山田耕史のファッションブログ

ファッションは生活であり、文化である。

【1997年】ハイテクスニーカーブームの“始まり”と“終わり”を告げた広末涼子と、「スニーカー秋の時代」だから生まれた名作の数々。【Hot Dog PRESS】

目次

 

「今かけたい」アイウェア、キラーループ

今回ご紹介するのは『Hot Dog PRESS』1997年5月10日号です。

表紙は広末涼子さん。彼女が持っているヴァンズのチェッカーフラッグ柄のスリッポンは、今号の内容の象徴になっているのですが、詳しくはまた後ほど。

巻頭の小ネタページ。

キラーループってアイウェアブランド、ありましたよねぇ。当時同じく人気だったアイウェアブランド、ブリコを思わせる、ゴーグルのようなフォルム。メタルがあしらわれたデザインなど、「今かけたい」と感じる雰囲気ですが、調べてみると現在はキラーループのブランドは展開していないようです。

左側の、「ワールド・ワイド・ウェブ」というイタリアのブランドもかなり今気分なデザイン。ですが、こちらももうブランドはなくなっているようで、掲載されているURLには何もありませんでした。

右ページは当時人気だったG-SHOCKの広告。

ミノルタから発売されていた、「エンジェルシリーズ」というカメラ。こちらもいい感じのデザイン。

右ページ、MDソフト広告。当時、MDは使っていましたが、こういうMDソフトは買ったことがありませんでした。やっぱりCDでしたね。

 

1997年は“シューズ戦国時代”

さて、ここからが本編。

“シューズ戦国時代の本命を探せ!”という特集です。

そしてその特集タイトル下に、1997年当時のスニーカーの状況が簡潔にまとめられています。(強調引用者以下同)

ストリートでシューズ・バトルに大きな変化がおきている。エアマックスをはじめとするハイテクスニーカー人気からシンプルスニーカー、レザーシューズへと流れが変わり、三つ巴の戦いになっているのだ。

1990年代を代表するファッションムーブメントである、ハイテクスニーカーブーム。そして、それを牽引したのが、言わずと知れたナイキのエアマックス95でした。

https://www.pinterest.jp/pin/939070959776176526/

ちなみに、1980年生まれでファッションに興味を持ち始めた高校生だった僕は、周りに特にファッション通の友人はいませんでした。

なので、『Hot Dog PRESS』や『POPEYE』などのファッション誌が当時の僕にとって最も影響力が強い、ファッションの情報源でした。

ハイテクスニーカーブームに乗っかった僕が、地元神戸三ノ宮センター街の靴屋でこのエアマックストライアックスエキストラを買ったのが、おそらく1996年の夏頃だったはずです。

 

圧倒的人気のシンプルスニーカー

誌面では“渋谷・原宿・アメ村でキャッチ&スナップしたシューズチャンプ200人を徹底調査!”しています。そして、1997年当時のオシャレさんが履いていたのが、シンプルスニーカーだったのです。その中でもオールスターやジャックパーセルなどの、コンバースが50%と圧倒的な支持を集めています。

そして、シンプルスニーカーの次に着用率が高かったのがレザーシューズです、その三傑はアイリッシュセッター、ワラビー、ビルケンシュトック。レザーシューズの内容については後ほど詳しくご紹介します。

着用率21.5%のハイテクスニーカーの中では、ナイキが圧倒的な人気

そして、“次に欲しいシューズは?”という質問に51%がシンプルスニーカーを、34%が“レザーシューズ”を挙げています。

 

シンプルスニーカー・レザーシューズ人気を先導したのは藤原ヒロシ?

では、なぜ1997年のストリートではシンプルスニーカーの人気が高まっていたのでしょうか。ストリートからは“安くて、種類が豊富で合わせやすい”という声に加え、“裏原系に支持されているのは、藤原ヒロシの影響か彼らはトータルな着こなし重視で足元は極力シンプルが鉄則だ”とあります。

そう言えば、藤原ヒロシさんがエアマックス95などのハイテクスニーカーを履いているイメージってありません

こちらの1996年の写真のように、レッドウィングなどのレザーシューズや、コンバース、プロケッズなどのシンプルスニーカーをよく着用していた印象があります。

https://www.pinterest.jp/pin/1022528290370478364/

1996年から1997年は裏原系の人気がより広く拡大していた頃だったので、藤原ヒロシさんのファッションも影響力が強くなっており、それによりストリートでのシンプルスニーカーの着用率も高まっていたのかもしれません。

 

本当に好きな人たちだけが残った“ハイテク支持派”

この頃は少数になっていた“ハイテク支持派”は“各ブランドの新作が欲しいコ達とジョーダンシリーズなどヴィンテージ物が欲しいというコ達”に分かれていた、と書かれています。つまり、ハイテクスニーカーブームが終了して、1997年当時ハイテクスニーカーを支持していたのは、本当にハイテクスニーカーが好きな人たちだけが残った、というのが1997年の状況だったのでしょう。

 

ハイテクスニーカーブームの反動のシンプルスニーカー人気

次ページからは、それぞれのカテゴリにおいて「次に狙っている」シューズのランキング

“次に欲しいシューズ第1位”のシンプルスニーカーは“オールスターがダントツ!!”。ストリートでは“形はとことんシンプルがいい”と、エアマックス95やポンプフューリーなどの複雑なデザインが人気だったハイテクスニーカーブームからの反動で、シンプルスニーカーを求めていたようです。

とはいえ、スニーカー自体が重要なファッションアイテムであることは継続していたようで、“鮮やかで派手めのもの”が人気だったとのこと。

次に狙っているシンプルスニーカー第2位はコンバースジャックパーセル。

第3位以降はヴァンズのスリッポンヴァンズのジャズアディダスのスタンスミスが続きます。

 

「どのスニーカーがどこでいくらで買えるか」は重要な情報

それぞれのシューズ支持者のストリートスナップも掲載されています。向かって左の彼は“今はオールスターに凝っていて、自分のオリジナルを作ったりしています”と、“ヒョウ柄の布を自分でつけたオリジナル”を着用。はっきりとした時期は覚えていないのですが、僕がコンバースオールスターの生成りを買って、自分でピンク色にペイントしていたのもおそらくこの頃だったのでしょう。

ウェアの詳細は記載されていませんが、裏原系っぽいスタイルの人がシンプルスニーカー支持層の中心だったようです。

長袖のスウェットにハーフパンツという、個人的に裏原系のイメージが非常に強いコーディネート。

“¥9,800で買った麻のオールスター”。そう言えば、こういう異素材のオールスターは最近あまり見ていないような気がします。

購入価格が記されているのも、当時ならでは。当時のスニーカー市場は並行輸入やプレミア価格など、定価があってないような状況だったので、「どのスニーカーがどこでいくらで買えるか」は重要な情報でした。

 

伝説的な藤原ヒロシとレッドウィングのエピソード

次のページはレザーシューズとハイテクスニーカー。

レザーシューズの次に狙っているランキングは、1位がアイリッシュセッター、2位がワラビー、3位がビルケンシュトック。アイリッシュセッターはもちろんレッドウィングの商品。ですが、ワラビーはクラークスのものに限ってはいないようです。

“レザーシューズ第1位のアイリッシュセッター。人気のカラーはダントツ黒だ”

この黒のアイリッシュセッターの人気も、藤原ヒロシさんが強く影響を与えています。

藤原ヒロシさんによるメンズノンノの連載「ア・リトル・ノーレッジ」の1996年3月号で、ソールをホワイトにカスタムしたブラックのアイリッシュセッターを藤原ヒロシさんが着用して披露し、レッドウィング社に問い合わせが殺到したため、商品化されたという、伝説のようなエピソードです。

www.mensnonno.jp

そして第2位はワラビー。“ワラビータイプは、各ブランドから出ているが、一番人気はクラークスだ”とあり、今の感覚からするとむしろ様々なブランドがワラビータイプのシューズを出していたことのほうが意外ではないでしょうか。

第3位のビルケンシュトックは“巷でウワサ”“ますます人気に火が付きそう”と、だったようです。

次に狙っているシューズの第3位、ハイテクスニーカーは“今の現状はかなり落ち着いた”“ブームは去ったといわれる”など、やはり1997年5月の段階でブームが既に終焉していたことがわかります。ハイテクスニーカーで、圧倒的人気を誇るのはやはりナイキ。

そしてリーボック、アディダスと続きます。アディダスは“この春リリースされたウォーターモカシンが注目されている”とのこと。

このウォーターモカシン、確かに当時大人気でした。

こちらは2年後の『Hot Dog PRESS』1998年3月10日号に掲載された、大阪でのストリートスナップ。

こんな感じで古着にウォーターモカシンを合わせたスタイルを、大阪のアメリカ村とかで男女問わずよく見掛けた記憶があります。

当時はバリエーションも数多く展開されていました。

レザーシューズ、ハイテクスニーカー支持層のストリートスナップ。

裏原系が目立っていたシンプルスニーカー支持層よりも、ファッション的にバリエーションに富んでいる印象。

アイリッシュセッターは“アメ村で¥29,800”“町田の古着屋で¥45,000”と、購入価格にかなり開きがあります。

ハイテクスニーカー支持層。とはいえ、この特集ではエアジョーダンやターミネーターなどの、80年代のバスケットボールシューズもハイテクに分類されているようです。

 

ハイテクスニーカーブームが終わった時期

では、ハイテクスニーカーブームが終わった時期について、他の資料からも検証してみます。

参考にしたのは、当時のスニーカー関係者の証言を数多く収録した書籍、「東京スニーカー史」です。

amzn.to

オープンから半年くらい経って狂騒は収まっていく。

この“オープン”とは、1996年9月21日に新宿に開店したナイキ直営のナイキショップのこと。

“狂騒”はもちろん、エアマックス95に端を発したハイテクスニーカーブームのことです。

1996年9月から半年後、つまり1997年3月頃には“狂騒は収まって”いたということです。

で、『Hot Dog PRESS』1997年5月10日号が発売されたのは1997年4月、誌面の内容が取材されたのは3月頃でしょう。

なので、から、「1997年3月頃にはハイテクスニーカーブームが収束していた」いう見解が、『Hot Dog PRESS』1997年5月10日号と「東京スニーカー史」で共通しています。

 

エアマックス95がブレイクした瞬間を特定する

また、こちらの過去記事で詳しくご紹介していますが、ハイテクスニーカーブーム(=エアマックス95のブレイク)が本格的に始まったのは、1996年初頭からです。

www.yamadakoji.com

上掲の「東京スニーカー史」の著者でもある小澤匡行さんの書籍「1995年のエア マックス」では、エアマックス95がブレイクに至るまでのストーリーが細かく紹介されています。

amzn.to

エアマックス95は、そのデザインの奇抜さから発売当初はほとんど注目されていませんでした。

当時の『Boon』は、ナイキジャパンから新作のサンプルを借り、それを発売前に誌面で紹介していた。しかし1995年の「エア マックス」について紹介された誌面を見れば、お粗末な写真に、わずかなキャプションが添えられた程度に過ぎなかった。
専門誌である『陸上競技マガジン』(ベースボール・マガジン社)でも、1994年に「マルチチャンバー エア」を初搭載した「エア マックス スクエア ライト」が発売になった際には編集タイアップや純広告によりつまびらかに解説していたのに対し、本作に関しては純広告のみ。特集などはまったく組まれなかった。
そのようにして1995年6月、静かに日本で発売された新作の初速は、全国的に見ればかなり緩やかだった。

ですが、ファッション感度の高い人が集まる原宿界隈では、1995年6月の発売当初からかなり注目されていたようです。

ただ原宿界隈の販売店舗に限っては、在庫の少なさも影響して、当初からハイスピードで売れていったという。特に、一連のスニーカーの傾向をしっかりと捉えていたファッション業界人は、ハイテクとアウトドアが結びついた斬新なルックスを見逃さなかったと思われる。
イエローグラデが発売された、約半年後に2ndカラーが投下される。メンズは通称「ブルーグラデ」、ウィメンズはフットロッカー限定の通称「ネイビーグラデ」。この発売あたりから少しずつ世間が騒がしくなっていく。緩やかに売れていったイエローグラデが全国のスポーツ店の棚から姿を消したことで、新色のリリースに注目が集まったのである。

原宿が震源地となったエアマックス95の人気は、徐々にその規模を広げていきます。

年始まもなく発売された3rdカラーは、メンズは通称「レッドグラデ」、ウィメンズは「ブルーボーダー」。続く4thカラーはメンズが「ブラックボーダー」、ウィメンズは「パープルボーダー」。4thカラーではボーダー柄を取り入れており、それまでの地層をイメ ージしたアッパーのデザインからの変化が見られた。
著者の記憶では、本格的に日本で人気が爆発したのは、3rdカラーだった。 「レッドグラデ」は『週刊朝日』(朝日新聞社。現在は朝日新聞出版社)の表紙で木村拓哉が、「ブルーボーダー」は広末涼子がドコモのポケベルのCMで着用した。特に決定的だったのは、後者のCMである。

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=423925765

木村拓哉さんが表紙の『週刊朝日』は1996年1月5・12日合併号です。

 

エアマックス95着用の広末涼子のCM放映開始時期は?

そして、広末涼子さんによるNTTドコモのポケベルのCMがこちら。

youtu.be

履いてます。

エアマックス95ブレイクの時期を特定するために、このCM放映開始時期も調べてみたのですが、1996年であることははっきりとしているものの、放映が開始された月日までは判明しませんでした。

少しでも手掛かりがあればと、このCMの最後に映るポケベルのモデルを頼りに調べてみました。

すると、“ドコモのポケベル’96”の表記がある、広末涼子さんのNTTドコモのポスターを発見。

この続きはcodocで購入