラウス社では“原点への復帰”をテーマとして掲げ、「501ブルーキャンペーンにより,ブランドの価値やイメージを伝達しようと試みた。
中心となるブランドの価値とは、自由、快適、普遍、独立といったもので、このキャンペーンには3,600万ドルが費やされた。
既存顧客には「501」の良さを再認識させ、新しい世代の顧客への浸透もはかられた。その結果、米国におけるデニムのジーンズ市場が縮小するなかで、「501」の売上高は1985年だけで2倍に膨らんだ。
1986年、経営陣は戦略方針に確信を得ていた。特に、このキャンペーンは都市部に住む15歳から24歳の層に受け入れられた。しかも、単に売上高を伸ばしたばかりではなく,「リーバイス」ブランドの中核価値を高めることにもなった(Keller 1995)
ジーンズを買う世代の人口が縮小する
リーバイスはブランドの再建に成功しました。
ですが、ジーンズを買う世代の人口が縮小するという未来が決定付けられていました。
だが、何も問題がなかったわけではない。
25歳から34歳までの米国男性が1年間に購入する平均ジーンズ数は2.5枚で,35歳から49歳では2枚強でしかない。15歳から24歳の4.5枚に比べると、この数値は著しく低い。
1980年における25歳から49歳の米国男性は3,680万人であった。
ところが1990年になると,この値は4,750万人に膨らむ。
つまり,ジーンズをあまり購入しない年齢層が拡大することになる。
1946年から64年までの問に生まれた約7,600万人からなるベビーブーマーの層は,「リーバイス」ジーンズとともに育った消費者といっても過言ではない。
彼らは、親の世代と好みやライフスタイルにおいてかなり異なっている。
もちろんファッションにおいても独自の嗜好を有している。
ファッションにうるさいが、同時に快適性も追求する。
ナイロンやポリエステルなどの化学繊維よりも、綿などの天然繊維を好むといった傾向もあった。
成長するスラックス市場
ジーンズに代わって市場で存在感を増していたのが、スラックスです。
1981年から1985年にかけて、小売り段階でのジーンズの売上高は11%滅少した。
これに対して,同じ期問のスラックスの売上高は19%も伸びた。
その結果、米国におけるボトムに占めるスラックスの割合は、1981年の33%から1985年の40%に増加した。
しかも,この傾向は依然として継続していた。
スラックス市場が成長しているにも関わらず、まだ有力ブランドは存在していませんでした。
スラックスのマーチャンダイジングは旧態依然としたままで、消費者は百貨店のスラックス売り場を最も魅力のない部門であるとみなしていた。
しかも、多くのブランドが乱立しており、有カブランドは存在していなかった。
例えば、ジーンズでは上位3ブランド(リーバイス、ラングラー、リー)で米国男性市
場の66%を占め、上位5ブランドでは75%にも及んでいた。ところが、スラックス市場においては、上位3ブランド(リーバイス,ハガー,ファラー)で25%しか占めていなかった。上位5プランドでみても35%に過ぎなかった。
支持される素材も変化していた。
1980年には100%ポリエステルのスラックスが59%を占めていたが、1986年には33%にまで減少していた。これに代わって、綿100%の天然素材のスラックスが伸びていた。
「ポロ」「ポール・スミス」など一部のデザイナーズ・ブランドは既に綿のスラックスを販売していたが,幅は細くゆったりとしたデザインではなく、価格も70ドル前後とやや高めに設定されていた。
スーツとウィークエンドの中間の服装、オフィス・カジュアル
更に、オフィスでの服装の規制暖和が進みます。
そういった時代の変化を捉え、リーバイスはオフィスカジュアルという新たなジャンルを開拓します。
リーバイ・ストラウス社にとって、見落とすことができないもう一つの大きな市場の変化があった。
それは1980年代中頃からはじまる服装の規制緩和である。
リーバイ・ストラウス社の1996年の調査によると、75%の米国企業が少なくとも週1回はカジュアルな服装でもよいことを認めている。
1992年におけるこの数値は37%なので、4年間で服装の規制緩和が急速に浸透していることがわかる(Himelstein 1996)。
カジュアル・ビジネスウェアヘの動きは、一過性の流行というファッション現象ではなく、ビジネスマンのライフスタイルをも変えてしまう大きなうねりとなっている。
スーツから解放されたビジネスマンは自分で服装を選び、服によっても自己主張していかなければならない。
オフィス・カジュアルの動きが生じはじめた1980年代の中頃、多くの人々は戸惑った。Tシャツにジーンズ、そしてスニーカーといったウィークエンドの服装で出杜するビジネスマンも少なくなかった。
スーツとウィークエンドの服装はあるが、その中間の服装がなかったからである。
リーバイ・ストラウス社では、新しいカジュアルウェアに対する潜在二一ズの大きさを認識し、オフイス・カジュアルというコンセプトを打ち出した。
ジーンズよりはフォーマルでドレス・スラックスよりはラフ
リーバイスが見出したのは、ベビーブーマーに向けての、オフィスカジュアルとしてのスラックスという空白市場です。
リーバイ・ストラウス社で、ジーンズから離れていくベビーブーマーたちをどのように取り込んだらよいのかについて検討した。
そして、いくつかの案が浮かび上がった。そのうちの一つが、新しいカジュアル・スラックスのラインを追加することであった。
リーバイ・ストラウス社において,スラックスは1950年代より販売されていた。だが,既存のラインでは25歳から49歳の男性客を十分満足させることができなかった。
ジーンズから派生してくる「リーバイス」のブランド・イメージにも問題があった。
他のブランドに比べて,「リーバイス」のスラックスはカジュアルであるとみなされていた。「リーバイス」というブランド名は、スラックスヘ100%プラスに働くわけではなかった。
そこで、マーケティングの観点より、市場細分化の必要性が認識されつつあった。
消費者の二一ズに応じ,リーベイスが市場リーダーとなるためには、“ニュー・カジュアル”といった新しい製品カテゴリーを創造する必要性が認識された。
ジーンズよりはフォーマルで、ドレス・スラックスよりはラフという位置づけである。
素材は綿100%で,トップはゆったりとしているが足の部分は狭く,複数の色が予定された。
インシーム・(股下)サイズもウエスト・サイズと同様にバリエーションを豊富に揃え、寸法直しをすることなく、その場ではいて帰れるようにした。
男性パンツ市場において、まさに空白となっていたポジションである。
同時に,こうしたパンツのコンセプトは,ベビーブーマーたちのニーズにも合致したものだった。
リーバイ・ストラウス社では,このパンツが“ニュー・カジュアル”というカテゴリーにおける事実上の標準となることを望んだ。平均的な価格は当初32ドル(96年時点では42ドル)だった。
時間を超えたスタイル
ターゲットとして設定されたのは,次のような特徴を有する消費者層である(Keller1995)
・25歳から49歳のベビーブーム世代の男性
・平均以上の所得
・都市部に居住
・大学卒業以上の学歴
・ファッションに気を配るが流行を追わない
・自分で服を選ぶ
・百貨店や専門店を好む
・「リーバイス」ブランドが好き以上を考慮して、
「時間を超えたスタイル」
「ドッカーズをはいた人物は、ファッションモデルのように非現実的ではない」
「現実的で身近な感じ」
といったイメージが重視された。
仕事にも週末にも適したパンツであることも訴えられた。
キャッチフレーズは、「リーバイスによる100%綿のドッカーズ。ドッカーズでなければ、ただのパンツにすぎない」であった。
100%綿というフレーズは,素材面でジーンズとの連想を形成することに役だった。
こちらはドッカーズが始まった頃と思われるビジュアル。
オフィス街らしき場所を歩く男性が着ているのは、おそらく長袖のポロシャツ。
手にしているのはおそらくジャケットでしょう。
そして、「A Guide to Casual Businesswear」というキャッチコピー。
カジュアルビジネスウェアの手引、といった意味合いでしょうか。
A short history of Dockers - Dockers Shoes
こちらは1992年のビジュアル。豊かな休日を想起させる草原らしき場所。
写真の下には「Dockers casual pants &knit shirt」とあるので、インナーのニットもドッカーズの商品だと思われます。
https://twitter.com/Vint_Mag_Ads/status/1345751708081778689
西海岸の港を愛する男たち
ドッカーズというブランド名に至るまでには、こんなエピソードがあります。
この新製品の導入にあたり,ブランド名やシンボルをどうするのかといった問題が議論された。
男性服事業部では,「リーバイス・パンツ」どいった安易なブランド名を採用できないことはわかっていた。
ジーンズ・ブランドとしての「リーバイス」のイメージを損なうことなく,「リーバイス」のブランド名をどのように利用するのかという点が議論の焦点となった。
ちょうどその時、製品企画担当者の一人がリーバイ・ストラウスジャパンによって販売されていた若者向け綾織りパンツ「リーバイ・ドッカー・パンツ」を持ち帰った。
男性服事業部では、この「ドッカー」という名称を気に入ったが,英語の表現として適切ではなかった。そこでSを加えて「ドッカーズ」というブランドに決定した。ドックは船渠や桟橋といった意味で、「ドッカーズ」には西海岸の港を愛する男たちの意味がある。
他の製品と結びついたイメージを持たないだけに、独自のブランド・イメージを形成しやすいという長所があった。
シンボルに関しては,錨と翼を基本にデザインされた。その中には「DOCKERS」のロゴが組み込まれている。「リーバイス」というブランド名は直接用いられることはなかったが,シンボルの中にLS&COという社名のロゴが小さく刻まれていた。
https://www.pinterest.jp/pin/1136525655999842648/
アメリカの「普通服」になったドッカーズ
こうして生まれたドッカーズは、大ヒット。
「ドッカーズ」は発売から8年で、年聞10億ドルを売り上げる有カブランドにまで成長した。
この数値は、リーバイ・ストラウス社の年間総売上高の約6分の1に相当する。
18歳から49歳の男性の70%が平均3.6本の「ドッカーズ」を所有するという、まさにアメリカのスタンダードアイテム、つまり「普通服」としての地位を築き上げます。
米国における調査によると、発売後わずか10年で、18歳から49歳の男女の92%が「ドッカーズ」というブランド名を認知し、18歳から49歳の男性の70%が平均3.6本の「ドッカーズ」を所有しているという(ニューズ・ブリーフ 1995)。
そして、ドッカーズがアメリカの「普通服」であるという認識は、ブランドがデビューした36年の時を経た今でも変わっていないようです。
こちらは、ドッカーズが展開する「メイド・イン・USA」ラインのキャンペーンに、NBAゴールデンステート・ウォリアーズのジョーダン・プールを起用した、というニュース。
この記事でジョーダン・プールは「ドッカーズのような日常的な必需品(everyday essentials)のアイコンを表現することは、私にとってエキサイティングなことです」
と語っています。
日常的な必需品。
また、ジョーダン・プールはこうも語っています。
「この服は、よくできていて、簡単で、スタイリッシュで、誰でも着ることができ、共感できるものです(The clothes are well made, easy, and stylish, and anyone can wear them and relate to them)」
こういったコメントはおそらくブランドが用意したものでしょうが、ドッカーズが目指す、ブランドのあるべき姿を現していると言えるでしょう。
日本でのドッカーズの展開
さて、話を1990年代に戻しましょう。
ドッカーズは海を超え、日本にもやってきます。
服装における規制緩和の風潮は日本にも浸透しつつある。
また、団塊ジュニアと呼ばれる1971年から1974年の4年問に生まれた810万人が,ジーンズを卒業しようとする年齢に達している。
日本市場においても,リーバイス社は、マーケティングにおける大きな転換期に直面しているといえる。
ドッカーズの店舗は百貨店を中心に展開されていました。
日本における「ドッカーズ」ブランドの販売は、1995年8月に三越恵比寿店でスタートとした。
その翌月には小田急百貨店新宿店で販売を開始し、1996年に入ると三越札幌店、三越銀座店、東武百貨店池袋店、横浜そごうなど、百貨店を中心に販売経路を拡大していった。
また、青山にオンリーショップができるなど、高級感のあるブランドイメージを打ち出そうとしていたと思われます。
1996年3月には、北青山にドッカーズ製品を中心に扱う「ドッカーズ・ショップ」がオープンした。1996年10月までに,全国で24店舗が展開されている。
そして、インポート好きの多くに歓迎されたであろう、「世界標準」というキーコンセプト。
日本への導入に当たってのキーコンセプトは「世界標準」である。そのため、日本向けのアレンジは特になされていない。
しかし、今回調べてみると、「日本独自の製品」が展開されていたという記述も発見しました。真相はどうだったのでしょうか。
「ドッカーズ」は ‘LEVI'S’のチノパン・ブランドで,「ドッカーズ・ジャパン(?)」は日本独自の製品も作っていて,家人は その女性用を 地下鉄銀座線・外苑前駅近くの青山通りに面した角にあった青山店で何本か買って愛用していました。
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残念ながら、ドッカーズは2007年に日本を撤退します。
なので、現在日本でドッカーズを一番手軽に入手するのは古着ということになります。
ということで、次回は【普通の古着】の視点でのドッカーズをご紹介します。