山田耕史のファッションブログ

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【歴史から知るヒッピー】ベトナム戦争、公民権運動、そして、サマー・オブ・ラブ。

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こちらの記事の続きです。

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1950年代、第二次世界大戦後に経済的には拡大しながらも、ソ連との冷戦などの影響により、アメリカ国内に閉塞感が蔓延し、社会に不安を抱く人が増えたことから、ビートというカルチャーが生まれたことをご紹介しました。

 

「アメリカの正義」に疑問を持つ人が増える

1961年に第35代アメリカ合衆国大統領大統領に就任したジョン・F・ケネディは、ベトナムへのアメリカ軍の派兵を拡大します。

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「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止める」という名目のもと、アメリカ正規軍からなる特殊作戦部隊600人を派遣し、クラスター爆弾やナパーム弾、枯葉剤を使用してゲリラ掃討作戦を開始。その後、アメリカ海兵隊や爆撃機や武装ヘリコプター、戦車などの装備も送るなど軍事介入を拡大させますが、事態は好転しませんでした。

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そんなベトナムでの戦争の様子は、普及が進んだテレビによって世界中に報道されます。圧倒的な物量で北ベトナムを爆撃するアメリカの爆撃機や、逃げ惑うベトナム市民が報道されることで、「アメリカの正義」に疑問を持つ人が増えるようになりました。

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 環境問題への関心の高まり

ベトナム戦争では、ジャングルに隠れるゲリラをあぶり出すために、枯葉剤がアメリカ軍によって撒かれました。元々は除草剤として開発されましたが、化学兵器として軍事利用され、枯葉剤が撒かれた地域では奇形児出産の増加など、健康被害が多発します。

1960年代の日本では、水俣病やイタイイタイ病などの公害病に代表される、環境問題が深刻になりましたが、経済発展を続けるアメリカも同様で、1962年に「沈黙の春」という、DDTをはじめとする農薬などの化学物質の危険性を指摘した書籍がベストセラーになりました。

また、増加する自動車の排気ガスによる大気汚染や、河川の水質汚濁などもあり、環境問題への関心が高まっていました。

 

公民権運動

1950年代からアメリカではアフリカ系アメリカ人公民権運動が盛んになります。

アメリカではイギリス人がアメリカ大陸に入植した17世紀に奴隷制度が導入され、19世紀にかけておよそ1,200万人が政府とその委託を受けた業者により、アフリカ大陸から誘拐され、強制的にアメリカ大陸に連行されていました。

1861年には奴隷制度継続の可否を巡ってアメリカ国内を南北二分して争われた南北戦争が勃発し、エイブラハム・リンカーン大統領が奴隷解放宣言を出すなど進歩は見られますが、最高裁が事実上人種差別を容認する判決を出すなど、アフリカ系アメリカ人が自由と権利を手にすることはありませんでした。

 1950年代に入ると、アメリカ各地で人種差別に対する運動が活発化します。1955年に、アラバマ州でバスで後から乗ってきた白人に席を譲るらなかった黒人女性が人種分離法違反として逮捕、投獄され罰金刑を宣告されます。これに対し、マーティン・ルーサー・キング牧師はモンゴメリー市民にバスをボイコットするよう呼びかける運動を始めます。この呼びかけは黒人だけでなく、他の有色人種や白人にも共感を持ち、運動に参加をします。この運動はアメリカ全土でも反響を呼ぶようになり、1956年には最高裁でバス車内における人種分離は違憲であるという判決が出され、反人種差別運動は更に盛り上がりを見せます。

有色人種の立ち入りを禁止したり、人種別の出入り口や人種別の席を設けている図書館やスケート場、プールなどの施設に対して、シットインという座り込みで抗議をするなど、ボイコットの他にも非暴力的な手段での抗議活動が拡大します。

こういった公民権運動は1963年のワシントン大行進で最高潮に達します。キング牧師の呼びかけに応じ、人種差別や人種隔離の撤廃を求め20万人が参加したデモで、俳優のマーロン・ブランドやミュージシャンのボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーなどの有名人も参加しました。「I Have a Dream」で知られる有名なキング牧師の演説は、このワシントン大行進のときに行われたものです。

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この結果、1964年に公民権法が制定され、あくまでも法の上ではですが、人種差別はなくなりました。

 

フラワーパワー

この公民権運動は、泥沼化していたベトナム戦争に対する反戦運動にも影響を及ぼします。同じく活発化していた大学生の学生運動とも結びつき、全米中で反戦デモが開催されます。

1967年にはワシントンで最大規模の反戦デモが開催されます。デモ参加者と警備隊の衝突も起こり、逮捕者も出るなど緊迫した雰囲気の中、警備隊が構えるライフルの銃口に1本ずつカーネーションの花を差していく若者が現れます。

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この写真に冠せられた「フラワーパワー」1967年にサンフランシスコから発生したムーブメント、サマー・オブ・ラブを象徴する言葉で、ビートの中心人物であるアレン・ギンズバーグが提唱したと言われています。

 

サマー・オブ・ラブ

サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区は以前は高級住宅地でしたが、時代を経て一帯が古び、家賃が安くなり、1960年代初頭頃からビートニクたちが住み着くようになり、新しい文化の発信源となりました。全米から若者が集まり始め、1966年の6月には1万5千人の若者たちがヘイト・アシュベリーに移住します。

その多くは中流階級出身で、金銭的な余裕がある上に、ヘイト・アシュベリーが面するゴールデンゲートパークではディガーズというゲリラ集団がスーパーマーケットやレストランの売れ残りを無料で配り、宿泊先も提供していました。

1967年の6月に野外コンサート、モントレー・ポップ・フェスティバルが開催され、この夏のヘイト・アシュベリーには5万人とも10万人とも言われる若者たちが集まります。ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリン、ザ・フー、グレイトフル・デッドなども参加したこのフェスティバルのために「花のサンフランシスコ」という歌も作られ、ヒット曲になります。

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For those who come to San Francisco
サンフランシスコにやって来る人たちへ
Be sure to wear some flowers in your hair
頭に花を着飾って行くといい
If you come to San Francisco
もし君がサンフランシスコへやって来るなら
Summertime will be a love-in there
そこで過ごす夏休みは愛すべきものになるだろう

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こうして、1967年にヘイト・アシュベリーに中心として生まれた社会現象がサマー・オブ・ラブと呼ばれ、その中心となった既成社会の保守的な価値観を否定し、非暴力的かつ精神的な方法で世界を変えようとした若者たち、およびそのムーブメントをヒッピーと呼びます。

次回に続きます。

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参考文献: